漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

「仁侠映画講義」・関川夏央著

2017年06月07日 | 
新聞やテレビは国政選挙の時などによく、
「革新政党」と「保守政党」と云う分け方をしますよね。

私は常々思っているのですよ、
この分け方はおかしいのではなかろうか、と。

各党の選挙公約を読んでみると、

革新のハズの政党が、

「平和憲法を守れ!」
「報道の自由を守れ!」
「国民の権利と生活を守れ!」
「人権擁護!」

いずれも、「守れ!」「守れ!」「守れ!」「養護!」、

これは「保ち守る主張」、
すなわち、現状を守り、改革や革新を厭う主張。

ならば、
これらの主張をする党は「保守政党」と云うことになるハズ。

また、「憲法改正」とか、
「安保法制」や「テロ抑止法」を、改正、或いは制定すると云う党は、

どう考えても、「革新政党」ではないか。

然るに、こう云う主張をする政党を、
新聞やテレビは「保守政党」に分類しています。

どちらの主張を良しとするかは別にして、

「保守」と「革新」が、
言葉の意味からは逆転した使い方になっている。

そんなことを常々思っていたら、
先日読んだ本、関川夏央著・「やむにやまれず」のなかの一編、

「仁侠映画講義」の中にこんな文章がありました。

1970年前後に一世を風靡した
高倉健や池部良が主演した「やくざ映画」についての考察です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで注意しておきたいのは、
ヤクザ映画は全然左翼的映画ではなく、

「総長賭博」もそうですが、
“筋目を守る”というセリフからもわかるように、

とても保守的な内容なのです。

善玉が保守の権化で、
悪玉はおむね企業努力派というか改革派なのです。

なのに悪役は右翼の大物の名前を借りてる。

へんといえばへんですが、
政治は悪と考える純潔主義が60年代には支配的だった空気です。

いいかえれば60年代の学生運動は全然政治的運動ではなく、
現実回避への集団的衝動であったということでしょう。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~

ヤクザ映画が全盛だったころ、

日帝粉砕を叫んで警官隊へ投石し、
ゲバ棒を振り回してデモに参加していた全学連の学生たちが、

ヤクザ映画に共感して、終夜営業の映画館に入り浸り、

あまつさえ、東大の某学生が書いたとか云う、
もろ肌脱ぎになって背中の入れ墨を見せてるヤクザの横に、

「止めてくれるな、おっかさん」とセリフを入れたポスターが有名になったりしました。

革命を叫ぶ学生たちが、
ヤクザに共感する、と云うのは、

当時としては不思議な現象に思えたのですが、
これを読むと、あれは、

社会の仕組みや生活環境が変わり、
古いものが消えゆく、高度成長期の日本に不安を感じた学生たちの、

社会の変革を嫌う心理が、
青年らしい「純潔主義」となって表れたのかもしれません。






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