今年2月24日死去したドナルド・キーン氏にちなみ、私行きつけの図書館の特性コーナーにはキーン氏の著作が何点か置かれていた。そのひとつ 『日本人と日本文化』(中公文庫)は司馬遼太郎との対談集だったので、面白そうだと思い借りて読んでみた。文庫自体は初版が1984年4月だが、この書は昭和47(1972)年5月に中公新書285から出ている。
詠んでみて驚いたのは、キーン氏の博学ぶり。いかに日本文学研究の第一人者にせよ、これほど博識な学者は日本人の日本文学研究者にも稀かもしれない。キーン氏の専門は江戸文学だが、それ以外の時代の文学や歴史に関しても実に詳しく、司馬遼も舌を巻いている。氏が挙げた言葉「唐(から)めきたり」とは、源氏物語で使われている形容詞であり、この言葉を私は本書で初めて知った。
私的に最も面白かったのが、第1章「日本文化の誕生」だった。対談前、司馬遼とキーン氏は共に平城京跡を見たというが、司馬はその印象をこう語っている。
「当時(平城遷都は和銅3年、710年)の日本といえば、僅かに水田があって、他に生産物がほとんどなく、いわば草っ原と雑木林だけの経済的に貧しい日本で、よくあれだけ大きな都を造ったものだという感じですね。しかし、その目的といえば、いまでいえば万国博みたいなものでしょうな」(18頁)
キーン氏がそれに鋭い返答をしており、その全文引用したい。
「まあ、おそらくそうだったでしょうね。日本で初めてできた大きな寺は四天王寺(聖徳太子によって、593年、摂津玉造の岸に創建された)ですが、これは外国人―この場合は中国人でしょう―を接待するためのものだったと思います。日本にも文化があるのだ、日本もこんな立派な寺を持っているのだ、そういうことを先進国の人たちに見せるために建てたものだろうと思うのですが、平城京の場合でも、そういう意味が大いにあったのではないですか。
もしも日本にそれがなければ、野蛮国だとか後進国だとか思われるんじゃないかと心配したのでしょう。同じ意味で、日本にも歴史があるのだ、日本にも文学があるのだという強い観念から、『日本書紀』とか『万葉集』とか、漢詩集の『懐風藻(かいふうそう)』などが同じころにできたのだと思います。
要するに日本人は外国人をひじょうに意識して、外国人からどう思われるか、外国人に馬鹿にされてはたいへんだという考え方が昔からあったということですね。明治時代に入ってからも同じようなことがあったでしょう。日本にも外国に負けないほど立派な文化があるということを証明するために、鹿鳴館やら、ヴィクトリア王朝風の建築もできたわけですが、この平城京の場合でも、国内状況から考えると、おそらく大規模な都は必要ではなかったでしょう」(18-9頁)
平城京跡にはトイレの跡が出てこないそうで、生活の匂いのする、そういうきちんとしたものが出てこないということは、わりあい象徴的だと思う、と司馬遼は言っている。上記の箇所が載っているのは、「日本人の対外意識」という見出しの後なのだ。
キーン氏に指摘されるまでもなく、日本人の対外意識は現代でもさして変わっていないのではないか?特に外国人も来る大規模な催しとなると、必要以上に施設にカネをかけ、それを外国人に見せつける。来年のオリンピックの大はしゃぎぶりや、再び大阪で行う予定の万国博フィーバーにウンザリしている私の方が少数派かもしれない。
とりわけ日本の支配階層や知識人に、外国人を非常に意識し、外国人からどう思われるか、それに全力を傾ける輩が多いように感じる人もいると思う。昔は中国人だったが、明治以降は欧米人の目を意識するようになった。中国のように外国人を全く意識せず、ひたすら唯我独尊状態になるのは問題だが、意識しすぎるのも困りものだ。過度の自信過剰も自意識過剰も己を見失い、判断を誤らせるし、何よりも非生産的に陥る。
その②に続く
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