比企の丘

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朝のテレビ小説「マッサン」・・・スコットランドから持ち帰ったスコッチとリタ

2014-10-07 | 本・テレビ、ドラマ・映画・スポーツ
NHKの朝の連続テレビ小説は時計代わりによく見ています。「お日さま」、「あまちゃん」、「ごちそうさま」、「花子とアン」。いまは「マッサン」。スコットランドのスコッチウヰスキーの醸造法をとりいれて日本のウイスキーを造った竹鶴政孝と妻のリタ(ジェッシー・ロベルタ・カウン)の物語のようです。
リタ」はロベルタからとった愛称。英語圏ではエリザベスはリズ、ジェームスはジミーとかの愛称で呼ぶようです。

竹鶴政孝というと思いだすのは髭のウヰスキー「ニッカ 」。
2005年、北海道余市町のニッカウヰスキー工場を訪れたときの写真です。

ニッカ工場内に建つ旧竹鶴邸。2002年、余市町郊外の山田の竹鶴邸を2002年に移築したもの。
庭にはリタさんが丹精込めて育てた花々が今も植えられているそうです。

青年時代に高嶺の花だった「ブラックニッカ」・・・髭オヤジが左手に大麦の穂、右手にブレンダーを持っています。
森瑤子著「望郷」(学習研究社1988年刊)‥・竹鶴政孝の伝記などを参考にリタさんの生涯を書いたフィクションです。

※テレビドラマのネタバレのようになりますので小説のことには触れません。

余市のニッカ工場を見下ろすリタさんの墓には、こう刻まれているそうです。
---IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU---

竹鶴政孝・リタの軌跡
竹鶴政孝(1894~1979年)・・・広島県竹原市の造酒家の三男として生まれる。竹鶴リタ(1896~1961年)・・・英国スコットランドのグラスゴー、医師の長女として生まれる。ジェッシー・ロベルタ・カウン(Jessie Roberta “Rita” Cowan)
1916年政孝、摂津酒造(のちに宝酒造と合併)に入社.1918年英国スコットランドに留学。リタと知り合う。
1920年リタと結婚、竹鶴家からもカウン家からも認められない結婚であり、登記所での登記・宣誓のみ。立会人は妹ルーシーとその友人のみであったという。
1921年摂津酒造退職、京都府立旧制桃山中学で教職に。リタは帝塚山学院英語教師、英会話教室、ピアノ教師などで生計を扶ける。
1923年寿屋(現サントリー)入社。「赤玉ポートワイン」の寿屋でウヰスキーの基礎を築く。
1934年寿屋退職、北海道余市町に日本果汁を設立。ウヰスキー造りの繋ぎの会社であった。
1940年最初のウヰスキーを発売、ニッカウヰスキーと名づける。戦中は軍需物資となり苦しい会社経営を支えた。
1952年社名をニッカウヰスキーに。
1954年ニッカはアサヒビール傘下に。創業当時からの筆頭株主、事実上の社主(ご主人様と呼ばれた)加賀証券の加賀正太郎が生前に、その株が散逸することを防ぐために株券をすべてアサヒビールに売却したからと伝えられている。
1961年リタ死去。政孝は妻の死に号泣したという。1979年政孝死去。
2001年ニッカウヰスキーはアサヒビールの完全子会社化。

明治から大正期、西洋のものがハイカラであるともてはやされた時代、日本ではアルコールに色をつけウヰスキーの香りのする香料を混ぜたものをウヰスキーとして販売していた。そんな時代に本物のウヰスキーの醸造・蒸溜に挑戦した男のロマン、異国の地で恋に落ちるという話はむかしも今も変わらないがそれを貫き通した頑固な男の物語。嫁いで異国の地で沢庵まで漬けたという青い目のお嫁さん。戦争中の特高警察の目、子どもを授かれなかった女性の苦しみ。リタの愛のメモリーとは竹鶴政孝の男の夢に寄り添うことだったのであろうか。


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