アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

3/27 第209 回関西フィル定期

2009-03-28 02:29:14 | 演奏会評
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死
楽劇「ワルキューレ」より第一幕(演奏会形式)

ジークリンデ:畑田弘美
ジークムント:竹田昌弘
フンディング:木川田澄

関西フィルハーモニー管弦楽団
指揮:飯守泰次郎
於ザ・シンフォニーホール


まず、率直に言えば、日本で、全てが日本人による上演で、これほどまでのワーグナーを聴けたことに-語弊を恐れずに言えば-、驚きに近いような感動を覚えた。朝比奈隆による「ニーベルングの指環」全曲上演から、遂に本邦のワーグナー演奏も、このレベルに達したのである。

飯守さんのワーグナーは、何しろバイロイトで20年以上もキャリアを積んだ人であるから、今までから、指揮する度に話題になっていた。手兵の関西フィルとも、ヴァイクルとの共演に続いて、昨年200回の定期演奏会の記念に、万を持してリング抜粋を取り上げて、喝采を浴びていたものである。

私はいずれも会場で聴いたけれども、実のところ、甚だ散漫な印象しか持てずにいる。オーケストラも歌い手も、飯守さんとある種の齟齬を抱いたままであるように、思った。響きも、私は周囲の評価以上に、軽いものだと感じたことであった。

その意味に於いて、今回の演奏会は、今まで飯守さんとはいつでもある距離感を保ち続けていたオーケストラが、完全に彼の意図を再現し、一体となって燃え上がったと、私は感じている。


まず、冒頭のトリスタンとイゾルデが、およそこれだけで聴き手は満腹感を催さずにはいられないような演奏である。
前奏曲・愛の死合わせて20分に至った演奏は、官能のかぎりを尽くし、濃厚な描写に余念がない。前奏曲は、時に長い、長いパウゼを効果的に挟んで、悠然と物語を紡いでゆく。初めこそセロの音程に危うさを感じたけれども、次第に全オーケストラが、むせ返るようなエロティシズムの渦に、飲み込まれてゆく。かくも陶酔的な演奏は、古今東西の名演奏のうちにも、容易に類例を見出だし得ないものだ。
けれども、飯守さんは我々が感じた以上に醒めたものではなかったろうかという、気がしている。単にずるずるべったりに各パートが混然となっているのではなく、もっと制御された、不思議な見通しの良さをも持っていたように思う。

この前プロが終わったところでもう、私はワーグナーの音楽の持つ、麻薬にも似た作用にすっかり冒されてしまい、軽い眩暈さえ覚えたほどであった。

後半のワルキューレは、65分ほどであったから、テンポとしては標準的であったが、緩急のコントラストが巧みで、全体としてはアグレッシヴなアプローチながら、この作品の持つ抒情性をも描出し得ていた。
終幕に向かっての、長いジークムントとジークリンデの二重唱。ワルキューレ第一幕のサワリであるこの部分の、何という壮麗さ。しかも、音楽はいつも、自然に膨らんでゆく。そうしてそのあとのオーケストラによる後奏は、肌に粟粒を生じさせずにはおかないような、異様な緊迫感と烈しさを持っていた。

無論、歌手もとてもよかった。細かいところに注文を付け出せばキリの無いことだし、そんなことに執心していては、演奏会などとても楽しめたものではない。
私が一番感心したのは、ジークリンデを歌った畑田女史である。ジークムント共々、素朴な瑞々しさが、圧倒的な力感の前に消されていない点を高く評価したい。ブリュンヒルデとジークリンデの性格の区別が、ここにはっきりと打ち出されていた。
ジークムントの竹田氏も、時折低音に不安定なところはあったが、真っ直ぐに声が伸びていて、これもワルキューレ第一幕の特異性、即ちジークフリートもブリュンヒルデもヴォータンも出て来ないという、全編から見た時のこの幕の特異性が、これを聴いてはっきりする。怪物的と言いたいような力強い絶唱よりも、寧ろ伸びやかでリリックな表現が、相応しいように思われる。新しいヘルデン・テノールの可能性を示したと言っては、言い過ぎだと謗られようか。
フンディングの木川田氏は、貫禄の名唱。朗々と、しかし憎々しい響きが広がる。やや生硬な印象を受けはしたが、こういうフンディングの性格描写は、有り得て然るべきと言えるであろう。あまり器用な悪役というのも、柄が小さくなってしまうだろうから。

前プロから引き続いて、オーケストラも端々まで鳴り切った演奏。今日の関西フィル在るは、飯守さんの功績によるところ、並大抵ではないが、漸くオーケストラがそれに応えて来た。弦楽器の厚い響きなど、往時の大フィルにも匹敵する。加えて、管楽器の充実ぶりも、このところ関西楽壇全体に見られるが、顕著である。唯一フルートにいまひとつのしなやかさを望みたいが、個人攻撃は私の意図せざるところであるから、詳述は避けよう。


会場には、若い指揮者の姿も見受けられた。大いに触発されて欲しいと、思う。


ホールを出ると、火照った顔に、花冷えの夜風が心地よかった。

さくらのこと、はなのこと・あれこれ

2009-03-25 21:53:56 | 随想
京都にも、もう桜が咲いた。花冷え、とはこういうことなのかと思う、寒い日がまた戻ってきたというのに。

私は、毎日二条城の前を往復して駅へ向かうのだけれど、夜間ライトアップが始まっていて、今日の帰路は、たくさんの人で賑わっていた。確かに、夜の闇のなかに照らし出された桜の花が、一種独特の妖艶さを持っていることは、いまさら私が言うまでも無く、広く知られたことだ。

国語学の大家、山田孝雄博士の「櫻史」という名著がある。昭和16年刊行であるから、とても古い本だけれども、国語学の門外漢である私にも親しめる、浩瀚博識の書である。「櫻史まさに公にせられむとす。時正に櫻花爛漫たり。」という書き出しで始まるこの論文は、桜の花同様の、実に美しい文体を持っている。ここで博士は、古今の膨大な例を引きながら、日本人と桜の密接な関わり合いを説く。

そういう言わば「桜党」とでも言うべき氏の名著を引きながら、私自身は桜の花にかかる愛着を持たないことを、告白しなければならない。何も、あの美しさに感動しないような荒んだ心を持っているのではないけれど、散ったあと、いかにも惨めに路傍に吹き曝されている様が、何とも心苦しいのである。
「桜の木の下には死体が埋まっている!」と書いたのは梶井基次郎であったが、寧ろその感覚に、私は与し得る気が、している。

そう、散るといえば、私は椿が好きではなかった。あの「ぼとっ」と地面に落ちるのが、私はあまり好きではない。到底、潔いなどとは、言えはしない。

私は、いろ・かたち・におい、今も昔も変わらず、梅の花が好きだ。殊に、蝋梅が。

けれどもこのところ、茶の道に入るに及んで、茶花に些かの関心を持つようになって、次第に印象が改まった。晩秋以降、冬の訪れを感じると共に、茶会の折にも椿が生けられることが多くなる。私は元来甚だ不精な人間で、およそ植物も動物も、ひとりで世話をしきった記憶が無く、よって乏しい知識しか持ち合わせていない。私が今まで脳裡に描いてきた「椿」が、一体何という名を持つものかさえ分かりはしないが、初釜の折に知った、「西王母」という故事に由来した名を持つ、つつましやかな桃色の花に、すっかり心惹かれてしまったのであった。

爾来、いろいろと調べてみると、日本産の椿だけで2000種以上があって、いずれも実に美しい名前を持っている。

茶道では、莟の花しか用いないが、開けばまた、別の美しさを見せてくれるのだろうと、このところ思っては楽しんでいる。


閑話休題。「びいでびいで」と呼ばれる桜を、御存知であろうか。これは南国の方言で、正式な名を、ムニンデイゴ、あるいは南洋桜というそうだ。私は、「桜」というコトバを使ったけれども、どうやらこれは桜ではないらしい。桜が自生しない小笠原では、春の訪れを告げる花として、よく似たこのムニンデイゴを桜と擬えているとの由。花は真紅ということだが、私はまだ、見たことが無い。

関西楽壇の重鎮であった平井康三郎氏に、「びいでびいで」という歌曲がある。歌曲集「日本の笛」の一篇。詩は、北原白秋。

びいでびいでの
今 花盛り
紅いかんざし
暁(あけ)の霧

びいでびいでの
あの花かげで
何とお仰(しゃ)った
末(すえ)かけた

南国の暖かい春、島の娘の屈託のない笑顔が浮かんでくるよう―と言うとあまりに陳腐であろうが、そういう表現をつい口にしたくなるような、明るい、弾んだ佳曲。

「平城山」「スキー」など、誰もが馴染んだ童謡の作者である平井氏であるが、この曲を私は、つい最近まで不覚にして知らずにいた。北新地に、同名のクラブがあって、そこで初めて知り、また聴いたのである。

いつのまにか、随分と色々なことに詳しくなったものだ。

ところで、あすこのマダムは、南国出身なのだろうか。次に行く折の楽しみが、できた。



3/14 びわ湖ホール プロデュースオペラ「トゥーランドット」

2009-03-15 22:59:50 | 演奏会評
2/14 びわ湖ホール プロデュースオペラ「トゥーランドット」
トゥーランドット姫  並河寿美
アルトゥム皇帝  田口興輔
ティムール  佐藤泰弘
カラフ  福井敬
リュー  高橋薫子
ピン  迎肇聡
パン  清水哲太郎
ポン  二塚直紀
役人  西田昭広
指揮/沼尻竜典 演出/粟国 淳 合唱/びわ湖ホール声楽アンサンブル,二期会合唱団 児童合唱/大津児童合唱団 管弦楽/京都市交響楽団


「レコード芸術」は、時として我々を不幸にする。かつての歴史的名演に日常的ふれられることによって、しばしばそれに、殆ど呪縛的と言いたいような、強烈な印象を与えられる。そうしてそれは、我々がその音楽を聴く時の、ひとつの指標として、強い力を持ち始める。

「巨匠不在」が叫ばれて久しい昨今の楽壇に於いて、敢えてその傾向の強い分野を求めるとすれば、それは声楽、殊にオペラに顕著であろうと、私は思う。

私が聴いてきた、「トゥーランドット」を例に採れば、かつてニルソンがトゥーランドットを歌い、コレッリがカラフを歌った。リューにテバルディを配した、贅を尽した演奏もあった。殆ど「怪物的」とさえ言いたいまでの、圧倒的な彼らの名唱に馴染んだ(!)私たちはおよそ、現役の歌手たちに、どこか不満を覚えずにはいられない。

これは、実に身勝手な弁だと、自覚するのだけれども。

とは言うものの、私が聴いたトゥーランドット、歌手個々人のレベルは極めて高かった。トゥーランドット役の並河女史は、ニルソンのような圧倒的なパワーで押すということではなく、もっとしなやかである。エレーデの指揮で歌ったインゲ・ボルクにやや近い。初めは危ういところも散見されたが、次第に調子を上げたようだった。
福井氏のカラフは、多くのファンにとって、本公演最大の期待であったろうが、それに反しない好演を見せてくれた。実にこの人は、無理をしない。ドミンゴに近いような、制御された、理知的な歌い手である。
私はまた、リューを歌った高橋女史に大いに感心したことであった。純情可憐で、けれども決して弱弱しくはならない強さを持っている。リューが平凡では、このドラマは随分と平板なものになってしまうし、重要な役どころであるが、素晴らしい出来栄えを示していた。
ピン・ポン・パンは、コンメディア・デッラルテの伝統に則った、形式的な役どころには違いなかろうが、プッチーニは彼らのために、実に魅力的な音楽を、書いた。第2幕前半などは、彼らの独壇場である。今回、私が聴いた初日は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの若い人たちが歌ったが、些か生硬に過ぎ、客席にまでその緊張が伝わるようだった。

オール日本人キャストによる「トゥーランドット」上演は、決して容易ならざるものと思われるが、私の心配は殆ど払拭されたと言ってよい。

指揮の沼尻氏は、昨年のシュトラウス(バラの騎士、サロメ)では、艶麗で官能的な響きを引き出し、私はそれまでの印象を大いに改めねばならなかった。今回も、弦の響きを中心に、とても流麗な音楽を奏でる。けれども、あの大きなモーションに反して、出てくる音楽は広がりを持たず、オーヴァーと言っても過言でないプッチーニの起伏に富んだ音楽は、すっかり矮小化されてしまったように思う。肝心の盛り上げるべきところで、どこかいつも中途半端に終わってしまう。こういうイタリアオペラは、見得の下手な歌舞伎を見せられたようで、心地が悪い。
この指揮者が、未だ十分なオペラ経験を欠いていることを如実に見せ付けられる結果となった。

けれども、最も罪深いのは演出の栗国氏であろう。近未来の機械文明の世界に舞台を設定したということで、常に舞台には-ちょうどチャップリンの「モダン・タイムス」のような-歯車や蒸気機関といった機械仕掛けが配置される。「北京の民」は、管理された労働者を演ずる。
特定の時間・場所を意識させない目的があったようだが、主要登場人物は皆中国王朝風の衣装で統一されており、理解し難い矛盾を示している。
かかる不可解な設定は、各所に見られたが、私が最も腹立たしいのは、リューを他殺に処したことであろう。これは作曲者が考えたろう東洋的趣味に照応してみても、自刃することがドラマの進行上必須であろうと思う。音楽とテクストを隷属させるような傲慢な演出は、いい加減にしてもらいたいものだ。
加えて氏は、昨年のホモキやグルーヴァーのような徹底振りにも乏しく、幼稚と言っていいような散漫な舞台を露呈した。舞台は全体に暗く、プッチーニ畢生の、絢爛たる音楽絵巻が、甚だ陰気な視覚効果によって阻害されるところとなった。

小林秀雄の「目をつぶってオペラを見てやる」というコトバに、首肯したくなる演出である。私はブーイングを飛ばさずにはいられなかったが、日本人もハッキリとした意思表示を打ち出して然るべきであろう。

若杉弘氏のヴェルディ・シリーズを引き継いでの、沼尻氏によるホール・プロデュースオペラである。監督の果敢な試みは感じながらも、私は前途に暗雲を感じずにいられない。