シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

紫陽花

2007-06-27 22:38:05 | 今日の出来事


私は近くの神奈川県立七沢森林公園の中の「森のアトリエ」で陶芸を楽しんでいる。此処は四季折々の自然が存分に楽しめる場所でもある。
今日は梅雨の代表的な花「紫陽花」の一番見時だった。その撮れたての一枚。

日露親善

2007-06-22 08:13:39 | シベリア抑留
遠峯エレーナ様のコメントに関して

前々回のアップに対して遠峯エレーナ様より貴重なコメントを頂いた。勿論列記頂いた帰還兵探し、ご協力致します。

今回は父親をシベリア抑留で亡くした遺児、私自身のこれまでの心の動きをご紹介しょう。

2003年7月の初めてのシベリア墓参時は、先ず新潟から「ロシア人に騙されるな、裏切られるな」と言い聞かせながら(ご存知のように「東京ダモイ」帰国させると騙されて満州からシベリアへ連行された)出掛けた。
ハバロフスク空港に美人ガイドが出迎えて呉れたが、「此処でこいつ等に親父の殺されたのか」と口も利かなかった。
埋葬地で供養をし、チタ、イルクーツクと廻り6日目にハバロフスクに帰った時、又同じガイドが出迎えて呉れた時はには、美人に弱い性もあるが「悪いのはスターリンで、ロシア人が皆悪い訳ではない」とトーンダウンしていた。

翌2004年日本遺族会の「旧ソ連慰霊友好親善訪問団」に参加した。何が友好親善団だと思いながら、慰霊巡拝の為歯をくいしばって参加した。その行程の中に各自が文房具や衣類などを持参して、チェレンホーボの孤児院を訪問した。私はそのプレゼンターをさせられ、「俺も孤児だよ」と言いたくなったが、何とか無事に役目を果たした。

その後、親友が「ロシアへ旅行する」と連絡して来た。多分私が幾度も出掛けるからだろう。私は「あんな国へ金を落とす事はない、俺は遊びに行っている訳ではないんだ」と電話を切ってやった、勿論友人を一人失った。

しかし私の周辺は皆、良く出来た人ばかりで、「怨念を越えて」と言われ、行動されている。そろそろ私もと今年の墓参時、夏休み中ながら小学校を親善訪問すべく町長を通じて手配した。

エレーナさんご紹介のチタでアレクサンドロビッチさんにもお会いしたいものである。

シベリアに逝きし人々を刻す

2007-06-21 18:52:59 | シベリア抑留

ソ連抑留中死亡者名簿 約46,300名を収録

このBLOGで2月10日に取り上げた、村山常雄様の編・著 『シベリアに逝きし人々を刻す』が7月17日に発行される。

http://yokuryu.huu.cc/tirasilink.html

私は既に申し込み、代金振込みを済ませ、到着次第仏壇へお供えしたいと来月17日を待って居ります。

村山常雄様のこれまで10年余にわたる大変なご苦労に対し厚く御礼申し上げます。


忙中閑を求めて

2007-06-19 20:32:04 | 今日の出来事


連日欠かさずアップしていた「シベリアの慰霊碑」が終わり、ひと休みしていたら、アクセス数がガタ落ち
数年前の「満洲旅行記」を写真中心で・・・などと考えて見たが、これも日記風にあらず、BLOGには不向き、いっその事ホームページにしようか等と考えて居る
今夏のシベリアへ出掛ける件で今日もシリオスなやり取りあり・・・頭を冷やそうと、とりあえず「里芋を自作の抹茶茶碗に入れ、水を上げておくだけで」こんなに成りましたお話でした。

シベリア抑留死亡者慰霊碑20

2007-06-10 06:55:44 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑20

慰霊碑:      平和慰霊公苑
所在地:      ハバロフスク郊外、町の北クラスノフローツキー地区
敷地面積:     約15,000平方メートル
竣工年月日:    平成7年7月31日
総工費:      約1億200万円
碑の形状:     最大直径20Mの円形の基壇に縦横各10M、高さ5Mの正方形を配置した、総煉瓦張り。
碑文: さきの大戦の後
1945年から1956年までの間に
祖国への帰還を希みながら
この大地で亡くなられた
日本人の方々を偲び
平和への思いを込めて
この碑を建立する
前回までの表題「チタ州民間建立慰霊碑」ではないが、日本政府が各国に一つ建立している慰霊碑、ロシアは裏玄関のハバロフスクにある。2003年1月に小泉元総理大臣が訪れ、献花し、黙祷をささげた。
今後ご要望により、チタ州内の碑のない埋葬地、収容所跡など取り上げて行きたいと思う。

シベリア抑留死亡者慰霊碑19

2007-06-09 06:53:20 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑19

収容所・埋葬地名: 第1346野戦病院、厚労省整理番号3043、3044
所在地:      ヤブロノーワヤ
収骨状況:     昨年7月21日―8月7日に遺骨収集が行われた、63柱収集され、8月8日に千鳥が淵墓苑に収められた。尚、この政府派遣遺骨収集事業には靖国神社の主典が参加された。只今DNA鑑定中。
埋葬地の現況:   2004年8月25日慰霊巡拝で訪れ、此処で父上を亡くされた方お二人の為に仮設祭壇を設け個人追悼式を行った。
「広過ぎて分らない」と聞き、「ならば、何百人でも、何千人でも投入して、何年掛かっても探すべきだ」と怒りを感じた。国が引っ張り出したのである、国の為に死んだのである、何にも優先する人道的な問題である。
上の写真で2ケ国国旗の後方の木に高さ3メートルぐらいのところに造花が掛かっているのが見えるが、その時は何の説明も無く誰も分らなかったが、これが遺骨収集の目印だったのかと今になって気付く。
チタ市から幹線道路を西に45分走った所を右折し25分走り正味1時間で到着。炭鉱で木材伐採地と聞くが、山火事があった所で広い広い草原だった。
戦争もしないのに野戦病院と云うのもおかしな話、薬も無く回復するのは体力のみだったと聞く。
私はここは終始ビデオ撮影だったので団体の集合写真を使わせて頂く。

呉越同船「パセリ会」

2007-06-08 21:31:39 | 今日の出来事


先週1日に勤務時代の、それこそ呉越同船、国際航空貨物に携わる者の一社から一名出席の会を作った。長くなるので途中は省略するが、今回37回目の会合が水郷・霞ヶ浦に面した潮来で開かれた。
家を4時間早く出て千葉に寄り、シャフタマの大隊長探しをした。104ではラチがあかず出掛けたが、町名が変わって居り、1-2時間歩いたがそれらしき家は無い、千葉市立図書館に行き調べたが全く駄目、あやめを見に行く時間になり諦めざるを得ない。慌てて行くほどあやめは開花していませんでした。
先程今から30分前に調査を依頼していた方から電話が入ったが、残念ながら平成14年12月18日に亡くなられていた事が判明、関西でなく、千葉でなく、八王子にお住まいだった事だけ分ったので、これから・・・

シベリア抑留死亡者慰霊碑18

2007-06-08 07:22:33 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑18

収容所・埋葬地名: 第52収容所第1支部、厚労省整理番号3031
所在地:      ドラビヤンナヤ
収骨状況:     日本による最初に遺骨収集が行われた埋葬地で、1991年10月7-22日に行われ、25名の報道関係者も参加し、全56柱収集済。
埋葬地の現況:   2004年の遺族会の巡礼団でここを訪れた、此処でにわか祭壇を設け、追悼式を行った。上の写真はその時のものをアップさせて頂く。
参加者の中に此処からお遺骨の帰って来た青森の姉妹が居られた。亡くなられたのに、幸せだと云うのは失礼ながら、此処での死亡者は全て棺に納めて埋葬され、又1991年に遺骨収集時も、棺に入れて焼骨されたとの事。柳瀬さんと言われる軍医さんが同行され、収容時の病気や怪我、埋葬の順序から次々に確認が進み、他の収容所では死んだら裸にして埋葬したと聞くが、上記青森の姉妹の父上は着ている洋服の名前の刺繍から判明したそうだ。
何にも無い所、村長が案内してくれ小高い山の上に白い造花が20-30輪散らばって居るのが唯一の目印、古い缶詰の缶が有ったと言う事は誰か墓参に来られたのであろう。
父上を私と同じシャフタマで亡くした宮古の山下氏はこの遺骨収集に参加しその後10年続けて出掛け、遺骨収集のベテランになられたが、本人自身の所は中々そうは行かず、これまでお預けである。
お遺骨が帰って来たり、戦友会で記念誌が出ていたり、他に比べ恵まれた方だが、やはり現地にお墓をと願うのは私だけだろうか・・・・

全国郵政シベリア抑留者の会

2007-06-07 20:01:51 | シベリア抑留
全国郵政シベリア抑留者の会

この会は人生で「シベリア抑留」と「郵政関係で働いた」と言う2つの共通した経験をされた方の全国的な集いである。年一回全国各地にある「かんぽの宿」で開催され、今年は第15回で、昨日熱海で開かれた。
私は郵政関係の勤務の経験は無いが、逓信関係に勤めた親戚の者からこの会を教えられ、私の父に付いての調査の初期段階で大変お世話になり、それがご縁で特別会員にして頂いた。
年一度お会いする以外にお手紙等で抑留帰環者の苦労話をお聞かせ頂き、中に2人の遺児が居られ情報を交換して居る。
今回も「俺はシベリアで4年間風呂に入らなかった」と言われる方が多く、ご一緒に熱海温泉に入りゆっくりして来た。
先般国士舘大学の学園祭で使用したシベリア抑留パネルを30枚持参した。大学では「太平洋戦争」「8月15日の日本の敗戦」「アメリカと戦った」に付いて知らないので(教科書に書いてない、受験問題には出ないから勉強もしないので知らないのは当たり前)先ずそこから説明し、ソ連、シベリア、シベリア抑留に付いて説明し苦労した。今回は逆にご説明頂き、思い出話付きで大変懐かしがって頂いた。モンゴル力士が出て来るとTVのスイッチを切る方達である、どうなるか心配だったが、幸い展示は好評だった。

シベリア抑留死亡者慰霊碑17

2007-06-07 12:06:58 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑17

収容所・埋葬地名: 第25収容所第5支部、厚労省整理番号3030
所在地:      スレテンスク地区バレイ、此処は金山で現在も稼動しているものがあるので、近郊唯一宿泊施設があり、此処に宿をとり、シャフタマヘ往復した。
収骨状況:     2002年全163柱収集済
埋葬地の現況:   全く荒れ放題、と云うより家畜の糞などを含むゴミ捨て場と化している。
2003年7月7日の訪問時、我々親子はその状態を見て怒りが込上げおし黙ったままだった。
この年我々の訪問後、厚生労働省の慰霊団が此処を訪れる事になっていたので、遺族の心情を考えてこれを見せないようにと手紙を出した。遺骨は収集されたと言っても、死亡者の血・肉・焼骨後の灰はそこに滲み込んでいるのだ、小さな碑を建立するか、広くたっぷり有るシベリアの土地、公園化し、何とかゴミ捨て場にならないようにしたい。
全抑協斉藤六郎氏の碑が有ると記されているが、見当たらなかった。

チタ州にある16箇所の慰霊碑は前回で終わったが、数回関連事項のアップを考えている。

シベリア抑留死亡者慰霊碑16

2007-06-06 06:09:40 | シベリア抑留
チタ州民間建立慰霊碑16

碑の名称 - 日本人埋葬碑、ジプヘーゲン
所在地  - ジプヘーゲン
建立者  - 全国抑留者補償協議会、斉藤六郎氏、34番、見当たらず。
建立年月日 - 不明
管理状況 - 不明
収容所及び収骨状況:
第511労働大隊(厚労省整理番号3051)平成8年517柱収集
第512労働大隊(厚労省整理番号3052)平成8年35柱収集
説明: 写真及び詳細を各方面に問い合わせたが見付らず。
以上で16箇所説明して来たが、此処で斉藤六郎氏による建立慰霊碑に付いて記しておく。

全国抑留者補償協議会の斉藤六郎氏により全ロシアに90の慰霊碑を建立したと彼の著書「シベリアの挽歌」にそのリストが出ている。その中の13碑がチタ州にあることになっているがこれまでの調査では下記の通り。
碑番号、収容所名、埋葬者数、説明の順。

18.第24地区チタ、ハラグン第515労働大隊、181名、   第12回で取り上げている。
29.第23地区ブカチャチャ第1収容所鉱山、513名、 第3回の場所だと思われるが見当たらず。
30.第24地区チタ第10収容所ノーバヤ駅、100名、   第7回。
31.第24地区第12収容所シエルロワゴラ 481名、第10回(ハダブラク)
32.第24地区第1841野戦病院カリムスカヤ駅 176名、 現在見当たらず。
33.第24地区第1937野戦病院ヒーロク 125名、   第13回。
34.第24地区第511労働大隊ジップヘーゲン 594名、リストに有るので、今回取り上げたが、何処にもない。
35.第25地区スレチェンスク第3収容所ダラスンスク 96名、   第8回。
36.第25地区第5収容所バレイ市 163名、2003年に訪れた時は見当たらなかった。
37.第52地区カダラ第3収容所 259名、 何処にあるか不明
38.第52地区第1484野戦病院ザ・バイカルスキー 247名、 第5回で取り上げたところだが、見当たらず。
39.第23地区ブカチャチャ第2収容所鉱山 731名。現在は無いとの情報。
40.第52地区カダラ第1、2、3墓地 451名、   見当たらず。

シベリア抑留死亡者慰霊碑15

2007-06-05 06:02:18 | シベリア抑留
チタ州民間建立慰霊碑15



碑の名称 - 慰霊碑
所在地  - カラングイ
建立者  - ご遺族による建立
建立年月日 - 不明
管理状況 - 詳細不明だが保存状態良との情報あり
収容所及び収骨状況 - 第24収容所第5支部、厚労省整理番号3010、81名、
遺骨収集 - 宅地化された為収集不可とある
説明:宅地化の為、碑は埋葬地の隣接地に立てられている。1メートル角の台の後ろに25センチ角で1.3メートルの碑が建てられている。3メートル四方位の土地を鉄柵で囲い、コンクリート製の土台に銘板を取り付けた鎮魂碑、銘板には此処に1945年から1949年まで抑留されたと書かれていた。
写真提供: 大内一夫様

シベリア抑留死亡者慰霊碑14

2007-06-04 06:21:01 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑14

碑の名称 - ヒロク慰霊碑
所在地  - ヒロークスキー地区ヒロク町特別野戦病院墓地
建立者  - 東京ヤゴダ会
建立年月日 - 2001.9.1.
管理状況 - 良好、良質の花崗岩に直接「慰霊」の文字を彫り、日本人124柱ここに眠るとし、ロシア文字、日本文字の両方を記入し、慰霊碑である事を明確にしている。損傷の行為は無く、今後も大丈夫と考えられる。
周辺の状況 - 国道55号線から続く山林の一角(特別野戦病院墓地)の草地に慰霊碑(盤)を取り付けたので相当の風雪に耐える。



収容所及び収骨状況 ― 第1937特別野戦病院(厚生省整理番号3050) - 此処は、チターヒロクーペトロフスクへの幹線道路(国道55号)の建設により墓地が両断され、遺骨収集の出来たのは101柱にとどまった。
写真提供・監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑13

2007-06-03 06:12:50 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑13

碑の名称 - ヒロク・日本人埋葬地
所在地  - ヒロークスキー地区ヒロク町、国道55号沿い林奥150m
  (別の説明では、ヒロク町中心部から国道55号線に出る手前200メートルを右折した小丘陵とある)
建立者  - 全国抑留者補償協議会 斉藤六郎氏 (33)
建立年月日 - 不明
周辺の状況 - 松林の小丘陵の頂上付近に位置している。特別野戦病院墓地とは200メートル位離れている。
管理状況 - 不良、会に管理能力はない。外柵なし。2004年調査時碑は倒されていた。
収容所及び収骨状況 ― ヒロク第1937野戦病院、厚生省整理番号3050、125名埋葬、平成7年101柱遺骨収集済
写真提供:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑12

2007-06-02 20:37:39 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑12

碑の名称 - ハラグン日本人埋葬碑
       (付置銘板)515、516労働大隊の追設鎮魂板
所在地  - ヒロークスキー地区ハラグン村
       ハラグン鎮魂碑から東北へ100メートルの地点
建立者  - 全国抑留者補償協議会 ⑱ 181名
建立年月日 - 碑は不明、追設鎮魂板は1992年8月15日。
管理状況 - 良好、ハラグン村の好意により管理されている。
収容所及び収骨状況:前11回に続き、此処ハラグンには2碑建てられている。
説明 - 4隅鉄柱で鉄鎖で囲って、その中に碑と全面に部隊の追設鎮魂銘板を抱え込むようにしてある。

鎮魂 第515・516労働大隊 ハラグン抑留生存者有志一同建立 1992年平成4年8月15日 
発起人 三井輝雄、小畑義雄、山口住一 とある。
写真・監修: 東京ヤゴダ会