こういった参考資料をもとに、イアン・カーティスの詩と生活について調べながら、映画「コントロール」の字幕のすばらしさを改めて感じました。イアンの詩がすっと入ってきたのは、この翻訳のおかげだと思います(これについては改めて記したいと思います)。パンフレットには、字幕を担当した松浦美奈さん(恋愛映画からホラーまで、幅広い作品を手がけているベテランで、とくに洋楽の専門ということではないとのことでした)が、詩を訳すのにどれだけ神経を使ったかということを書かれていました。「イアンの歌詞は、彼がその時、心の奥底で感じていたことを極めて詩的に綴ったものが多いので、映画を観た人が、イアンがどういう心情でこの歌詞を書いたのか? 少しでも判りやすく伝えたい!」という配給サイドの意向を汲み、そのための努力を惜しまなかった翻訳者と出会えたことは、詩にとってとても幸運だったのではないかと思います。文学(研究)の分野でさえ、肝心のテキストの正確な理解を目指す前に、批評だけが先走ってしまうことは多々あるからです。
イアン・カーティスは歌詞について生前のインタビューで、《特にメッセージはない。どうとでも好きなように解釈してもらえればいい》(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』など)と語っていて、詩を表立って取り上げることには否定的でした。だからといって、それはそのまま「どうでもいい」とか、判る人にだけ判ればいい、ということにはならないと思います。
ただ、ジョイ・ディヴィジョンに限らず、洋楽の歌詞カードに間違いが多いことは、よく指摘されることです。例えば、『ボブ・ディラン全詩302篇』(1993年)の訳者あとがき(片桐ユズル「ディランのことば」)にはこう書かれています。
「歌詞カードというものの性質上、訳しにくいものも、訳したいものも、とにかく全曲やらなくてはならない。そして歌詞カードというものは、ふつう、筆者が校正に目をとおすチャンスはないものらしいので、とんでもないミスプリントがときどきある。……ふつうの歌詞カードというものは、あちらで出ている原盤にはついていないから、日本で出すときは、外人アルバイトをつかまえてきて一曲いくらで、レコードをききながら書きとりをさせるのだ。ところが、このためには、スペリングや文法がきちんとできるだけではだめで、詩についての教養と想像力がいるのだ。このごろは外人も質がおちて、そういうひとはなかなかいない。そこで、だめな外人がつくった、だめな書きとりをもとにして、たいてい歌詞カードをつくる。訳者の語学力の問題以前に、すでにテキストがあやふやなのだ。
レコードとか、活字とかいうかたちで、多数ばらまかれるものは、とうぜん、それだけの責任をもってつくられたものとおもって、みんな買っているが、じつは、マスコミ産業の内情や労働条件からいったら、そんなに良心的にしていたら身がもたないから、ヨカロー、コノヘンデヤッチマエー、てなもんだ。だから、レコードにしろ、放送にしろ、活字にしろ、そういうインチキさを承知し、割引きしながら、うけとらないといけない。」
つまり、訳以前にすでにテキストがあやふやなのです。このような例として、ニュー・オーダーの「Here to stay」があります。これは、ファクトリー・レコードの盛衰を描いた映画「24アワー・パーティ・ピープル」(2002年)のエンドロールに流れます。サビの部分、「Like a bright light on the horizon / Shining so bright, he`ll get you flying(地平線に輝く光のように/光輝く、彼が君を飛ばせる)」に続いて、「ジョニーは泣く/でも彼は歌える/屋根の上で君の頭に向けて」という字幕が出ます。何のことかよくわからないつながりです。アルバム『シングルズ』の歌詞カードを見ると、「Jhonny can weep/ But Johnny can sing /But then on the roof /Onto your head」となっていて、これを訳したたためなのだと分かります。一方インターネットで公開されている歌詞は、「He`ll drive you away, he`ll drive you insane /But then he`ll remove all of your pain」で、直訳すると、「彼は君を遠くへ飛ばせる、君を狂わせる、でも君の苦しみを全て取り去るだろう」となります。これならよくわかります。曲を聴いても確かに「ジョニー……」ではないようです。《飛ばしてくれる彼、狂わせてくれる彼、苦しみを取り去ってくれる彼》は、勿論イアン・カーティスのことですし、映画に登場したプロデューサーの故マーティン・ハネット(1948-1991)、マネージャーの故ロブ・グレットン(1953-1999)など、音楽に尽くした全ての人たちへのオマージュとして、ぐっと響いてきます。
「24アワー・パーティ・ピープル」は、ピーター・フック(1956-)が「正確性は60%ほど」(「ストレンジ・デイズ」2008年4月号のインタビュー。ちなみに「コントロール」は「95%正しい」とのこと)というように、事実を描くというよりは、面白く描くことの方に重点が置かれているようで、随所に笑いの要素がちりばめられていて、楽しく観ることができます。しかし、この歌がラストにあることによって、馬鹿馬鹿しさの目立つ本編に、もう少し深い余韻が添えられているはずなのです。そのため、テキスト・翻訳のあいまいさが悔やまれるのです。
イアン・カーティスは「Transmission」で「言葉はいらない、サウンドだけ」と歌っていますが、少なくとも彼の詩に強く引きつけられた私にとっては、とても意味があります。そして、こうした歌詞の持つ意味を考え直すきっかけとなり、一つの作品としてきちんと「読みたい」という動機につながりました。
イアン・カーティスは歌詞について生前のインタビューで、《特にメッセージはない。どうとでも好きなように解釈してもらえればいい》(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』など)と語っていて、詩を表立って取り上げることには否定的でした。だからといって、それはそのまま「どうでもいい」とか、判る人にだけ判ればいい、ということにはならないと思います。
ただ、ジョイ・ディヴィジョンに限らず、洋楽の歌詞カードに間違いが多いことは、よく指摘されることです。例えば、『ボブ・ディラン全詩302篇』(1993年)の訳者あとがき(片桐ユズル「ディランのことば」)にはこう書かれています。
「歌詞カードというものの性質上、訳しにくいものも、訳したいものも、とにかく全曲やらなくてはならない。そして歌詞カードというものは、ふつう、筆者が校正に目をとおすチャンスはないものらしいので、とんでもないミスプリントがときどきある。……ふつうの歌詞カードというものは、あちらで出ている原盤にはついていないから、日本で出すときは、外人アルバイトをつかまえてきて一曲いくらで、レコードをききながら書きとりをさせるのだ。ところが、このためには、スペリングや文法がきちんとできるだけではだめで、詩についての教養と想像力がいるのだ。このごろは外人も質がおちて、そういうひとはなかなかいない。そこで、だめな外人がつくった、だめな書きとりをもとにして、たいてい歌詞カードをつくる。訳者の語学力の問題以前に、すでにテキストがあやふやなのだ。
レコードとか、活字とかいうかたちで、多数ばらまかれるものは、とうぜん、それだけの責任をもってつくられたものとおもって、みんな買っているが、じつは、マスコミ産業の内情や労働条件からいったら、そんなに良心的にしていたら身がもたないから、ヨカロー、コノヘンデヤッチマエー、てなもんだ。だから、レコードにしろ、放送にしろ、活字にしろ、そういうインチキさを承知し、割引きしながら、うけとらないといけない。」
つまり、訳以前にすでにテキストがあやふやなのです。このような例として、ニュー・オーダーの「Here to stay」があります。これは、ファクトリー・レコードの盛衰を描いた映画「24アワー・パーティ・ピープル」(2002年)のエンドロールに流れます。サビの部分、「Like a bright light on the horizon / Shining so bright, he`ll get you flying(地平線に輝く光のように/光輝く、彼が君を飛ばせる)」に続いて、「ジョニーは泣く/でも彼は歌える/屋根の上で君の頭に向けて」という字幕が出ます。何のことかよくわからないつながりです。アルバム『シングルズ』の歌詞カードを見ると、「Jhonny can weep/ But Johnny can sing /But then on the roof /Onto your head」となっていて、これを訳したたためなのだと分かります。一方インターネットで公開されている歌詞は、「He`ll drive you away, he`ll drive you insane /But then he`ll remove all of your pain」で、直訳すると、「彼は君を遠くへ飛ばせる、君を狂わせる、でも君の苦しみを全て取り去るだろう」となります。これならよくわかります。曲を聴いても確かに「ジョニー……」ではないようです。《飛ばしてくれる彼、狂わせてくれる彼、苦しみを取り去ってくれる彼》は、勿論イアン・カーティスのことですし、映画に登場したプロデューサーの故マーティン・ハネット(1948-1991)、マネージャーの故ロブ・グレットン(1953-1999)など、音楽に尽くした全ての人たちへのオマージュとして、ぐっと響いてきます。
「24アワー・パーティ・ピープル」は、ピーター・フック(1956-)が「正確性は60%ほど」(「ストレンジ・デイズ」2008年4月号のインタビュー。ちなみに「コントロール」は「95%正しい」とのこと)というように、事実を描くというよりは、面白く描くことの方に重点が置かれているようで、随所に笑いの要素がちりばめられていて、楽しく観ることができます。しかし、この歌がラストにあることによって、馬鹿馬鹿しさの目立つ本編に、もう少し深い余韻が添えられているはずなのです。そのため、テキスト・翻訳のあいまいさが悔やまれるのです。
イアン・カーティスは「Transmission」で「言葉はいらない、サウンドだけ」と歌っていますが、少なくとも彼の詩に強く引きつけられた私にとっては、とても意味があります。そして、こうした歌詞の持つ意味を考え直すきっかけとなり、一つの作品としてきちんと「読みたい」という動機につながりました。