比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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上信国境・・・地蔵峠への・・・百体観音丁石一番・・・新張(みはり)の如意輪観音

2017-09-25 | 道祖神・石仏・石神
9月19日彼岸の入り・・・お先祖様にお線香をあげに・・・信州上田まで日帰り。
上田からの帰り道、祢津街道を東御市新張(みはり)に。
そのむかし新張から上州鹿沢(かざわ)温泉までの湯治道三里半(12㎞)、道しるべとして建てられた百番道しるべ観音(百体観音丁石)の顏を見に。

祢津街道と県道94号の十字路・・・新張交差点・・・百番道しるべ観音1番が建っています。


百体観音石造町石・第一番「如意輪観音」・・・
信州から上州鹿沢温泉への湯治道のスタート地点です。常夜灯が往時の面影を伝えます。
※伊那高遠の石工中山暉雲の作・・・第100番が中山暉雲1869年(明治2年)の作といわれますから、江戸末期の作か。
※画像クリックで説明看板が。

花と雪の湯の丸高原、地蔵峠、池の平湿原への道。
たまには車を停めて、ゆっくりと百体観音を見ながら行くのがイイです。


地蔵峠を越えて鹿沢温泉の入口近く「紅葉館」前・・・百番「千手観音」・・・1869年伊那高遠の石工中山暉雲の作。
このあたりひと昔前の山男なら誰でも知ってる・・・雪よ岩よ我らが宿り・・・「雪山讃歌」の碑があります。
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※画像クリックで説明看板が。
※撮影は9月19日 Panasonic LUMIX DMC-TZ85。
新張(みはり)・・・古代大和王朝時代に新しく塹りおこされた開拓地。塹は張になったり冶になったり播になったり春になったりで地名変化して全国にその地名が残っています。「みはり」は「にいはり」は訛って変化したものといわれています。奈良王朝時代の官営牧場(勅旨牧)信濃16牧のひとつ「新張牧」のあったところ。
百番道しるべ観音(百体観音丁石)・・・新張から鹿沢まで1丁ごとに100体続く観音像、江戸時代末期から明治時代初期にかけて。勧進元は地元民。信仰の道といっても物見遊山、湯治場への道です。いまでいう町興し、観光ツアーの集客のためでしょうか。その時代の農民の経済の豊かさが感じられます。
高遠の石工・・・信濃国高遠の百姓の石工技術を専門とした農閑期出稼ぎ集団。中世鎌倉時代に全国往来を認められたといいます。主に土木、建築工事に従事、石像作りにも才を発するものが出て、全国各地の路傍に道祖神、観音、地蔵など多くの石仏を残しました。多くは作者の銘が無く名もなき名工の作といわれます。








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