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森の町は灰の町-仙台空襲

2007-07-10 21:23:17 | 読書/日本史
 今日は仙台の戦災記念日である。河北新報の歴史講座「仙台万華鏡」でコラムを担当されている石澤友隆氏が、62年前の仙台空襲前の町の様子を書かれていた。コラムによれば、空襲は用意周到に行われたものだったのが分かる。

 昭和20(1945)年5月25日、米軍はB29爆撃機一機を飛ばし仙台上空から百枚以上の写真を撮影していた。これが空襲時の貴重な資料となる。これら写真のうち6枚を、昨年仙台市博物館が米国立公文書館から入手するが、川内の軍事地帯や原町苦竹の陸軍造兵廠(しょう)、仙台駅を中心に密集した街が鮮明に写っていた。

 大空襲前に米軍は短波放送と航空機を使い、大量の宣伝ビラを撒いて予告している。仙台中央放送局(現NHK)勤務の神山孜さんも短波を聴いた一人だった。神山さんは後に手記で、「私たち放送局の中の3、4人は米国の短波放送を傍受しており、日本向け宣伝放送は『7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように』と勧めていた」と書いている。
 事前に空襲を知っている人もいたにせよ、短波放送は聴取禁止、ビラも「いかにももっともらしいことが書いてあるが、国民を惑わし混乱させるための謀略。発見、拾得したら警察か憲兵に届けるよう」(同年6月1日号市公報)指導されていたため、多くの市民の耳目を引くことはなかった。ビラを届けないと3ヵ月以内の懲役若しくは勾留、百円以下の罰金に処せられた。

 昨年暮、石澤氏は戦時下の仙台のことを話す機会があり、懇談の席で河北新報社の一力一夫社主、会長からビラの話を聞く。「当時はビラのことを伝単と呼んでいた。私が見た伝単には『仙台よい町森の町、7月10日は灰の町』と印刷してあった」そうだ。
 伝単は捕虜になった日本兵か日系二世、或いは米軍情報専門家が作成したといわれるが、このような巧みな言い回しの文章は「日本語が堪能」だけで出来るものでもない。米軍に有能なコピー・ライターがいたのだろう。今は仙台を「杜(もり)の都」と呼ぶが、戦前は「森の都」が一般的だった。

 作家・阿川弘之氏は何年も前の『文藝春秋』の巻頭に、「日本よい国桜の国」という題でコラムを載せていたそうだ。それによると、昭和20年の春、東京空襲に来るB29郡は湘南地方上空で大量の宣伝ビラを撒いていた。阿川氏がこの他に発見したビラにはこう記されていたという。「日本よい国桜の国、5月6月灰の国、7月8月よその国」。まさにその通りの経過を辿るのだが、阿川氏はこれだけ簡素な敗戦予告の文章は日系二世や白人のアメリカ人に作れないだろうと考えている。石澤氏もまた、「仙台よい町」も同じ作者によるものなのは間違いないと断定されていた。

 仙台空襲の情報は当然軍もつかんでおり、7月9日の早朝、仙台駅貨物一番線に高射砲を積んだ12、3両の貨物列車が急遽到着する。当時仙台駅貨物主任だった海老原勇三さんは『仙台空襲』に、この出来事を書いている。
「予定しない到着に驚いた。立会いに来ていた軍の列車場司令官に尋ねたところ、『仙台の空襲が危ないという情報で、青森に向かう列車を急に途中から引き返した』ということであった。貨車には部隊の食糧になる豚やアヒルも積んでいた」。

 高射砲二個大隊、21門、照空灯(サーチライト)一個大隊、18基を持つ部隊で、夕方までには長町諏訪と原町日本放送教会(現NHK)送信所付近に陣地を展開する。それまで仙台にあった対空砲火は青葉山に改造野砲2門、簡易保険局、仙台電話局、藤崎百貨店屋上に対空機関砲だけだった。しかし、布陣を敷いた割に成果はなく、B29の爆撃は皆無。真偽は不明だが、高射砲を据え付けた台座を固定するコンクリートが乾かぬ内に撃ったので、ぐらついた、弾が敵機まで届かなかったという説もある。市内ではこの時、空襲による延焼を少しでも減らすため、1,076戸の建物を取り壊し、重要施設周辺で消防が円滑に活動できるための道路などを造った。

 空襲は予告通り、7月10日未明、B29編隊が来襲、約2万発の焼夷弾、爆弾を2時間に亘り投下、中心部の約1万2千戸が焼失、1,279名の犠牲者を出す。仙台空襲のほぼ一ヵ月後、全土が灰の町と化した日本は終戦を迎える。

 2001年9月11日、建国以来、本土を攻撃された歴史がない米国は、初の敵機による空襲を受ける。米国の力と富の象徴だったN.Yのツイン・タワーは、死の塔灰の塔となった。仙台空襲の2倍以上の犠牲者を出して。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
一番町は炎の海だったそうです (すず)
2007-07-10 21:36:32
 こんばんは、すずです。
亡くなった祖父(生きていれば百歳近いです)から聞いた話です。仙台空襲で街が焼け野原になった後は、広瀬川の河岸段丘に広がった旧市内にある我が家から、仙台駅までが見渡せたそうです。家の前の道路に二人で立ってその話を聞いたのが、初めて戦争の恐さを知った時でした。
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7月19日に仙台にいく予定ほか (madi)
2007-07-11 04:12:59
米軍のビラは状態がよければオークションで1万円くらいになります。
ところで、mugiさんは暴力団追放集会というのはごぞんじでしょうか?仙台で19日にあります。わたしは岡山から参加予定です。(翌日にクレサラ弁護団の大会が仙台であるついででもあります)。一般参加も可能ですので、時間があったらみてみてください。
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コメント、ありがとうございます (mugi)
2007-07-11 21:38:35
>こんばんは、すずさん。
私の母は県北出身ですが、数十㎞離れた所から仙台方面の空が赤くなっているのが見えたそうです。
そして母方の祖父は空襲後、勤労奉仕で仙台にいた娘たちの安否を捜しに来ていますが、町の様子は「見られたものではなかった」と多くは語りませんでした。私も焦土となった仙台中心部の白黒写真を目にしていますが、言葉もなかったですね。


>madiさん
米軍のビラがオークションでも売られているとは知りませんでした。
暴力団追放運動なら聞いてますが、19日に集会もあったとは、地元なのにこれまた知りませんでした(汗)。遠い岡山からお越しされる予定とは、頭が下がる思いです。
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