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ミュウタントのブログ

日本国憲法第9条は地球人類の宝、それを改悪するための日本国憲法第96条の改正に反対!

戦争は止められる、おめでたい人間だから、人間が始めたことだから戦争をなくせると本気で思っている

2009-01-14 22:34:00 | インポート
 ベトナム反戦運動を通して、反戦米軍兵士を生み、本国米国のみならず、世界中でベトナム反戦運動が各国政府を動かし、なんども米軍とベトナム人民戦線との間に入って停戦協定の仲介に入っていた。今回と同じようにフランスだった。
 アメリカが負けた、北ベトナム=人民戦線軍が負けなかった戦争。この戦争を『反戦』のなの下に止めたのだ。
 連日のように繰り出される反戦でも、イラク反戦のときよりももっと世界中が戦争をやめろと叫んでいた時代だった。
 そして、イラク反戦も今も世界のどこかで、デモが行われている。
 世界のどこかの街でもう戦争を、人殺しをやめようと叫ばれている。
We shall over come はそんな中で歌い継がれてきた。人間が人間を殺すことを許せない!
 もう戦争はこりごりだというあのときの気持ちを受け継いでいるからこそ、『戦争』に反対し、絶対になくしたいと本気で思っているし、なくせると思っているのだ。

東大落城 安田講堂攻防戦 日本テレビ

2009-01-14 20:08:00 | インポート
 今から始まりました。
 社民党の政審会長阿部知子さんは、あの時東大共闘学部の1年生だったという。駒場キャンパスでやはりバリケードの中にいたそうだ。
 学生の革命幻想に付き合っている時間などない。日大闘争で警官を殺されたのを受け、権力側はそれこそ剥き出しの暴力に訴えてきました。
 60年安保の教訓、64年オリンピックの警備、そして機動隊といわれる装甲部隊の編成、それは学生の想像をはるかに超えていました。
 私はあの時、東大安田行動から『飛び降りる学生』我出るものだと思っていました。
 駿河台(明治、中央)、早稲田、法政、上智そして日大、赤門前、東大の周りは、網戒厳令並みの警備網が敷かれていましたが、神田を一時解放区にしました。夜にはいって東大まで後600メートルまで迫ったのですが、機動隊によって阻まれ、ほとんど近付けなかったのが実情でした。
 学生の火炎瓶、投石が一段と激しさを増したのですが、夜に入っても神田の攻防は終わっていなかった。しかし、東大への増援はできませんでした。
 昼間、東大全共闘は東大内部でデモを行っていたのですが、すぐに機動隊によって排除されました。
 装甲車と、放水車まで出て来ました。ヘリからの催涙放水も行われました。あの時はただの水だと思っていました。
 東大全共闘と他大学からの増援部隊、工学部列品館にはML派が入った。明大の学生が主力だったが、催涙弾の水平撃ちという攻撃に二人の重傷者を出して降伏した。
 法学部研究室にも全共闘が入っていたが、攻防の末、全員逮捕。
 安田講堂も2日間の攻防戦の後、これ以上けが人を出したくないという全共闘執行部の要請で、直接対決は回避され、全員逮捕されている。時計台もまもなく旗を降ろした。

 『戦争と抑圧の中に再び日本国民を追い込もうとしている政府と象牙の塔のあり方に怒りを覚え、われわれはここに立ち上がり・・・・』あのときの怒りはどこへ行ってしまったのでしょう。
 ずっと思って生きてきた全共闘のシッポは怒り心頭です。
 全学連世代、全共闘世代が、高度経済成長、そして後に続くこの時代を作ってきたのです。
 のうのうと生きてきた奴らがいるのです。こんな社会にしてしまった責任の一端を私も負っているという自戒を込めて。

 あの後もベトナム戦争は続き、沖縄返還協定裏協定があり、核兵器容認発言があり、それでも佐藤栄作さんは、ノーベル平和賞を受賞しました。