朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

『歴史』

2011年10月12日 | 帝国主義・植民地
 今、我々が住んでる日本が『過去に拘束されている。』ということを論じて行きたいと、思います。。

 今日は先ず、真下先生の著書からの引用を綴りますね!

『ヨーロッパのある思想家は<アウシュビッツを通過しない限り現代の思想はない>と申しておりますが、私ならばこれにつけ加えて、<そしてまたヒロシマを!>といいたい。』

 『アウシュビッツとヒロシマからラディカルに学ぶことをせず、それを中途半端にやりすごすか、ほおかむりですますならば、歴史は必ずもっと大きなアウシュビッツとヒロシマを用意することでしょう。』

 『戦争を知っている世代は、戦争の無残さを語りつぐ責任があるのです。』

 『あのファシズムと戦争の意味を論理的に汲みつくして現在というものが存在しているのなら話は別になるのですが、私の見るところでは、あの戦争の意味したところのものを将来へむけて十分に生かす方向にではなくて、むしろ大事なものを見ないままで、ほおかむりのままで、現在にきているとこが目立ちます。』

 これを呼んでなるほど…と、思った方もいるかも知れません。

 今日はこれを読んでの自分の感想でも書いてみようと思います。(できるだけ短く・・・笑)

自分の問題意識は大きく2つです。

①日本の歴史の連続性について
②日本が生まれ変わる絶好的な機会ということ。

歴史の長い歩みの中で、歴史的事実という客観的な『道』があります。
人はそれを、その『道』を通らない限り、先代からの大事な遺産を受け継ぐことができず、その歴史の中に拘束され、自らを『過去の中』におくことになる。
 それが私の見解であり、言い換えるのなら、『発展』という概念が、『過去を真摯に見つめた時』にのみ成立する概念ということなんです。

 さて、日本という国は、過去、自らが辿った『道』を『いつか通った道』として、しっかり認識してるのでしょうか…

 そこに注目してみたいと思います。

 真下先生は著書の中で、アウシュビッシュ写真展があるデパートで催されていたという例をあげながら、なぜ同時に『南京事件』についての写真展は行わないのかと、痛烈に批判しています。

 さて、日本は『戦前』、大日本帝国憲法を制定し、アジア各国に侵略しました。

 その歴史が清算されてない今、その思想、『大東亜共栄圏』の思想が復活、いや、この場合、表に出てきたといえるのではないかと思います。

 日本は戦争を『終えて』、『戦後』と呼ぶようになりました。

 しかし、私は日本国において、『戦後』はありえない!!と主張します。日本が『戦前』の思想を、歴史を直視せず、今『また来た道』を繰り返す行くのならば、もはや日本は『戦前』、『過去の歴史』に拘束されていると、言わざるを得ないのです。

 しかし、さっき②の問題意識で言ったように、今、日本が『アジアでの強国』として、本当の意味での『共生』、『北東アジアの平和』を願い得る権利を持つ『強国』になるには、今日、顕著に浮上してきた『日朝問題』の解決過程で自らの『過去の罪責』を認めなくてはならないのです。


 今、この国は岐路に立ってると、思います。

 今、過去を直視し、新しい、やっときた『戦後』の道を歩むののか、それとも、『戦前』の思想の中での束縛に苦しく生きていくのか、そしてその中で『人間』を生かしていくのか、注視して、なおより一層の社会連帯のために思考を止めず、考え、実践して行きたいと思うようになりました。

 ちょっと趣旨とは外れましたが、これが自分の思う『歴史』であり、『歴史観』ではないかと思います。

 『疎外』とは一体何なのか?


 先日、『あいのり』という番組で、ドイツを放浪中、アウシュビッツでユダヤ人大虐殺について知ってしまった、ある若者が、ドイツの大学生にこんな質問をしました。

 『あなたたちは、過去のこの行為についてどのように受止めているんですか??』

 『私たちはこれからもなお、関係のない人間として、受止めるのではなく、自分たちの負の歴史として、背負って行きたいと、思います。』

 その後、『あいのり』の車に乗っていた子たちが感想文(日記??)でこんなことを書いていました。
 歴史を学ぶのは本当に大事だと思った。これから、犠牲になった人たちのためにも、彼らは色んなもの背負っていく・・・ 

 …たぶん、こういった状態が『疎外』なんだと、思います。

 残念ながら日本では『加害者意識』が生まれるべき絶対的な契機が1945年の8月であったのだけども、何かによって、『被害者意識』が生まれてしまったと、自分は思うのです。

 それは、たまたまなのか。。(原爆などのせいなのか・・・)

 それとも、必然なのか・・・(こうなるべくして、なったのか)
 みなさんの考えはどうでしょうか…


 自分の考えではもちろん、『必然』なんです。

 戦後、日本の国家体制を持ってして、言うなれば、今までの日本の社会の歩みからして、この結果というものは見えていたものなんです。

 これが、人間なんですよ。社会的存在としての。

 これから、ここでは、人間の疎外の現実について、3つの形態から話していきたいと、思います。

 シリーズのはじめに問題提起した、『理知』と『学問』を持ってして、人間は何を見て、そして、自分の人生の操縦桿、社会歴史の操縦桿をどのようにしっかりと持つことが出来るのか・・・ 見て行きたいと思います。。




コメントを投稿