トーキング・マイノリティ

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エドワード・サイード その一

2015-12-19 16:40:14 | 読書/ノンフィクション

オリエンタリズム』の著者として知られるエドワード・サイードは、日本では知識人の間で広く支持されたパレスチナ系識者だった。中東・パレスチナ問題の専門外の学者やリベラル派を自称する知識人の間では特に人気があり、良心的パレスチナ人として日本のメディアは取り上げていた。しかし、サイードの論敵に対する姿勢には、良心的とは言い難い発言をしていたことを暫く前に知った。

 サイードが特に批判を繰り返していた論敵こそ、イスラム・中東史の専門家バーナード・ルイス。『書物の運命』(池内恵著、文藝春秋)で、サイードは主著「オリエンタリズム」以外でもルイスをあちこちで批判していたことが載っていた。だが、実の処それは感情論言いがかりに近いもので、殆ど批判になっていないと評せざるを得ない、とまで池内氏は述べている。
 というと、サイードを神格化する傾向の強い日本の論壇には怒る人も居るだろうが、と前置きした後、氏は具体的な例を挙げる。例えば『オリエンタリズム』では、ルイスがある論文でアラビア語で「革命」を意味する「サウラ」という語の語源を、ラクダなどが「興奮させられ、動かされ、立ち上がること」を表すと解説した…という瑣末な一部分を取り上げ、それがルスによるアラブ人に対する偏見、アラブ世界の政治変革の不可能性に対する先入観などを示しているかのように、口を極めて非難していたという。

 アラビア語を解する人がほぼ皆無状態の日本の思想論壇では、あたかもサイードがアラブ人としてアラビア語やアラブ思想に関してより正しい解釈を行える人物で、その分析を前提にして唾棄すべきオリエンタリストの曲解を論難しているように見えるのかもしれない。
 だが、実際には無理難題そのものといってよい、とする池内氏。続けて氏は、サイード自身の感情をぶちまけた文学論としてはこれでいいかもしれないが、それでも言いがかりや中傷というに近く、学術的な批判ではないとまで述べている。

 サイードは地中海から北米にかけての広い地域で活動するコスモポリタンなキリスト教徒の貿易商人の子として生まれ、カイロの外国人租界ザマーレクの広壮な邸宅で育ち、外国人・貴族階級向けの英語学校(ヴィクトリア・カレッジ)に通って成長したサイードの学術的なアラビア語の運用能力というものが、アラビア文献学に秀でたルイスと比べた場合、サイードに分があるとは考えにくいそうだ。
 サイードはあくまでアメリカの英文学者であり、彼の著作はアラブ世界では翻訳でしか刊行されない。しかも、サイード本人がアラビア語で書くことは殆どなかったらしい。

 一般に日本で知られるパレスチナ系知識人といえばサイードくらいだったし、アラブを代表する論客として広く受け入れられたのは当然だろう。しかし、池内氏の著書『書物の運命』を見るまで、サイードが殆ど特殊な環境で生まれ育っただけでなく、彼がアラビア語で書くことは殆どなかったことを初めて知った。パレスチナ人なのだから、何となくアラビア語でのコラムや著述も沢山あると思っていたが。
 10年以上も昔だったと思うが、NHK教育ТVで、大江健三郎とサイードの対談を放送していたことがある。対談自体は退屈だったし、内容はまるで憶えていないが、映像で見たサイードは穏やかな教養人という印象で好感が持てた。そのため池内氏のサイード批評には驚いた。

 アラビア語圏の議論では、政治・社会をめぐる議論であっても、まず語源である「語根」(多くは3つの子音からなる。「サウラ」の場合はth-w-r)に遡り、その語根の本来の意味を示してからその後の語義の変換や拡張・転化を論じていく…という作業は通常のものとして頻繁に行われているらしい。
 現代のアラブ人政治学者・政治哲学者自身がこの論法を多用しているそうだ。ルイスはそれを踏襲しているに過ぎない。サイードは始めからルイスの“偏見”を印象付けるという目的を持ったうえで、アメリカの一般読者には偏見に見えそうな(アラブ世界ではそう見えない)断片を切り取ってきていたのだ。
その二に続く

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