トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

映画を見ると得をする その二

2012-12-02 21:40:26 | 読書/ノンフィクション

その一の続き
 私的には頁数は少ないが、第三章「なぜ映画を観るのかといえば」が一番面白かった。シネマディクト(映画狂)とまではいかずとも、私も映画好きだし、池波正太郎は「映画を観るということは「いくつもの人生を見る」ということだ」と言い、次のように書いている。

だれしも一つの人生しか経験できない訳だ。その人生が、はじめから満たされていて、生まれた日から青年期、中年期、そして老人になっても全部の人生が満たされているのであれば、もう自分の人生は最高のものだ、世界一の人生だと思っているのであればね、何も他の人生に目を向ける必要がない。
 けれども、そういうことは普通は考えられないでしょう。それに人間というものは、自分だけの人生しか知らない、一つの人生しか知らないというのでは、やはり寂しい訳だよ。だから、小説を読み、芝居や映画を観るんだよ…(180~181頁)

 映画狂いというものは女狂いとか、アルコール中毒、麻薬中毒とは違い、人生に害をもたらすということがない。むしろいいのであり、いくら金をつぎ込んでも、たかが知れていると池波は言うのだ。パチンコや麻雀に使う時間を映画に注ぎ込んでしまえば、これは結構なことではないか。そういう意味で数ある中毒の中で、シネマディクトが一番幸せだろうと。
 映画を観るというのは、何も特別勉強しようと思って観に行くのではなく、娯楽として観ているという池波だが、同じ娯楽でも受け止め方は人により異なる。映画を見て得するタイプを彼はこう書く。

―人間の性格や能力は千差万別だからね、映画を観てもあまり自分に得るところがないという人も、それは中にはいる訳だよ。もともと娯楽ではあるけれども、その娯楽の中に含まれているいいものを、自分が楽しみながら知らず知らずに、無意識のうちに追及していく……そういう人が映画を観ると得をする。小説を読むと得をする、芝居を観ると得をするということになる…(190~191頁)

 映画の試写会となればセレブが招かれることが多いが、その中でも一番行儀の悪いのが政治家だという。政治家全てがそうではない、と断りつつ、映画の試写会で池波が会った政治家は酷かったそうだ。またも池波は、「野党の婆さん議員」を非難している。
「例えば名前は言わないが、婦人運動の先駆者なんて言われている野党の婆さん議員なんか」は試写会に15分も遅れて来て、人の前を頭も下げず通り、足を踏んづけても知らんぷり。実に傍若無人で、「そういうのを見ると、「何が婦人運動だ」という気持ちになるわけだよ」と池波は憤慨している。

 他にも映画の途中で立って帰ったアナウンサー出身の政治家、映画が始まるや否や、頬杖をついて煎餅を食べていた政治家もいたという。煎餅食いは「誰でも名前を言えばすぐ分かる与党の政治家」だったそうで、同伴した夫人と共に食べ物を持ち込んで食べていたとか。
 初版が昭和54(1979)年なので、私には“野党の婆さん議員”以外の政治家の名前は不明だが、当時から政治家というものは社会の基本的なマナーを守らない人種だったようだ。池波が言うとおり、「政治家というのがいかに一般の社会人から離れているのか、それで分かりますね

 映画について、池波はこうも述べている。
一面では文学と同じに、人生というものが文学的に描かれている。その中に美術が含まれている。絵画、彫刻、建築。さらに音楽が含まれている。とにかくいろんなものが映画の中に含まれている。総合芸術だからね、映画というのは…」(197頁)

 駄作も珍しくない映画だか、世界の第一級の人々による総合芸術が観られるのだ。今時それで1,800円なら安い方だろうし、千円で見られる特別な日もある。庶民にはこれほど安上りの娯楽もないのかもしれない。私が中東史に関心を持ったのも映画がきっかけだったし、歴史好きと映画は相性がよいはず。
 意外なことに池波は、「ポルノをつくっている会社の映画にも、時には観るべきものがある。例えば「赫い髪の女」」と、日活ロマンポルノの代表作を高く評価していた。この映画の動画もアップされており、初めて私は観たが、ロマンというより濃厚な愛欲の世界だった。台詞が関西弁なので、その種のシーンでも何やらお笑いに見えた。

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2 コメント

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いろいろ (のらくろ)
2012-12-05 03:11:31
宵の口に寝入ってしまったので、こんな時間にカキコしております。その一、その二まとめて行きます。

>「ポルノをつくっている会社の映画にも、時には観るべきものがある。例えば「赫い髪の女」」と、日活ロマンポルノの代表作を高く評価していた。この映画の動画もアップされており、初めて私は観たが、ロマンというより濃厚な愛欲の世界だった。台詞が関西弁なので、その種のシーンでも何やらお笑いに見えた。

江戸時代の春画は「ワ印」と呼ばれていました。「ワ」はもちろんワイセツのワでもありますが、笑いのワでもあります。特に江戸庶民の家庭では、夫婦だけではなく子どもも交えての娯楽であったとの説もあり、キリスト教に代表されるような砂漠型一神教の「毒」にそまっていなかったころの、「日本の原風景」のひとつであったといえると思います。
日活ロマンポルノの絶頂期からは幾分後退していた1980年代初め、「桃尻娘」シリーズや「聖子」シリーズで笑いがかなり入り込んだ作りが一世を風靡したことがありました。桃尻娘でブレイクした原悦子などは「昔節子、今悦子」と「それはホメすぎだろ」とツッコみたくなるような事を当時の三流メディア(三流週刊誌)などは言っていましたが、当時の原悦子のサイン会には長蛇の列ができたそうで「脱がないポルノ女優に何入れ込んでるんだ」と当時のオッサンたちに首を傾げられながらもある種の若者サブカル文化の一端を担っていたと思います。

>一昔前のТVドラマでも似た様な台詞が多かった。くどくどしい台詞は興ざめだし、見る気も失せる。現代はТV離れ現象も進んできており、要するにつまらないと見なされたので視聴者が減ったのだろう。

これは今世紀に入ってからも、今は観ていないので何とも言えませんが、特に「韓流ドラマ」に当てはまると思います。私が見たのはもう10年ほど前になると思いますが、ちょうど今頃の時間帯に某民放でひっそりと放映されていた、タイトルは「秋の童話」だったと思いますが、あまりの演技のクサさ、展開のありえなさにうんざりして、その後の「冬のソナタ」の大ブレイクに仰天したのですが、「要は視聴者もナメられてるということか」と冷めた目だったのを思い出します。先頃亡くなった森光子は、「右目からでも左目からでも意図したとおりのタイミングで涙を流せた」といいますが、今のタレント連中に対して、これほどまでに「俳優」業にストイックではなくても、もう少し映画やテレビドラマに真剣に取り組めよといいたくなるのは、歳をとったせいでしょうか。若手では、ヒロイン堀北真希、ヒール(と言うのはちと可哀そうな気がしないでもないが)戸田恵梨香といったあたりに期待したいと思います。15年ぐらい先に、40を目前にした彼女らが(おそらく濡れ場も含めて)どんな演技をみせてくれるか楽しみです。それもこれも、「日本国」がその時存在していればの話ですが。
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RE:いろいろ (mugi)
2012-12-05 21:19:59
>のらくろ さん、

「赫い髪の女」は名前だけは知っていましたが、私行きつけの某レンタル店にもありませんでした。しかし、動画がアップされていたので、やはりネットは便利です。「そればっかりやん」というコメント通りですが、昭和の風俗は懐かしかったですね。「まわす」という言葉は今は分からない人も少なくない?
 実は日活ロマンポルノで初めて見たのが、この「赫い髪の女」です。ポルノ映画は昔ТVで放送していた「エマニエル夫人」や「青い体験」くらいしか見ていません。

 江戸時代の春画を公開しているサイトもありました(笑)。確かにワイセツですが、芸術水準も高くなかなか見応えのあるモノです。春画は枕絵とも呼ばれ、昔の性教育にも使われたのでしょう。

「桃尻娘」シリーズも名前だけは知っていましたが、原悦子という女優名は初耳です。原悦子でググったら、アイドル路線だったそうですね。宇能鴻一郎原作のピンク映画(死語)に出ていた。昔父が読んでいたスポーツ新聞を盗み見た時、この作家の新聞小説が載っていたので名前を憶えています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%82%A6%E5%AD%90

 韓流ドラマを見た私の友人や周囲の人の感想も、一昔前のクサい日本のメロドラマそっくりということです。それがイイとハマるか、もう沢山と思うのかは個人差もあるでしょう。類は友を呼ぶのか、私の周囲は後者ばかりです。
 池波正太郎も日本の映画界では演技もロクに出来ない若い娘を次々に使うばかりで、じっくり育てることをしていないと批判していました。それでも優れた若手が出てこなければ、日本映画の衰退は決定的になります。手っ取り早く隣国の若手を使うのは問題でしょう。
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