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【まとめ】チャーチル著:第二次世界大戦:第四章:いなごの年

2010-07-20 14:05:49 | 三大宗教統一教義・人文社会
1931‐1933年

イギリスの温いドイツへの外交政策、アメリカの大不況による無関心などが、
ヒトラーにヨーロッパの安全保障の基盤を食いつくされてしまった状況かな。

シュトライヒャーは、パーペンから政権を奪取することに成功するが、逆にヒトラーは、パーペンを利用して、宰相の座をつかみ、権力を奪取。

続いて、国会議事堂の炎上事件で、四千人の逮捕者の中には、ナチスに反抗する共産党の勢力が多く含まれていた。その直後の選挙で政権を掌握したヒトラーは、1933年3月、国会の大多数はすべての反対派を威圧または抑圧して、非常時権力を向こう4年間ヒトラーに与えることを確認した。

ちょうどその頃、イギリス首相のマクドナルド氏は、財政的危機から国内の軍備縮小政策を実施。
さらに外交でも「マクドナルド案」という、軍縮案を提案するが、ヒトラーはこれを拒否。国際連盟も脱退することになる。

そのころチャーチルは、内閣からははなれていたが、ドイツ人の新聞記者や、フランス人の閣僚とは、秘密の交流をつづけており、国際情勢の情報収集は十分に行える状況であり、イギリス政府にも必要な情報は流していたという。
ちなみに、1931年フランスにいったとき、車線の勘違いで、車から降りた直後に交通事故で、重症を負っていた。

また、ヒトラーの配下である、ハンシュテングル氏という、英語のうまい「芸人?」が、チャーチルに近づいてきて、ヒトラーに会見するようにすすめるが、チャーチルが、ハンシュテングル氏に
言った、
「ヒトラーは、なぜ善良なユダヤ人までいじめるのですか」
という、質問に関して、ヒトラーが感に触ったのかは不明だが、会見は実現しなかった。

そのころ、日本は人口が5000万から7000万に増加し、米の自給が厳しく、輸出にたようろうとしたところ、不況にあえぐ英米から、人件費の安い日本製品の輸出の関税などの障壁はあがり、突破口を中国侵略に求めた。

1932年に満州国という傀儡国家を作り、1931年からのリットン調査団の調査結果に不満をいだき、1933年に国際連盟を脱退。

ナチスドイツと大日本帝国の国際連盟脱退により、世界は暗雲につつまれていくことになる。


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