比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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上州・・・安中駅・・・駅のそばの巨大工場を見た

2012-01-10 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
1月7日、SL新春碓氷号を追いかけて安中までやってきました。これから松井田、横川までSLを追いかけていくわけですが、それ前に安中市街地をチョッと見ていきます。

安中市・・・人口60000人、安中といわれる中心部は碓氷川と九十九川に囲まれた河岸段丘上の静かな町です。
江戸時代は徳川譜代大名が管理する安中藩三万石の城下町。中仙道の安中宿で栄えたところですが宿場町を彷彿させるものは見られません。安中藩奉行役宅、武家長屋などあるそうですがが、ここではパス。
さて前置きが長くなりました。前に進みます。

安中駅です。車で旅してもまず駅に行くというのがわたしの旅のやり方です。JR信越本線・・・高崎から電車で10分チョッとの距離にある駅です。信越本線といっても信州にも越後にも行けません。運行は高崎~横川間です。その先はプッツンと途切れて、篠ノ井駅から直江津駅までがふたたび信越本線になります。中抜き路線です。

ホームに新島襄の旧宅の案内が。同志社大学を創設した新島襄は安中藩板倉家の家臣の子。江戸屋敷に生まれこの町に住んだことはなかったようですが、この町にキリスト教の根を下ろし薫陶を受けた人々が新島学園を開校させました。



ホームの先に見える工場は東邦亜鉛安中精錬所です。
1937年日本亜鉛として操業開始、東邦亜鉛安中精錬所。翌年の1938年から公害?が見られた?。最初は蚕の生育不良という形で出たそうです。まだカドミュームが原因だなんて解明されていない時代です。巡査を仲介とする請願、大学による水質検査、土壌調査あり、労組スト、組合切り崩し、第二組合組織、第一組合消滅とかありました。1955年富山県の開業医が神通川のイタイイタイ病の存在を発表、1968年政府はイタイイタイ病を神通川上流の神岡鉱山の亜鉛処理からの排出が原因と認定、同年神通川イタイイタイ病訴訟開始、1971年原告側が勝訴。
安中公害訴訟が前橋地裁に受理されたのは1972年、1985年東京高裁によって和解勧告、和解が成立したのは1986年。実に48年の歳月が流れました。
安中市民にとって辛い話です。亜鉛生産は近代日本の重要な工業です。地元もそれによって発展しました。それと平行して亜鉛生産の処理過程によってカドミュームが排出され、自然環境にある水や土を汚染し、そこに生きる動植物のイノチを侵しました。

信越線が全通のころこの駅を通過するたびに山全体が工場という威容を見てきました。どうか過去にこういう話があったのだということを認識してもらいたいものです。

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