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ミイラのつくり方

2007-07-15 20:31:49 | 読書/中東史
 古代エジプトといえば、ミイラが有名だ。古代エジプトの催しでミイラの展示は最大の目玉となり、おそらく会場に来た人々がもっとも熱心に眺める代物だろう。古代エジプトくらい、世界史でもまれな厚葬をした文明もない。製造技術は紀元前16世紀以降、新王朝時代に一段と精巧になる。ヘロドトスはミイラのつくり方を記しているが、これも代価により三段階あったらしい。

 もっとも丁寧な方法だと、まず鉄の鈎を使い鼻孔から脳髄を引き出し、これで出し切れない残りは薬剤を注入し腐敗させてから出す。次に鋭い花崗岩または玄武岩(エチオピア石と呼ばれていた)でわき腹に沿って切開、内臓を完全に取り去る。空になった腹腔はヤシ油で洗い、香料で清めてから没薬(もつやく)、桂皮、その他香料を詰め込み、元どおりに縫い合わせる。ついで遺体を70日間、ナトロン(天然炭酸ソーダ)につけて脱水した後、全身を洗浄、樹脂を浸した上等の亜麻布でぐるぐる巻きにする。これで全ての作業が完了となる。

 第二の方法なら、遺体の切開も内臓の摘出もしない。浣腸器にスギ油を入れて肛門から腹中にたっぷり注入し、こぼれないように栓をする。そして第一の場合同様屍をナトロンの中に入れ、取り出してから体内のスギ油を流し出すと、内臓も分解して共に外に出てくる。骨と皮だけになった遺体を遺族に引き渡す。
 第三の方法はもっと簡単で、腹の中を下剤で洗浄した後、ナトロン漬けにするだけだった。貴婦人や美貌の女性の場合は死後すぐにはミイラ作りに出されず、3、4日してはじめて遺体がミイラ師に渡された。屍姦を防ぐためだが、古代から女の死体とエッチしたがる男もいたとなるわけだ。

 地獄の沙汰も金次第というが、ミイラも料金により作り方が異なっていたのは興味深い。現代の葬儀でも故人により状況が違うし、食べ物屋でも具材により上、中、並と分かれているから当然か。ミイラだけでなく顔面の被せるマスクの製作技術も進化し、現代人が見てもデザイン的に見事な臓器つぼも別に用意された。死者のための護符や「死者の書」のパピルスがミイラ布に入れられる。パピルスは高価だったので、貧しい人々なら、その切れ端だけでも手に入れたいと願ったという。

 エジプトも初期王朝時代(紀元前3100年頃-紀元前2686年頃)はミイラをつくらず、沙漠の砂地や柔らかい岩床に竪穴を掘り、死者は手足を折り曲げ、横向けにして埋葬された。遺体はむしろや亜麻布で包まれ、食糧を入れた容器や日常使用した品々が副葬される。極度に乾燥した砂漠の粗末な墓穴では、しばしば死体が天然のミイラとなった。灼熱と乾燥の国エジプトでは、ゆうに6千年も昔の人間の屍さえ朽ちずに残っていることもある。骨はもちろん、皮膚、筋肉、毛髪から時には腐りやすい脳みそ、体内諸器官、神経系統まで整い、胃腸内にも穀物や魚の骨、羊、ヤギ、牛などの食肉まで残っている。

 エジプト人は「太陽の如く永遠に」という表現をよく使ったが、変わらないのは太陽ばかりでなくその下を流れるナイル、沃野の彼方の砂漠、全てが不変だった。彼らが保守的で伝統を重んじたのも、静的な環境に影響されるところがあったらしく、死後も現世と同じように生き続けるという信仰を持つに至る。
 肉体の他に人間は魂を持つと考えたのはエジプト人も同じで、それを「カァ」と呼んだ。死後もカァは生き続け、肉体がミイラになって復活した時、カァは再び戻り死者は甦る。カァは主を守り続けると考えたエジプト人は肉体の保存に全力を挙げるばかりでなく、ミイラが朽ちた場合も想定し、カァが宿れるように自分の彫像も周到に用意した。

 これ程ミイラづくりに精を出したのは古代エジプト人くらいだろうと思いきや、現代でも密かにミイラをつくる者がいるらしい。数年ほど前のNHK教育TVで、贋作ミイラを扱った番組があった。事件があったのはパキスタンで、古代ペルシアの王女のミイラとの触れ込みで入手した屍を調査したら、現代つくられたものだったらしい。死体に細工して、もっともらしく古代のミイラに見せかけた代物だったが、ニセモノを扱うビジネスが成立する市場があるということだ。資金に応じてミイラづくりは三段階あったにせよ、死者への尊厳もあったものでない現代人の違法行為は、古代エジプト人も呆れるだろう。 

■参考:「古代オリエント」河出書房、岸本通夫著

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