アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

5/21 関西フィルハーモニー管弦楽団 第211回定期演奏会

2009-05-22 13:29:58 | 演奏会評
09.5.21(木)19:00 ザ・シンフォニーホール
関西フィルハーモニー管弦楽団 第211回定期演奏会
指揮/小松長生 ピアノ/河村尚子 曲目:貴志康一/大管弦楽のための「日本組曲」より,ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調,バルトーク/バレエ「中国の不思議な役人」組曲 op.19

新型インフルエンザ流行に伴った公演中止が、クラシックの演奏会にも広がっているこのごろ、果たして開催されるのだろうかという危惧もあったが、楽団・ホールサイド、それから勿論客席も、マスクをつけた人々で活況(?)を呈した。

今回も、先月同様に管弦楽曲を集めたプログラム。それも、規模、演奏の難度ともに容易ならざる作品が並んだ。

まず、生誕100周年を迎える貴志の作品は、殆ど聴き手が恥ずかしくなるような、日本的な旋律を生のまま用いたものだ。けれども、その書法は実に瀟洒であって、土臭さというようなものを感じさせない。それは楽天的といっても言い過ぎではないかも知れないが、寧ろ、この作曲家が持つ平衡感覚の鋭さを、私は聴きたい。「ええとこのぼん」であった彼の、良い側面ではないかと思っている。
演奏は、手堅くまとめたという印象で、もっと思いきって表情を、―特に「道頓堀」などその名に相応しいくらいの―たっぷりつけてもよかった。

次いでラヴェルは、貴志との近似性を感じさせるピアノ協奏曲。この作曲家の持ち味である、目くるめくオーケストレーションの妙。そうして、淀みのない、次から次へと紡ぎ出される旋律。「どうして、こんな美しい音楽が書けたのだろうか?」と問わずにはいられない、あの第2楽章。どれをとっても、私の大好きなラヴェルという作曲家の、特に大好きな曲だ。
私は「左手の協奏曲」は幾度か実演に接していたが、こちらは初めてで、まず独奏とオーケストラのバランスが、レコードに鳴らされた耳には、随分異なって聴こえた。私は7列目に座っていたので、ピアノにはかなり近かったが、それでもオーケストラに埋没してしまうところが、少なくなかった。

それは、独奏の河村さんによるところも大きい。この人は、本質的にこの作品と相性を持たないのではないか。決して圧倒的なパワーで聞かせるという人ではないのに、全体としての弾き方がかかる「剛腕」流で、表情がいかにも一本調子だ。ベタ塗りの油彩画のようで、躍動感にも乏しい。それでも中間楽章は、思わず息を呑んで聴く、強い緊張感を維持していたが、弱音の繊細微妙な味わいは無く、どこか勘所を全て外してしまったような印象しか残らなかった。
オーケストラも、アッチェレランドすれば危うく崩壊寸前というところが少なくなく、冷やりとさせられた。

後半は、まず、バルトーク。前半とは打って変わり、相当の練習量が窺われる熱演であった。私はこの曲を、本当によく知っているとは言えないのだけれど、大きな破綻も無く、かといって事務的な仕事に終始したという訳でもない演奏で、指揮者の手腕の確かさを感じた。とにかく止め処のない凶暴な音楽の波が押し寄せてきて、聴き手はかなりの体力を消耗したろう。私はまだコンサートが続くということに、終了後、驚きさえ覚えたことであった。

コダーイは、まず選曲のセンスを評価するべきだろう。こうしてバルトークと並んで聴くと、同郷の盟友であったこの2人の、その作風の相違をはっきりと知ることが出来るからだ。
「ガランタ舞曲」は、まず冒頭の弦の響きから、並大抵ではない感情移入の激しさを感じる。この演奏会の中で、最も生々しい音が奏でられた瞬間であった。中間部などは、もっと軽快さを持ってもよかったように思うが、小松さんの誠実な、けれども情熱的なタクトに、オーケストラもしっかりと喰らいついたという気がする。東欧の音楽の持つ、どこか哀切な響き―それは、私たち日本人に特別そう聴こえるのかもしれないが―と、燃えたぎる情熱の音楽が、巧く描き分けられていて、素晴らしい出来を示していた。

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