この齢になると、
身の回りで逝去、物故と言った話が普通になるが、
少し違うのはその風景や遺族の方たちの反応。
特に死者の御息女の中には、
故人の死を自分の不始末であるかのように嘆く人を見かける、
「別の病院ならもっと長生きできたのに」と云った類。
そう云う方の話を聞いてみると、
彼女自身は死者とあまり関わっていない御様子で、
施設や病院へ見舞いには行っても身の回りの世話はしていない。
つまり、過っては当然であったはずの、
下の世話や看病をせずに死者を見送っている。
昔は違った。
私の生まれた山村では、
どこの家庭にも年寄りは居て、家族がその世話をした。
死ねば、
家から葬式を出し、
その接待や儀式には、
親戚や近所の者が集まって協力し、土葬の墓穴まで掘った。
つまり葬式は、
年に何度もある見慣れた風景で、
子供たちはそれを見て育ち、
「人は死ぬものだ」と云う事を自然に受け入れたように思う。
いつぞや、
あるお医者さんが書いておられたが、
高齢の患者の家族を呼び、
余命いくばくも無いことを伝えると、
急に取り乱し、
「なにがなんでも助けて下さい」と迫る人がたまに居るそうだ。
施設や医療の充実で、
家族、特に嫁に過度の負担がかからなくなったのはいい事だが、
そのため、
遺族の中には人の死を受け入れられない人も居るらしい。
つまり、
人の死を施設や病院まかせにした結果、
身近に人の死を経験しておらず、
急なことで受け入れられず、取り乱すらしいのだ。
御盆は祖先の冥福を祈る行事だが、
きのうのチラシを見ると握り寿司や刺身、肉の宣伝がイッパイ。
昔は、
お盆の期間中は生臭物は遠ざけ、
豆腐や野菜を中心とした精進料理だったものだが・・・。