その①の続き
キーン氏が指摘した日本での外国文化の受け入れ方は、結構耳が痛かったが的をついているのは確かなので引用したい。
「日本の歴史を眺めておりますと、あらゆる面に外国文化に対する愛と憎、需要と抵抗の関係があるように思われます。たとえば『源氏物語』を読みますと、「唐(から)めきたり」という形容詞がありますが、これは悪い意味です。
本来はいい意味のはずですけど、私の理解したかぎりでは悪い意味です。要するに日本らしくない、わざとハイカラな姿をしている、そういう意味になります。『源氏物語』のなかにも中華文明崇拝のところもありますが、やっぱり抵抗もありましたから、だからこそ、『源氏物語』という小説は立派な文学として生まれたと思います」(24頁)
『源氏物語』の時代から「唐めきたり」という言葉があったのは意味深い。今風に言えば「欧米風」にちかいと思えるし、日本らしくない、わざと欧米風の振舞いをしている、と言えば非難の意味合いが強い。このような者は21世紀でも「欧米被れ」と陰口を言われがちである。
江戸時代にも同じような感情があったことは、山本七平がイザヤ・ベンダサン名義で出した『日本人と中国人』に見える。江戸時代にも中国ブームがあったが、中国という絶対権威への嫌悪から、強い「中国反発感情」に繋がっていき、明治はじめの中国侮蔑の素になったという。江戸時代も現代も、もったいぶり、見識家ぶるだけの外国かぶれ知識人は多いのだから。
続けてキーン氏は朝鮮とベトナムの例を挙げていたが、それには本当に驚いた。たぶん知られていないだろうし、その個所も引用する。
「たとえば朝鮮文学とか、ずいぶん後になりますけれどもヴェトナム文学の場合には、その小説の場面はだいたい中国です。自国のことをあまり書かなかったようです。ヴェトナムの小説の第一の主人公(ヒーロー)はまず中国人です。朝鮮もそうでした。
ところが日本人は『浜松中納言物語』のように物語のなかに中国の場面が出てくることがあるとしても、だいたいにおいて日本のことを書いております。要するに日本人でも悲劇の主人公になる資格がある、日本人にも一流の悩み、一流の喜びがあるというふうに思った。同じような精神で『万葉集』が生まれました」(25頁)
私は朝鮮やヴェトナムの文学は読んだことはないが、小説の場面はだいたい中国で第一の主人公も中国だったということを本書で初めて知った。なぜ小説の場面や主人公が自国ではなく中国だったのか?やはり儒教の根幹となる華夷思想(中華思想)の反映だろうか?いや、病的な小中華主義の結果なのだ。
これを以ってキーン氏は司馬遼太郎にこう話している。
「私は十分朝鮮語は知りませんから、私の想像にすぎませんが、朝鮮文学にそういう「唐めく」というような表現は、なかったのじゃないかと思うんです。つまり、中国文化にたいして日本のような抵抗があったとは思えないんです」(26頁)
まさにその通りで、司馬は背景をこう述べている。あの国では、ちょうど新羅の末期に、中国体制になりましょうということで、だいたい中国体制になってしまった。それまでには朝鮮人には朝鮮語の名前がついていたが、新羅末期から中国名になってしまった。新羅末期には官僚体制もそうなり、徹底的に儒教体制をやりだした。
それが最も徹底したのが李朝からだが、その間の五百年は生活の端々まで中国原理主義になるわけだった。そうなれば、文章というのは漢文のことだということになり、朝鮮の国字ハングルは賤しいものだとなってしまう。だから『春香伝』のほか自国語による文学らしいものもでなかった。司馬の意見はこうなのだ。
「だから、朝鮮ことばを使って文学を創り上げるという知的欲求がないんで、歌ってそこで消えるというのは別として、歌ったものを記録する ということはない。『万葉集』のように、あるいは相関歌のように、記録するということはたえてなかったわけでしょう。ですから、朝鮮の場合は、中国に呑み込まれてしまった政治だし、文学じゃないかと思います」(27頁)
日本人に外国文化に対する愛と憎、需要と抵抗の感情があったのは幸いだった。必ずしも島国だから、という訳ではない。例えばwikiのタイ文学の解説には、13世紀末に初めてタイ文字が使われたことが載っている。アユタヤ王朝にはタイ文学が開花しており、漢字文化圏だったベトナムとは対照的。小中華思想とは文学の創作意欲まで去勢するようだ。
その③に続く
◆関連記事:「日本人と中国人」
他の文明は外国と接触しているのが常態なのですが、日本は外国と接触しているのが例外的な状況でした。
だから、外国と接触した後の一世紀くらいは、それまでの数百年分を埋めるために過度とも思える反応をします。しかし、その後はもう十分だとして急速に興味を失います。(現在はそうなりつつある気がします。)
これは幸運な地勢の賜物であって、朝鮮などはしたくてもさせてもらえません。それでも中華に飲み込まれ記録も残せなかった数多の民族に比べれば朝鮮は抵抗しているのです。
タイは中華(漢字)文化圏ではありませんが、仏教文化圏です。タイ文字などあの辺りの民族文字は全て梵字の一種です。だからといって、タイ文化が仏教文化だけとは言えません。
ヨーロッパ文化のベースは、キリスト教(ユダヤ人の民族宗教の派生)とラテン語(ローマ字の元はフェニキア人の文字)ですが、小ローマ主義だとか「文学を創り上げるという知的欲求がない」などとは言いません。
仰る通り日本が基本的に孤立した文明でいられたのも、幸運な地勢の賜物でした。一方、朝鮮は位置が悪すぎた。中国と陸続きになっていた他の地域だと、中国以外の国とも接してますが朝鮮は中国だけ。中華文明に呑みこまれなかったのは、朝鮮以外ではモンゴルくらいかもしれませんね。チベットもかつてはそうでしたが、現代は危機的状況です。
ベトナムを除く東南アジア諸国は梵字文化圏です。パスパ文字もその流れで作られましたが、この文字はハングルにも影響を与えている可能性が高いと言われます。
ただ、梵字文化圏での文字は、こぞってハングルよりも早く成立しています。司馬遼もそれを知らないはずはなく、「文学を創り上げるという知的欲求がない」と腐したのもそれ故かもしれません。
確かに「小ローマ主義」という言葉はありませんね。西ローマ自体が5世紀で滅んでいるし、東ローマはギリシア正教文明圏です。神聖ローマ帝国も西ローマ帝国の後継国家を称する程度で、「小ローマ主義」はできませんでした。ラテン語は教会ラテン語として使われたため、「神聖文字」になりました。
そういう基準にすると、ハングルを作った朝鮮の方がまだ(民族独自の)文学を創り上げるという知的欲求があることになります。
あと、良く誤解されていますが、朝鮮は中華と陸続きではありません。陸続きなのは満州です。これは、東アジアの歴史や政治を理解する上で非常に重要です。
仰る通り、一部を除いて欧州ではラテン文字をそのまま使い、文化もキリスト教やギリシャ・ローマを題材にしたものばかりでした。ローマ帝国の後継国家を称していたことが、「病的な「小ローマ主義」」という見方は目からウロコです。その見方を取れば、欧州の方こそ民族独自の文学を創り上げるという知的欲求がなかったとなりますね。
改めて地図を見ましたが、朝鮮と陸続きなのは満州でした(汗)。全くお恥ずかしい限りですが、満州は一般に日本では印象が薄いですよね。何となく満州人の故地のイメージのある満州ですが、モンゴル民族も居住していました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E
中華 - 満州 - 朝鮮は重要です。
満州は中華の鬼門であり、中華を狙う場合はここを抑えます。(遊牧民もロシアも日本も。アメリカはこれを理解していなかったので朝鮮戦争で中国の参戦を招きました。)
中華.vs.満州.vs.朝鮮 の時は、朝鮮は中華と結びますが中華に支配されず比較的自立しています(新羅、前期高麗、前期朝鮮)。
しかし、満州の帝国が強大になると、後背となる朝鮮をまず支配してから中華に侵攻します。この時、朝鮮は中華(満州)に支配されます(後期高麗、後期朝鮮)。病的な小中華主義になるのはこの時です。
面白いでしょう。
「小ローマ主義」とは揶揄の意味だったのですか。近代以降はともかく中世でも西欧人は、ユーラシアや地中海世界の辺境だという意識が希薄というより、夜郎自大状態でした。十字軍でパレスチナに従軍した西欧人さえ、大半はイスラムの先進性が判らない。それも病的な「小ローマ主義」だったかも。
日本人は私も含め、中華 - 満州 - 朝鮮という関係に一般に疎いですよね。歴代朝鮮王は常に中国の使節に三跪九叩頭をしていたという印象がありますが、現代人が思うほど屈辱には感じていなかったと思います。尤も件の中国の使節は漢人ではなく、朝鮮が中華に送ったでしたが。
司馬の『韃靼疾風録』には、病的な小中華主義に凝り固まった朝鮮の士大夫が登場します。この人物は亡命者ですが、小中華主義が生き甲斐になっていて、満州人の興隆に盲目になっているのです。