朝鮮について知りたい

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知性と理性

2011年10月12日 | 帝国主義・植民地
前の『人間』というテーマとともに、これはこれからの『前置き』、プールに入る前のシャワー、海に入る前の体操と捉えていただければと思います^^

 ちょっと難しいので、最後らへんに簡単に整理しますよ^^

 真下先生は著書の冒頭でこのような引用をしています。

 『理知と学問、人間のこの至高の天分を軽蔑するならするがよい-さすれば悪魔に身をゆだねたも同じこと、滅びいくにきまっている』(ゲーテ『ファウスト』からのヘーゲルの引用)


 この言葉は哲学者、ゲーテ(あえて、ここではこう呼ぼう)が『ファウスト』という、著書の中でのメフィストフェレスという悪魔の台詞なのですが、さてさて、なぜに真下先生はこのように『理知』と、『学問』というのを人間の『この上もなく高い』、『天分』として高く評価しているこの文章を引用したのでしょうか、しかも、著書の冒頭で・・・

 真下先生は、ヘーゲル(哲学者)が『法哲学要綱』にて、この言葉を結びで使っている文章を見ながら、全く同じ問題意識を持ち、この文章を紹介したのだろうと思います。。。

 ヘーゲルは、『直接的な知覚』、そして『偶然的な思い込み』、簡単にいうと、『非理性的』ものを自らの考え方や、行動の基礎にもってきてしまう(いわゆる、自分の観として確立してしまう)、『人間の浅はかさ』には、『悪魔の使者と、なりうる可能性』すら秘めているということを、辛辣に警告しているのです!!
 ゲーテは『ファウスト』のなかで、『悪魔』(メフィストフェレス)の言葉を持って、人間にこの警告を課し、そして、ヘーゲルはこれを引用して、また同じように警告を・・・




 そして今日(1970年ですが)、真下先生はこのヘーゲルの引用を引用して、また日本社会に語りかけています。

 ここでまた引用、

 『敗戦のおりに私はメフィストフェネスのせりふは幸いもう聞くときはなかろうとたかをくくったものであるが、残念ながらその後まもなくして、そしてことのほか今日、昨日のたたずまいのなかで、賢人たちのこの忠告がまたしても昔ながらの凛々たる響きをもって私の耳朶(じだ)をうってくるのを覚える。まことに<賢者は死後なお語る>のである。』


 さてさて、今日の題名は『理知』ということなんですが・・・

 『人間』が持つ至高の天分が『理』であり、『知』である。

 この『理』と『知』。
 
 みなさんはこの『理』と『知』、どちらを重きにおきますか??


 ここでの答は『理』なんです。

 人間は日々の積み重ねにより、知識を得ることができます。水準の高い人ともなると、何かを開発したり、偉大な発明もしたりと、人間以外の何者もできないものだってしてしまうでしょう・・・

 しかし、この『知』をもってしても、もし『理』の方向が一歩間違えると、その力は『悪魔に身を委ねたもの』として、利用されるわけなんです。

 飛行機に乗ってるとしましょう。

 あなたは飛行機を操縦できるパイロットです。しかし、その操縦桿をいかに操作するかによって、乗客を目的地まで連れて行くこともできるし、或いは墜落させる事だって可能なんです。

 すごく簡単な例になってしまいましたが、この『自らの人生』、そして、『社会的存在としての人生』というものを、どのように生きていくのかという、操縦桿をどのように操作するか、というのがまさに、『理』だと言える訳です。

 上で真下先生の文章を引用したように、当時の社会を見て、第2次世界大戦が終わり、もう2度と、人類が、そして日本が『その力』を悪魔に委ねることはないだろうと、安堵した彼は、今の日本社会を見て、当時の『悪魔に身を委ねた』日本を目の当たりにしながら、そして、世界情勢を見ながら、過去の賢人たちの忠告が凛々として聞こえてくるという、表現を使ったのではないだろうか・・・

 このように言える社会状況の中、私たち自身は今もなお『語り継がれる』賢者の武器を、言霊をしっかりと、目に、そして耳に焼き付けておかなければと思います。。

 今の世界は私たちに何を、そして過去の賢人たちは私たちに何を訴えているでしょうか。。。
 
 この『理性』と、そして『知性』。
 人間は生きながらにして、この知性を養い、そして理性をも養っていけます。
 
今、我々がどのように生きるべきであり、そしてどのように学ぶべきなのか、しっかり見直す必要があるのでは・・・
 
 あなたは、その『人間としての至高の天分』を持ち、あなたは、今どこに立っているのでしょう。

 自らの知性はすぐに客観的に検証はできます。。。
 しかし、『理性』というものは、自分の『世界観』として存在するもので、否定することも、そして、変えることもとても難しい作業だとは思います。。

 だからこそ、その『理性』を見つめなおすための『知性』をも身に付けねばならないし、また、自分の『観』それ自体を見つめなおす必要があるのかも知れません。

 『知性』、大事です。むしろ基本です!!
 『理性』、これまた大事なんです。

 私が言うのは、これら『理性』と『知性』を双方独立したものでみるのではなく、しっかりとした『理性』に根ざした、『知性』。 またしっかりとした『知性』に支えられた『理性』。

 この『理性』と『知性が』が同居する『理知』を持とうということです。

 そして、それを持ち得る、唯一の方法は『学問』であるということ。

 このような、『学問』に対しての観点を今の世の中、しっかりとして持たなければと思います

 今の『理性』のない社会で人々がどのように生きていってるかを、また我々自身がどのような『理知』を持って生きて行かなければならないのかという、問題提起をこれからの連載で綴って生きたいと、思います。。。

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