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司馬遼太郎の見た仙台 その①

2007-07-11 21:22:19 | 読書/日本史
 司馬遼太郎の有名な紀行シリーズ『街道をゆく』26巻目には、仙台・石巻が取り上げられている。やはり地元に住む者からすれば、著名な作家が仙台をどう描いているか関心があり読んでみた。この巻は1985年に週刊朝日に掲載されており、書かれた時点から既に20年も過ぎている。司馬の仙台藩への評価は経済面でかなり辛口だった。

 この本に「沃土の民」という章があり、この一言が仙台人気質を如実に示している。この章の冒頭の一部を紹介したい。
旧仙台藩領、今はほぼ宮城県。この地の近世の原形は、伊達政宗がつくったとしか思えない。それほど政宗の存在が大きく、その死後、遺臣たちが祖業を完成した。「あとは、遊んでいたのでしょうか」。歩きながら編集部の藤谷宏樹氏が小声で言った。せいぜい政宗から四代目の綱村(1659-1719年)まで活性がみられる。もしそのあと遊んでいたとすれば、表高62万石の昼寝というべきで、これほど雄大な寝姿はない。

「不思議な思いがしますね」と、首をかしげたのは仙台で一夕を共にした村上芳郎氏である。職こそ市の市民局長だが、ゆったりとした教養を感じさせる人である。村上さんは石川県(加賀)もしくは金沢市に比べている。加賀百万石は美術工芸やそれに伴う漆器生産などの産業を県と市に残した。そういう基盤が戦後の県・市の発展計画の立案や遂行の上で目に見える作動力になっているらしい。「が、仙台藩は何を残してくれたのでしょう」…

 司馬はその背景を見事に分析していたが、さすが経済に敏い大阪人らしい。また抜粋する。
-ともかくも村上さんの感想は、一面において見事に旧仙台藩の本質を見抜いている。実をいうと、この大藩の経済活動は単純すぎ、徹底的に米に立脚し続けたのである。無理もないことで、仙台平野という肥沃な穀倉地帯のお陰で、腹は十分養えるのである。しかも政宗以来、堂々と新田を開発し続け、実高は百万石を超えるといわれた。さらに江戸に近いという有利さがあり、仙台藩は余剰米を江戸送りして売った。江戸中期には30万石前後にもなった。巨大な米穀商ともいうべき藩だった

 この米一筋の盛大が、仙台藩の経済観を単純にした。「殖産興業」という多様な商品生産の事業が江戸後期、西国大名たちの間で流行のように活発になるのだが、そういう時代でも仙台藩は泰然として米売り一本槍であった…
 私は近代以前においては、商品経済の有無で、人情から文化まで違ったものになる、と考えている。商品経済が盛んであればあるほど人々の思考法も多様になり、発想が単一でなくなるばかりか、斬新な思想や発明も生まれる…

 司馬は「仙台業書」という大正末期から昭和初年にかけて刊行された本を所持していたが、その中に「仙台物産沿革」という章がある。この章を書いたのは仙台市長の山田揆一(在任大正4(1915)年-8年)と見られているが、文中に「沃土ノ民ハ材(もち)ヒズ」という古語が引用されていた。これは中国の古典『国語』の「魯語下」にあり、「肥沃な土地の民は、つかいものにならぬ」という意味である。『国語』によれば、むかし聖王(※儒教的価値観からであり、日本的な聖人と違う)は民を瘠土(せきど・痩せた土地)に住まわせた、瘠土の民は心身を労するから心身の働きもよくなる、昔の聖王はそういう者を用いた。それに対し、沃土の民は材(はたらき)がよくないとのことだ。

 「仙台物産沿革」の著者は、歴代の仙台藩が沃土の上に安住して殖産興業を怠ったと言いたかったのだ。司馬もこう結論付ける。
-仙台藩はそれほど沃土だった。沃土を一層沃土たらしめたのは、政宗とその余熱を受けた人々である…江戸中期から日本の経済社会が変化し、諸藩は産業を志向した。中期以降の仙台藩はそれを怠った。「沃土の民」だったのである。

 個人差もあるが、あまり宮城県、こと仙台人は勤勉という話を聞いたことがない。やはりこれも「沃土の民」ゆえ、働きが悪いのかもしれない。地元には「仙台時間」という言葉もあり、万事につけ定刻どおりに始まらない、という意味があるのだ。
 それにしても、古の中国の“聖王”も、民を瘠土に住まわせ心身を労させたというから、民を慈しむという日本的な感性とはかけ離れている。外征で莫大な富を得、1~2年間無税政策を実行したシャー(イランの王)も大盤振る舞いが過ぎるが、中華の“聖王”くらい民を搾る支配者もない。司馬と同じく大阪外国語学校(現、大阪外国語大学)卒の作家・陳舜臣氏によれば、民とは元来奴隷を意味する言葉だったとか。
その②に続く

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