話題のベストセラー新書『国家の品格』(藤原正彦 著)を読んだ。藤原氏は作家・新田次郎の次男で、数学者。カバー裏には「論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、『国家の品格』を取り戻すことである」とある。
カバーや広告などから誤解されるだろうが、藤原氏はまず第一は情緒で、論理は二の次三の次などとは言ってない。論理も重要だと書いている。しかし、論理だ けではダメで、人間の論理や理性には限界がある、と説いているのだ。確かに人間の頭の出来などノーベル賞を取るような大学者でさえ完璧ではないし、まして 凡夫なら底が知れている。古来から人類は様々な哲学を発達させてきたが、これらも大変論理的に見える屁理屈集大全の面もあるのだ。人間が感情の動物なの は、未来も変わりない。
しかし、藤原氏が「国家の品格」を保つためには武士道精神を持ち出してきたのは、いささか違和感がある。彼の書 くとおり、日本の文化や伝統を子供の頃からきっちり学ばせる教育には、私も大いに賛同する。人間関係の基礎がまず家族であり、次に郷土、そして祖国愛とい うのも納得。“地球市民”など根無し草を巧妙にカムフラージュした文句に過ぎない。
藤原氏はアメリカ、イギリスで教鞭を取っていたこと があるので、その反動として日本的伝統回帰に繋がったのではないか、と勘ぐりたくなる。著書にもあるが、彼はアメリカかぶれだった時期があるのだ。日本に 帰国後、アメリカ流を通しても浮いてしまう。四十代前半には一年ほどケンブリッジ大で暮らすが、そこでは論理などより慣習や伝統が重んじられ、以心伝心や 腹芸さえもあったそうだ。同じアングロサクソンでもアメリカとは全く違う国柄だった、と。
本を読むと藤原氏のイギリスへの評価は極めて高いが、彼が挙げたイギリスのエリートの質問内容は私には愚問としか思えなかった。例えば藤原氏に「夏目漱石の『こころ』の中の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺とは何か関係あるのか」と聞いた教授がいた。何の関係もないではないか。自殺する先生が出る小説を読んだから、読者が腹を切るのは極めて稀であり、何の因果関係もない。藤原氏は答えるのに苦労したというが、理工系の方はやはり文学に弱いのか?
他にもロンドン駐在の日本の商社マンがあるお得意さんの家に呼ばれ、いきなり質問された例があるが、その質問たるや、「縄文式土器と弥生式土器とはどう違ったんだ」「元寇というのは2度あった。最初のと後のでは、何がどう違ったんだ」!この商社マンが言うにはイギリス人には人を試すという陰険なところがあるそうだが、この程度で試した気になっているのだろうか。私からすれば、釈迦の耳に説法だが、まさか商社マン氏は答えられなかったのではあるまいか。
藤原氏はこのような例を挙げ、イギリスのエリートは日本の歴史や文学について非常に具体的な質問をぶつけてくる、と書いているが、私には日本の歴史や文学 に詳しいとは到底思えなかった。上っ面でハッタリをかましただけでないか、との疑いが拭えない。イギリスのエリートたちは何故か自国の歴史や文学について は決して訊いて来ない、と氏が記しているのは興味深い。逆に日本人がイギリスの歴史や文学を質問したら、どんな反応を示すのだろう。
以前私は ファンタジー小説『指輪物語』のファンサイトを見たことがあるが、管理人によると、意外にイギリス本国のジャーナリストはこの本を読んでない人が多いそう だ。本もろくに読まず批評する者さえいるとは唖然とさせられたが、灯台下暗し、の諺もある。案外イギリスのエリートは自国の文学を読んでないのでは、と想 像した。日本でも古典を読破している方は少ないように。
マスコミ御用の評論家先生たちは、日本人は自国の文化について知らないが、外国ではちゃんと理解しているとお叱りあそばす。だが、必ずしもそうでないことは、私の乏しい海外旅行で分かった。香港がまだイギリス領だった頃、現地のガイドに中国の古典『金瓶梅』『聊斎志異』 について質問したことがある。ガイドは自分の親くらいの年齢だったし、中国人ならこの有名な古典くらい読んでいるだろうと思ったから。だがガイドは全く答 えられず、マスコミが言っていることは当てにならないと思い知らされた。或いは私もイギリス人のような陰険さがあるのだろうか。
藤原氏は「経済的にも軍事的にも大したことのないイギリスの言うことに世界は耳を傾ける」とも言っているが、大英帝国時代からの影響力と底力は未だ侮れない大国なのだ。氏はどうもアメリカから今度はイギリスかぶれになったのか。イギリスの政治力のスゴイのは、経済的には日本に負担させ、軍事力はアメリカを利用することにある。英国式腹黒外交も学んでほしいものだ。
私も武士道精神の魂は素晴らしいと思うが、残念ながらこれは日本国内だけで通用するものであり、他の文明圏には受け入れ難い。国内の道徳面では武士道精神 を大いに取り入れてもらいたいが、内外政治面では武士道精神はむしろ障害になる。精神の美徳イコール政治の技術とは無関係なのが世界の常なのだから。
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カバーや広告などから誤解されるだろうが、藤原氏はまず第一は情緒で、論理は二の次三の次などとは言ってない。論理も重要だと書いている。しかし、論理だ けではダメで、人間の論理や理性には限界がある、と説いているのだ。確かに人間の頭の出来などノーベル賞を取るような大学者でさえ完璧ではないし、まして 凡夫なら底が知れている。古来から人類は様々な哲学を発達させてきたが、これらも大変論理的に見える屁理屈集大全の面もあるのだ。人間が感情の動物なの は、未来も変わりない。
しかし、藤原氏が「国家の品格」を保つためには武士道精神を持ち出してきたのは、いささか違和感がある。彼の書 くとおり、日本の文化や伝統を子供の頃からきっちり学ばせる教育には、私も大いに賛同する。人間関係の基礎がまず家族であり、次に郷土、そして祖国愛とい うのも納得。“地球市民”など根無し草を巧妙にカムフラージュした文句に過ぎない。
藤原氏はアメリカ、イギリスで教鞭を取っていたこと があるので、その反動として日本的伝統回帰に繋がったのではないか、と勘ぐりたくなる。著書にもあるが、彼はアメリカかぶれだった時期があるのだ。日本に 帰国後、アメリカ流を通しても浮いてしまう。四十代前半には一年ほどケンブリッジ大で暮らすが、そこでは論理などより慣習や伝統が重んじられ、以心伝心や 腹芸さえもあったそうだ。同じアングロサクソンでもアメリカとは全く違う国柄だった、と。
本を読むと藤原氏のイギリスへの評価は極めて高いが、彼が挙げたイギリスのエリートの質問内容は私には愚問としか思えなかった。例えば藤原氏に「夏目漱石の『こころ』の中の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺とは何か関係あるのか」と聞いた教授がいた。何の関係もないではないか。自殺する先生が出る小説を読んだから、読者が腹を切るのは極めて稀であり、何の因果関係もない。藤原氏は答えるのに苦労したというが、理工系の方はやはり文学に弱いのか?
他にもロンドン駐在の日本の商社マンがあるお得意さんの家に呼ばれ、いきなり質問された例があるが、その質問たるや、「縄文式土器と弥生式土器とはどう違ったんだ」「元寇というのは2度あった。最初のと後のでは、何がどう違ったんだ」!この商社マンが言うにはイギリス人には人を試すという陰険なところがあるそうだが、この程度で試した気になっているのだろうか。私からすれば、釈迦の耳に説法だが、まさか商社マン氏は答えられなかったのではあるまいか。
藤原氏はこのような例を挙げ、イギリスのエリートは日本の歴史や文学について非常に具体的な質問をぶつけてくる、と書いているが、私には日本の歴史や文学 に詳しいとは到底思えなかった。上っ面でハッタリをかましただけでないか、との疑いが拭えない。イギリスのエリートたちは何故か自国の歴史や文学について は決して訊いて来ない、と氏が記しているのは興味深い。逆に日本人がイギリスの歴史や文学を質問したら、どんな反応を示すのだろう。
以前私は ファンタジー小説『指輪物語』のファンサイトを見たことがあるが、管理人によると、意外にイギリス本国のジャーナリストはこの本を読んでない人が多いそう だ。本もろくに読まず批評する者さえいるとは唖然とさせられたが、灯台下暗し、の諺もある。案外イギリスのエリートは自国の文学を読んでないのでは、と想 像した。日本でも古典を読破している方は少ないように。
マスコミ御用の評論家先生たちは、日本人は自国の文化について知らないが、外国ではちゃんと理解しているとお叱りあそばす。だが、必ずしもそうでないことは、私の乏しい海外旅行で分かった。香港がまだイギリス領だった頃、現地のガイドに中国の古典『金瓶梅』『聊斎志異』 について質問したことがある。ガイドは自分の親くらいの年齢だったし、中国人ならこの有名な古典くらい読んでいるだろうと思ったから。だがガイドは全く答 えられず、マスコミが言っていることは当てにならないと思い知らされた。或いは私もイギリス人のような陰険さがあるのだろうか。
藤原氏は「経済的にも軍事的にも大したことのないイギリスの言うことに世界は耳を傾ける」とも言っているが、大英帝国時代からの影響力と底力は未だ侮れない大国なのだ。氏はどうもアメリカから今度はイギリスかぶれになったのか。イギリスの政治力のスゴイのは、経済的には日本に負担させ、軍事力はアメリカを利用することにある。英国式腹黒外交も学んでほしいものだ。
私も武士道精神の魂は素晴らしいと思うが、残念ながらこれは日本国内だけで通用するものであり、他の文明圏には受け入れ難い。国内の道徳面では武士道精神 を大いに取り入れてもらいたいが、内外政治面では武士道精神はむしろ障害になる。精神の美徳イコール政治の技術とは無関係なのが世界の常なのだから。
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日本の武士道は、間違いなく世界には通じません。韓国が剣道を自国の文化だと主張するのを見過ごしているのは、武士道精神だそうですから。
ぼくは、日本のあきんど魂こそ世界に通ずる日本式だと思っています。
利に聡く、実にうるさく、計算高い。礼を失わず、それでいて手段を選ばず。誇り高いが、誇りで損をすることはない。
戦後にほんの躍進に一役買った、伝統のあきんど魂こそ必要だと思うのですよ。
ちなみに、あきんど魂の認識は、江戸期の古典で得た認識です。
たまたま、私も以前読んで、思うところのあった「国家の品格」を取り上げておられたので一言。エントリーの論旨には賛同です。その上でのコメントですが、「国家の品格」は、読まれた日本人の心に、結構大きな影響を与えたと考えております。
日本人の多くは、からなずしも単一の価値観では暮らしていないと考えております。例えば、小泉政治について、アメリカについて、中国や韓国について、ごく少数の人を除けば、絶対賛成、絶対反対、絶対好き、絶対嫌いとは思っていないが、そのためにマスコミ等にも影響され、常に揺れています。別の言い方をすれば価値観に芯がない。
この時、一つの「芯」を提示したのが「国家の品格」だと考えます。これまで小泉政治、アメリカ、中韓についてマスコミや識者から色々な意見がもたらされるが、何かピンとこないものがある。だが、必ずしも明確に表現は出来ない。「国家の品格」は、そうしたもやもやの解消に一筋の光、大きなヒントをもたらしたというのが私の見方です。
読者も、本の内容に全面的に賛成とは思わないような気がしますが、論理の専門家が日本人の得意とする「情緒」を後押しし、外国暮らしの長い識者が日本の文化や価値観を評価してくれれば、自らを卑下してきた人でもいくらか元気は出たでしょう。そう、いわば日本に対する「気付け薬」ではないでしょうか。
私の感じですが、マイノリティだが正論だと自負しているMugiさんのお気持ちと、藤原正彦氏の気持ちは、すごく通じるところがあるように思います。
家の子郎党の道徳としては有効ですが、リーダーのための帝王学では決してない。
にもかかわらず各界のリーダーたる人たちが「国家とは、滅ぶことなりとみつけたり」といわんばかりな状況。
古典教育も道徳教育同様にやり方次第では簡単に反日教育の一環になるわけで、教育現場の刷新が急務であると思われます。
私はこの本を未読ですので、批評する資格はないですね。でも、本の紹介や著者自身のTV出演を見た感想では、ある程度納得させられても、諸手を上げるのは難しいように感じました。
日本人自身が、日本人とは、武士道とはと、再考するきっかけとしては良いのですが。
香港のガイドさんは何時から現地に住んでいるのか、文革時代の影響もあるのか不明ですが、香港には中共のスパイも結構いたのが『マオ』にも見えます。ガイドもスパイも文盲ではないのに、その種の職業には古典教養は特に重要ではありませんね。それより愚かなのは、あたかも外国人のほとんどが文化伝統に通じているとの幻想を振りまいた、日本のマスコミです。
あきんど魂とは初耳です。商人といえば利に敏く、敵相手にも平気で商売するえげつないイメージがありますよね。
これは他国でも同じで、商人は何かと卑しまれてきました。“士農工商”は中国から来た言葉で、商人を一番下に置いた。
あきんどが金を儲けるのは当然ですが、儲けた金を何に使うかで、評価がかなり違ってくると思いますね。儲けを現地に還元しないあきんどは憎まれます。
>リンさん
仰るとおり戦国時代の下克上なら、世界で立派に通用しますね。ただ、この程度なら、大陸国家ではドキツイとは到底呼べません。
拙ブログを読まれて頂いた上に、これ程の評価まで受けたのは、気恥ずかしい限りです。
「国家の品格」を読まれた方々の感想は様々ですが、日本人の心に結構大きな影響を与えていたのでしょうか。
仰るとおり私も日本人は絶対的価値観は持っていないと思います。ユダヤ、キリスト、イスラムのような一神教世界ばかりでなく、儒教圏も強力なドグマを持っており、他の文化圏と妥協する事はありません。日本の場合はドグマに拘束される事がないので、よく言えば柔軟ですが、悪くすれば芯がなく、常に揺れる危険性を孕んでます。
この本があいまいとなりがちな日本に対する「気付け薬」の役割を果たしているなら、喜ばしいですね。教条的、排他的に陥るのも問題ですが、価値観に芯がなければ常に他文化圏の攻撃にさらされる。「汝自身を知れ」とは、現代も金言です。
確かに江戸武士道は道徳面では結構ですが、帝王学ではありませんね。リーダーのための“道徳”は別物です。
仰るとおり日本の古典教育も、それを行う教育現場が問題ならば意味を成しませんので、教育改革が早急に必要です。
>Marsさん
戦国時代は主君を裏切る下克上の世でしたが、江戸時代には受け入れられないものになりました。徳川政権は儒教を利用しましたが、第一の護るべき徳目を忠にしたのは改ざんです。本来の儒教は孝が至上の徳ですが、これでは父子そろって反逆してもよいとなりかねませんから。ただ、江戸時代の日本ではいかに反逆者でも、九族皆殺しなどは行われませんでした。
私もこの本をきっかけに日本人が武士道を見直すのは、よい現象だと思います。
昨日、たまたま読みました呉善花氏の本(『新 スカートの風』)に興味深い内容がありました。それは『中庸』の「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教(天があたえた自然の秩序を命といい、これを受けて生まれついた人間をはじめとする万物にそなわったいるものが性である、そしてこの性にそなわっているのが道であり、この道を修めることが教えである)」という言葉についてです。
氏はこれを「自然界の秩序である倫理とか道徳がある、同様に自然な人間のあり方(性)を受けて、論理的な人間のあり方(道)がある」と解釈して、この考え(朱子学)を韓国は受け入れている、と。
しかし、日本の伊藤仁斎という江戸時代の儒者は、それは逆ではないかと言ったそうです(それは、まず、体的・現実的な人間関係のあり方を追い求めてゆくところに道があり、この道にしたがうことが人間の性なのではないか、というものです)。
これは、自然の生まれつき(血縁、父系血族)に価値を求める社会と、イエという非血縁の存続を求める社会の差であり、儒教本来の「孝弟忠信」を受け入れるのと、「忠孝弟信」と順序が変わったことも、それに起因するものだそうです。そして、「孝」は、「泥棒の親をかくまう」という限界もあり、そもそも、女性を子供を生むための道具としかみない、など、日本人はその価値観を受けて入れていませんね(それを飢えているのは、中韓ですが)。
氏は、そういう考え方をするから、日本人は特定の宗教に傾倒しないのではないか、とも仰っていますが、私もそう思えます。
(儒教の天の命を、その他の宗教の神の命と変換すれば、それに従う者と、そうでない者の違いも、見えてくるのではないでしょうか?)