トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

司馬遼太郎の見た仙台 その②

2007-07-12 21:28:18 | 読書/日本史
その①の続き
 地図を見れば、他の東北各県と異なり宮城県だけは平野を表す緑色が多いのが一目で分かる。寒冷で山がちな地形の東北の中で珍しく肥沃な穀倉地帯があり、さらに気候や海産物も比較的恵まれたため、西国ばかりか他の東北と比べても商品開発がさして行われなかった。この点、江戸時代に紅花はじめ活発な商品開発並びに京都との経済交流が行われた隣県・山形とは対照的だ。司馬遼太郎に言わせれば、「米穀一本であるため、他の諸商品のように文化の還流が期待しにくい」。

 そもそも伊達政宗自身が宮城県でなく、山形米沢の人だった。今は米沢といえば美味しい米沢牛で有名。一応仙台牛もあるが、米沢に比べれば陰が薄い。商品開発の拙さは現代まで尾を引いているのか。以前、私の職場に上役、部下共に評判のよい出世株の人物がいたが、山形の出だった。友人からも職場の局長や所長が山形県人という話を聞く。仙台を牛耳るのは山形県人なのだろうか。仙台を開府した政宗を司馬はこう表現している。

政宗は今の宮城県のぬしになるについて、旧勢力を臣従化された。というよりも、彼らの権威(席次)を尊重し、藩内における“大名”にするという他藩に類のない制度をとった…政宗といえども、そういう(家の格式に喧しい)奥州的事情をどうすることも出来なかった。この政宗の藩体制が後に禍した。仙台藩は江戸期を通じ、新規については一度も意見統一が出来ず、幕末においては壊れた巨大機関車のように身動きとれなかった

 司馬は仙台藩の経済政策の拙劣さを辛辣に批判しているが、学問尊重の伝統は高く評価している。しかし、「伊達家は根の生えた岩のようになってしまっており、中世的な“藩内藩”はどういう改革も好まなかった」。仙台藩から工藤平助林子平のような「他藩にも類を見ない先覚的な経世家、文明論者を出しながら」、「近代への開幕」になれなかった。林子平とは「寛政の三奇人」の一人だが、閉鎖的な仙台藩から林のような人物が出たのは何故だろう。

 司馬の『街道をゆく』26巻で、戦後の大阪と仙台が対比されている箇所があるが、これは興味深かった。戦後まもなく東一番町から青葉通(当時は裏五番丁)の角あたりは不法建築のバラックが密集、ヤミ商売が横行し、“東北上海”などと呼ばれていたらしい。これは大阪も同然で、特に大阪駅前付近はひどかった。仙台における都市計画ならびに復興はそれらの強制立ち退きから始まったが、大阪はそれが出来ず、都市計画も手遅れとなる。横浜出身の司馬の友人はその理由をこう解釈している。横浜と仙台は進駐軍の駐留期間が長かった、だから巧くいったと。双方とも昭和20年代における超法規的な権力だった進駐軍の後ろ盾があればこそ、不法建築や不法占拠者の一掃が出来たと、友人は言ったそうだ。『戦災復興余話』にもそれを伺える箇所がある。

幹線道路用地を不法占拠している建物の撤去が必要となってきた。その結果昭和24年3月頃から数回に亘り、県と市の手によって、これらの不法建物は強制執行を受け、撤去されるようになった。この撤去作業には警察官(武装)の動員はもちろんのこと、進駐軍のMPの応援も得て行われたもので、まさに命懸けだったと当時の関係者から聞いている。

 その後、今は「青葉通」と呼ばれている幹線道路が、仙台駅から東一番町まで貫き、さらなる諸計画が可能になった。進駐軍も役に立つことがあったのだ。それに対し、駐留期間が仙台より短かった大阪は都市計画が遅れたとは、司馬の本を見て初めて知った。昨年だったか、報道ステーションで見た公園でのホームレスのテント撤去作業を思い出す。テント数は少ないものの、支援者と称する集団の妨害行為がひどかった。まして、戦後なら凄まじかっただろう。

 一昨年頃だったか、河北新報で外国人が多数暮らす大阪を見習おうという記事が載ったことがある。私も大いにそう思う。もちろん反面教師として。住民が日本人だけだった江戸時代とはうって変わった凋落と治安悪化、財政悪化…下手すると幕末の仙台藩の如く、壊れた巨大機関車よろしく身動きが取れない状態に陥っているのではないか。

よろしかったら、クリックお願いします


最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ぬるりん)
2007-07-14 01:12:42
久しぶりのコメントですが、
うーん、辛辣ですね。
地元(隣県)の人間の感覚としては、大阪に関しては東京のメディアの取り上げ方は、やたらネガティブに偏ってるような気もしますけどね。
↓大阪駅前も時間がかかったにせよ片付いてます。
http://www.hankyu-air.co.jp/sightseeing_flight/img/osaka/umeda.html
返信する
京都はまだ (madi)
2007-07-14 03:55:08
京都駅近辺はじつはいまだに再開発がおくれている地域があります。
返信する
コメント、ありがとうございます (mugi)
2007-07-14 20:34:53
>ぬるりんさん
大阪駅前の映像をありがとうございました。
確かに東京のメディアが大阪を取り上げる時は、ネガティブな面をクローズアップする傾向があるかもしれません。国営、民放共に大阪の地盤沈下を大写しにします。これはネットでも似たようなものですね。大阪がいかに悪くなっているか、騒ぎ立てているのかも。

ネガティブに偏るなら東北も同じような気がしますね。
「東北は熊襲の産地で、文化程度も極めて低い」と言ったのは、故・佐治敬三サントリー会長でした。熊襲なら九州ですが。


>madiさん
戦災に遭わなかった京都で、再開発が遅れていたとは皮肉です。
観光地ばかり注目される京都も難しい事情があるようですね。
返信する
郷里は名古屋、金沢単身赴任中 (のらくろ)
2007-07-14 20:48:13
名古屋について言えば、戦後の都市計画を区画整理中心に進めて、それが大都市圏を比較すると日本中で一番うまくいったようですが、その中で凄まじかったのが市内各所に分散していた墓地を「平和公園」に「強制移転」したこと。



いかに戦争直後の混乱期とはいえ、死者の眠る墓地を動かしてしまうというのは、当時としても「大胆不敵」、現在なら暴挙以外の何物でもありませんが、それができてしまうのが名古屋。この点幹線道路に食い込んで交通障害になっている三本松を、単に「旧制四高の名残だから」という理由で移転すら出来ない金沢とは「えらい違い」です。



そのあたりが江戸以前の「伝統」を引きずった街と近代都市との違いかもしれませんが、旧家とまでは言えないもののボロくはなっていない古い家が都心にかなり残っているのも名古屋でして、ここがバブルに踊った東京とも違うところ。そういうことから名古屋は「今が旬」なのでしょう。明治維新には名古屋も金沢も乗り遅れましたから。
返信する
仙台の事情 (mugi)
2007-07-15 21:04:58
>のらくろさん
名古屋が郷里で、現代は金沢に単身赴任でお住まいでしたか。
私は名古屋、金沢ともに観光旅行でしか、行った事がありません。

仙台も墓地を「強制移転」は出来なかった。中心部こそ空襲で焼け野原になりましたが、今でも古い墓地が結構点在してます。ただ、明治以来の洋風建築が取り壊わされる事が増えているので、地元で保存運動が起こるようになりました。

金沢は道路が狭かったのを憶えています。飲食店に行けば、食事が出てくるのも遅めだったのが、仙台と違うと感じました。
仙台も戊辰戦争の「負け組」だったはずなのに、比較的東京流を取り入れるのは早かったような。常に東京を中心に見ているのは、江戸時代はもちろん、多賀城という東北で始めて国府が置かれた歴史があるのかも。
返信する