比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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1945年3月・・・あの戦争・・・ロスオリンピック金メダリスト西竹一・・・硫黄島に死す

2020-03-17 | 語り継ぐ責任 あの戦争
東京都小笠原村硫黄島です・・・東京を離れること1200㎞、伊豆諸島から南・・小笠原諸島のさらに南の硫黄島海嶺。
東西8㎞、南北4㎞、最高地は擂鉢山(標高170m)。
あの戦争の前は硫黄島産業㈱により硫黄採鉱、サトウキビ、医療用コカが生産され島民が在住。いまは海上自衛隊の駐屯基地のみで島民はいません。

いまから75年前のあの太平洋戦争、2月19日から3月26日、米軍と日本軍の間で熾烈な戦闘が行われた島です。
戦いは3月17日、硫黄島守備隊最高指揮者栗林忠道中将の本土大本営への訣別の電報、3月21日日本陸軍大本営は玉砕の発表、3月26日米軍の完全制圧で終結します。
日本軍の戦力約22780戦死約21900、捕虜1023人・・・戦死率94%・・・玉砕です。
米軍の戦力約110000人、戦死6821人、戦傷者19217人・・・戦死率6%は日本軍に比べわずかです戦死戦傷者数は日本軍を上回り米軍戦闘史上最も苛酷な戦闘だったといいます。
★数字、写真はWikipediaより。

硫黄島玉砕から38年経った1983年9月硫黄島に東京都の手によって鎮魂と慰霊の碑が建てられます。
その傍らに詩人草野心平の書による歌人釈迢空の歌碑が。

        たたかいに果てにし人をかえせとぞ
         われはよばむとす 大海にむきて


小説・・・城山三郎著硫黄島に死す』(新潮文庫 1984年刊)を読んでいます。上記の歌はその巻末の解説から・・・です。
釈迢空・・・民俗学者、国文学者、国語学者、折口信夫(しのぶ、1887~1953年)の歌人としての号。柳田国男を師と仰ぎ、民俗学の基礎を築き、その業績は「折口学」と呼ばれる。折口の愛弟子であり養子であった折口春洋(陸軍少尉)は硫黄島で戦死。

2020年東京オリンピック・・・どうなるでしょう。
1932年ロサンゼルスオリンピック・・・馬術大障害飛越競技金メダリスト西 竹一・・・1945年3月硫黄島にて死す・・・
城山三郎の小説『硫黄島に死す』は西 竹一陸軍中佐の物語です。

物語は昭和19年(1944年)7月横浜港、西 竹一陸軍中佐が600の兵を率いて出港する場面からはじまります。
ここから見習士官大久保との会話を交えながら・・・過去と現在進行形とが行き交います。
1932年の横浜港・・・ロスオリンピックへの出発の港、金メダリストとしての栄光に包まれた帰国の港。あれから12年、横浜港は見る影もなく変わり果てていました。
西 竹一・・・1902年生まれ、父徳二郎は旧薩摩藩士、戊辰戦争に参戦、ロシアに留学、外交官の道に、ロシア公使、外務大臣、男爵。駐清特命公使のとき義和団の乱に遭遇、西太后の信頼を得て中国茶の専売権を与えられ巨万の利を得たといわれる。竹一は徳二郎の三男(庶子)で嫡子の長男、次男が夭逝したため幼くして西家に入り、父徳二郎の死により11歳で男爵家の嗣子となった。「バロン西」の誕生です。
府中一中から陸軍幼年学校、士官学校、騎兵隊へ。毎年騎兵士官に育つのは20人そこそこ、陸軍将校の花形、伊達もの。
一服、二顔、三馬術」といわれ、西は巨万の富を相続した男爵、5尺8寸の偉丈夫・・・女にモテた。
愛馬「ウラヌス」はヨーロッパに出向いて自費で購入した・・・2万円(現在の価値で数千万円)。ロスオリンピックの遠征費、公費のほかに西は選手団のために6万円の私費を使った。
ウラヌス2号」というヨット、ロールスロイス、12気筒のパッカード・・・ヤリたい放題。
キザで、わがままで、派手で」と騎兵仲間は顔をしかめた。
ロスオリンピックで優勝したとき「We won(我々は勝った)」と叫んだという。この「我々」は「日本は、チームは、俺とウラヌスは」・・・何を指したか・・・

硫黄島での最後、戦死の日も遺体も定かではない。
ニシサン、デテコイ」という米軍の呼びかけがあったというが、定かではなく伝説の中で語られている。

死を覚悟した突撃の前に、内懐にウラヌスのたてがみ、片手に拳銃。片手にロサンゼルスで使った鞭・・・
西の愛馬ウラヌスは東京都世田谷区馬事公苑で余生を送っていたが、硫黄島の陥落のあと、西のあとを追うように亡くなったという。
硫黄島の戦死者21900柱のうち11500柱は、いまもなお未帰還です。


★硫黄島玉砕のあと、航空基地が確保され本土爆撃は激化、3カ月後に沖縄戦争終結、5カ月後に日本は降伏。
★硫黄島守備隊総指揮官栗林忠道中将・・・2011年㋄5日のblog・・・☞クリック・・・「信州松代・・・明徳寺・・・硫黄島に・・・散るぞ悲しき
★1983年文芸春秋11月号に発表された短篇小説、城山三郎の珠玉の代表作です。城山三郎は1945年3月の名古屋大空襲により生家を焼かれ、』4月愛知県立工業専門学校に入学、徴兵猶予になりますが5月に進路を変えて海軍特別幹部候補練習生に志願入再学、広島で人間魚雷の乗組員として訓練中、原爆のキノコ雲を見て終戦を迎えた、17歳であった。


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