はじめに断っておく必要があろうかと思うが、常は、新聞批評ほどの必要性を持ってではないけれども、些かなりとも演奏会リポートめいた役割を意識して拙文を認めている。しかし、今回は、かかる意識を敢えて排して、私が感じたことを、自由に述べてみたい。それが、殆ど、自分語りを、ひとりごちるような具合になろうとも。
私は、ポリーニを、今回初めて実演で聴いた。実のところ、私は、ポリーニの良い聴き手ではない。いや、かつては、嫌いなピアニストのひとりであった。
予てから、ポリーニの完璧無比な技術はもちろん評価していたし、それがもう、否応なく突き付けられる、ペトリューシカの3楽章や、ショパンのエチュードといった録音に敬意を表してきたつもりだ。
それでも尚、ポリーニは私にとって遠いところにいるピアニストだった。ベートーヴェンは、あまりに冷血な気がしたし、同じ作曲家のコンチェルトやブラームスのそれも、伴奏共ども、筋骨隆々たる立派さが、聴いていて辛かったものである。
そんな印象が改まり始めたのが、最晩年のベームと録音した、モーツァルトのコンチェルトを、聴いてからであった。私はそれまで、彼が、こんなに優しく美しいピアノを弾く人だとは、全く思っていなかった。
それから少なからぬ注意を、ポリーニに対して払い始めたところ、いよいよこのところの彼の深化を看過することは出来ないと、今回、決して安くないチケット代を支払って、出かけたのであった。
発売時は-これは、本当に腹立たしいことなのだが-、プログラムが未定であった。後日発表されたのが、この度のオール・ショパン・プログラム。既にチケットを求めた大半の人達が、狂喜したのではないかと、思う。
けれども、私は寧ろ、残念だった。率直に、ショパンを好まないからだ。後半のプログラムを占めたスケルツォ・マズルカは、殆ど私にとって聴くのが苦痛な音楽である。ソナタの第2番も、第3番と比べて、あまりに貧相な作品と、私は思う。
多分、発売前にこのプログラムが出ていたら、私は行きはしなかったろう。
ただ、断っておけば、何もショパンに限らず、私はピアノ独奏を進んで聴くことは滅多にない。独奏ピアノがフォルティッシモを叩き出しているのを聴くのが、耐え難いという人間なのである。
それでも、私はポリーニを実際に見て、聴くことに大変な期待を寄せて、当日を迎えたのである。
そして、結論のみを言うならば、ポリーニが、当今比肩する者を見出だし難いほどの、まごうことなき名手であると、痛感した。これだけ腕が立って、それでいて知的なピアニストが、他にあるだろうか。選曲、その繋ぎ方、全てが考え抜かれ、一部の隙もありはしない。それはもう、今日の演奏会の、どれか一曲を聴いてみれば、すぐに分かるというものだ。
けれども、それにも関わらず私は、最後まで歯痒い思いを拭い去ることが出来なかった。
-なぜ、ショパンなのか?
この演奏会に来た人を、大別すれば、ショパンを聴きに来た人、ポリーニを聴きに来た人、とし得るだろう。更に後者を、ポリーニの技術そのものを聴きに来た人と、彼が作品を通して何を語るかを聴きに来た人と分けてもよいかも知れない。
私はピアノ演奏技術には疎いし、ショパンは嫌いだから、最後に分類されるより他ない。
その観点で見れば、ポリーニの才覚は、ショパンの音楽を超えている。ポリーニという人が、どういうピアニストであるのか、知ろうとするほどに、ショパンの作品が桎梏となる。
先述したポリーニへの賞賛の気持ちが、ショパンがいかにつまらないかという気持ちに、すっかり押しやられてしまったと言えば、果たしていかばかりの反論を浴びるだろうか?
事実に於いて、演奏会は空前の大成功を見た。まるでトースターからパンが跳ね上がるように、スタンディングオベーションが広がり、関西では、朝比奈さんが亡くなって以来、こんなことは初めてではないかと思う。
アンコールの、「革命のエチュード」、バラード1番となるに至り、会場は凄まじい熱狂に包まれていた。
確かにバラードは凄絶で、穏やかな開始と、次第に熱を帯びて行く、そうして最高潮に達したときの、地を揺るがすばかりの迫力。しかしそれは、私の「強奏嫌い」を消し去るように、あくまで豊かな響きを持っており、全く力付くという印象を与えはしないのである。
これは、全体についても、言えることだ。他のピアニストと比べては、mp以上の音量で、ポリーニは始終演奏しているような具合だが、あれほどうるさく響かない最強音を、私は初めて聴いた。
音楽は些かの澱みもなく、流れる。英雄ポロネーズなど、物足りなさが残ったくらいだ。こういうショパンは、あるいは情緒的なショパン演奏を求める向きには、食い足りないかも知れない。ソナタも、それがかえって、せわしなく感じられた。
けれども、私が今回の白眉と感じたのは、直前で追加された、ノクターンの2曲である。特に変ニ長調が。ポリーニが、あんなにも美しくて、優しいピアノを奏でる人とは、先のモーツァルトを聴いても尚、想像出来なかった。しかし、その演奏は一抹の寂寥感を漂わせている。いつも、どこか寂しげなのである。それは「ギリシア彫刻」「アポロ的」などと一般に比喩されるポリーニ像では、まるで指摘されないものだ。慈愛に満ちた微笑みと、寂しげな横顔-いかにも突飛で、牽強附会の謗りを免れ得ないであろうが、私はあの、「生きる」での志村喬を、ふと思い出したりもした。
彼はずっと、その恵まれ過ぎた技術故に、批評家筋から揶揄されてきた。ディースカウ同様、「うますぎる」などという批判が、甚だ無意味であることは言うまでもないが。
けれども彼の演奏が、かつて確かにテクニックの披瀝のようにしか感じられなかったことも事実である。しかし、いよいよかかる繊細微妙な表情を、その演奏が帯びて来たことにこそ、傾注すべきではないのか。
私はノクターンを聴いてしきりとそう感じたが、ショパンの音楽では、技術の妙ばかりが先立ちすぎて、こうして表情のうつろいが、浮かび上がって来ないのである。そこに私は、ショパンの限界を指摘する。これはもとより、その音楽の優劣を言うのではなく、ポリーニへの適性を言いたいのだ。
殆ど感情的な言い方をすれば、いい加減にピアニストはショパンを弾くという図式から、もっとたくさんの聴き手は抜け出すべきだ。おそらく、このオール・ショパン決定の背景には、様々な音楽以外の事情が絡んでいるのだろうが、その中でポリーニは最大限自分の主張をしてはいる。けれども、これは、日本の聴衆が蔑まれていると言えるのではないか。名手がショパンを、完璧な技巧で弾き切れば、熱狂をもって讃えるという人たちが、あまりに多くはないだろうか?
無論、何を以ってその演奏家の魅力と為すかに決まった基準などありはしないが、少なくとも、ショパンの音楽は、技術以外の、ピアニストが、音楽を通じて自己の何を表出しようとしているのかを聴き取ろうとする時には、あまりに不十分なところが、多い。彼の音楽は、多くの人が思うよりも、形式への志向が強い。そうしてまた、歌謡性が、前進への抑え難い思いに疎外されて、そのロマンティシズムに断絶が生じている場合が少なくない。
そんな中で、ノクターンは、彼の感情が、実は割と素直に書かれていると、私は感じる。マズルカもスケルツォもバラードも、ロマンティシズムと形式へのこだわりに引き裂かれている。例えばシューマンのような、ある種の開き直りのようなものが、もっと必要だったろう。
上述した、ポリーニの演奏がもつ流れの良さと、表情の微妙な明滅とを考え合わせれば、私はやはりモーツァルトが聴いてみたい。バッハ、ブラームス、モーツァルトのプログラムなど、私はいま、ポリーニで1番聴きたい。コンチェルトなら、ラヴェルも、あの第2楽章を想像して、居ても立ってもいられなくなる。
果たして、こうした、ショパンに比べると大人しいプログラムで、人々はどれほど熱狂したろう?あるいは、無名の若手ピアニストが、全く同じ演奏をしたとして、同じ喝采を浴びたろうか?この矛盾した2つの問いに、どう答えたものだろうか。再現芸術としての音楽への接し方を、改めて考えさせられずにはいられない。
ともかく私にとっては、満足感と著しい不満とが、併存する結果となった。
初めから少数派、終わっても少数派であろうか?
私は、ポリーニを、今回初めて実演で聴いた。実のところ、私は、ポリーニの良い聴き手ではない。いや、かつては、嫌いなピアニストのひとりであった。
予てから、ポリーニの完璧無比な技術はもちろん評価していたし、それがもう、否応なく突き付けられる、ペトリューシカの3楽章や、ショパンのエチュードといった録音に敬意を表してきたつもりだ。
それでも尚、ポリーニは私にとって遠いところにいるピアニストだった。ベートーヴェンは、あまりに冷血な気がしたし、同じ作曲家のコンチェルトやブラームスのそれも、伴奏共ども、筋骨隆々たる立派さが、聴いていて辛かったものである。
そんな印象が改まり始めたのが、最晩年のベームと録音した、モーツァルトのコンチェルトを、聴いてからであった。私はそれまで、彼が、こんなに優しく美しいピアノを弾く人だとは、全く思っていなかった。
それから少なからぬ注意を、ポリーニに対して払い始めたところ、いよいよこのところの彼の深化を看過することは出来ないと、今回、決して安くないチケット代を支払って、出かけたのであった。
発売時は-これは、本当に腹立たしいことなのだが-、プログラムが未定であった。後日発表されたのが、この度のオール・ショパン・プログラム。既にチケットを求めた大半の人達が、狂喜したのではないかと、思う。
けれども、私は寧ろ、残念だった。率直に、ショパンを好まないからだ。後半のプログラムを占めたスケルツォ・マズルカは、殆ど私にとって聴くのが苦痛な音楽である。ソナタの第2番も、第3番と比べて、あまりに貧相な作品と、私は思う。
多分、発売前にこのプログラムが出ていたら、私は行きはしなかったろう。
ただ、断っておけば、何もショパンに限らず、私はピアノ独奏を進んで聴くことは滅多にない。独奏ピアノがフォルティッシモを叩き出しているのを聴くのが、耐え難いという人間なのである。
それでも、私はポリーニを実際に見て、聴くことに大変な期待を寄せて、当日を迎えたのである。
そして、結論のみを言うならば、ポリーニが、当今比肩する者を見出だし難いほどの、まごうことなき名手であると、痛感した。これだけ腕が立って、それでいて知的なピアニストが、他にあるだろうか。選曲、その繋ぎ方、全てが考え抜かれ、一部の隙もありはしない。それはもう、今日の演奏会の、どれか一曲を聴いてみれば、すぐに分かるというものだ。
けれども、それにも関わらず私は、最後まで歯痒い思いを拭い去ることが出来なかった。
-なぜ、ショパンなのか?
この演奏会に来た人を、大別すれば、ショパンを聴きに来た人、ポリーニを聴きに来た人、とし得るだろう。更に後者を、ポリーニの技術そのものを聴きに来た人と、彼が作品を通して何を語るかを聴きに来た人と分けてもよいかも知れない。
私はピアノ演奏技術には疎いし、ショパンは嫌いだから、最後に分類されるより他ない。
その観点で見れば、ポリーニの才覚は、ショパンの音楽を超えている。ポリーニという人が、どういうピアニストであるのか、知ろうとするほどに、ショパンの作品が桎梏となる。
先述したポリーニへの賞賛の気持ちが、ショパンがいかにつまらないかという気持ちに、すっかり押しやられてしまったと言えば、果たしていかばかりの反論を浴びるだろうか?
事実に於いて、演奏会は空前の大成功を見た。まるでトースターからパンが跳ね上がるように、スタンディングオベーションが広がり、関西では、朝比奈さんが亡くなって以来、こんなことは初めてではないかと思う。
アンコールの、「革命のエチュード」、バラード1番となるに至り、会場は凄まじい熱狂に包まれていた。
確かにバラードは凄絶で、穏やかな開始と、次第に熱を帯びて行く、そうして最高潮に達したときの、地を揺るがすばかりの迫力。しかしそれは、私の「強奏嫌い」を消し去るように、あくまで豊かな響きを持っており、全く力付くという印象を与えはしないのである。
これは、全体についても、言えることだ。他のピアニストと比べては、mp以上の音量で、ポリーニは始終演奏しているような具合だが、あれほどうるさく響かない最強音を、私は初めて聴いた。
音楽は些かの澱みもなく、流れる。英雄ポロネーズなど、物足りなさが残ったくらいだ。こういうショパンは、あるいは情緒的なショパン演奏を求める向きには、食い足りないかも知れない。ソナタも、それがかえって、せわしなく感じられた。
けれども、私が今回の白眉と感じたのは、直前で追加された、ノクターンの2曲である。特に変ニ長調が。ポリーニが、あんなにも美しくて、優しいピアノを奏でる人とは、先のモーツァルトを聴いても尚、想像出来なかった。しかし、その演奏は一抹の寂寥感を漂わせている。いつも、どこか寂しげなのである。それは「ギリシア彫刻」「アポロ的」などと一般に比喩されるポリーニ像では、まるで指摘されないものだ。慈愛に満ちた微笑みと、寂しげな横顔-いかにも突飛で、牽強附会の謗りを免れ得ないであろうが、私はあの、「生きる」での志村喬を、ふと思い出したりもした。
彼はずっと、その恵まれ過ぎた技術故に、批評家筋から揶揄されてきた。ディースカウ同様、「うますぎる」などという批判が、甚だ無意味であることは言うまでもないが。
けれども彼の演奏が、かつて確かにテクニックの披瀝のようにしか感じられなかったことも事実である。しかし、いよいよかかる繊細微妙な表情を、その演奏が帯びて来たことにこそ、傾注すべきではないのか。
私はノクターンを聴いてしきりとそう感じたが、ショパンの音楽では、技術の妙ばかりが先立ちすぎて、こうして表情のうつろいが、浮かび上がって来ないのである。そこに私は、ショパンの限界を指摘する。これはもとより、その音楽の優劣を言うのではなく、ポリーニへの適性を言いたいのだ。
殆ど感情的な言い方をすれば、いい加減にピアニストはショパンを弾くという図式から、もっとたくさんの聴き手は抜け出すべきだ。おそらく、このオール・ショパン決定の背景には、様々な音楽以外の事情が絡んでいるのだろうが、その中でポリーニは最大限自分の主張をしてはいる。けれども、これは、日本の聴衆が蔑まれていると言えるのではないか。名手がショパンを、完璧な技巧で弾き切れば、熱狂をもって讃えるという人たちが、あまりに多くはないだろうか?
無論、何を以ってその演奏家の魅力と為すかに決まった基準などありはしないが、少なくとも、ショパンの音楽は、技術以外の、ピアニストが、音楽を通じて自己の何を表出しようとしているのかを聴き取ろうとする時には、あまりに不十分なところが、多い。彼の音楽は、多くの人が思うよりも、形式への志向が強い。そうしてまた、歌謡性が、前進への抑え難い思いに疎外されて、そのロマンティシズムに断絶が生じている場合が少なくない。
そんな中で、ノクターンは、彼の感情が、実は割と素直に書かれていると、私は感じる。マズルカもスケルツォもバラードも、ロマンティシズムと形式へのこだわりに引き裂かれている。例えばシューマンのような、ある種の開き直りのようなものが、もっと必要だったろう。
上述した、ポリーニの演奏がもつ流れの良さと、表情の微妙な明滅とを考え合わせれば、私はやはりモーツァルトが聴いてみたい。バッハ、ブラームス、モーツァルトのプログラムなど、私はいま、ポリーニで1番聴きたい。コンチェルトなら、ラヴェルも、あの第2楽章を想像して、居ても立ってもいられなくなる。
果たして、こうした、ショパンに比べると大人しいプログラムで、人々はどれほど熱狂したろう?あるいは、無名の若手ピアニストが、全く同じ演奏をしたとして、同じ喝采を浴びたろうか?この矛盾した2つの問いに、どう答えたものだろうか。再現芸術としての音楽への接し方を、改めて考えさせられずにはいられない。
ともかく私にとっては、満足感と著しい不満とが、併存する結果となった。
初めから少数派、終わっても少数派であろうか?