アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

クリスマスに聴くレコードNr.1

2009-12-24 00:34:37 | CD評
私はせいぜい月数回教会に通う程度だし、未だ洗礼を受けた訳でもないような人間で、些か気の引ける表題を附してしまった思いである。とはいえ、この時期になると、どうしても聴きたいレコードが出てくる。それを、今日はご紹介したい。

日付が変わって、もうイヴということになったが、23日などに聴きたくなるのが「ヘンゼルとグレーテル」である。私には残念ながら実感の伴わないことであるが、クリスマスが近づいてくるにつれての、ヨーロッパの人たちの胸の高鳴りを感じさせられるような、楽しい音楽。それでいて、同時にこの美しい音楽は、この一年己を省みたいような気分に、私をさせる。前奏曲冒頭の、ホルンの名旋律。甘美と厳粛が、少しも矛盾しないものであることを、教えてくれる。

1番よく聴くのは、カラヤンがフィルハーモニア管弦楽団を指揮した、53年のEMI録音。若々しいカラヤンが指揮した音楽は、流麗でいながら、逞しいが、どこか純朴な雰囲気にも欠けていない。何と言っても私にはシュヴァルツコップが魅力的である。無論、グリュンマーもいいし、メッテルニヒなど脇も充実している。

あと、プリッチャードとアイヒホルンの演奏も、忘れ難いものだ。前者は、コトルバス、フォン・シュターデ、テ・カナワと歌い手も豪華で、プリッチャードの指揮も例によって堅実である。
アイヒホルン盤は、モッフォ・ドナートのタイトル・ロールはもちろん、父親のディースカウ、魔女はルートヴィヒ、暁の精はルチア・ポップと、キャスティングの豪華さでは、1番の録音であろう。アイヒホルンもよく練れた指揮ぶりである。もし私がシュヴァルツコップの熱烈なファンでなかったら、こちらを1番に推したかもしれない。


ちょうど、ドナートとアイヒホルンの名が挙がったが、彼らが共演したorfeoのライヴ盤が素晴らしい。1988年、ミュンヒェンのクリスマス・ライヴの模様(といっても11日だけれども)を収録してある。オーケストラはミュンヒェン放送管。
プログラムは、メサイアの抜粋ではじまる。ドイツ語歌唱ではあるが、違和感は少なく、何より華美ではないが確かな力感を持った合唱・管弦楽が良い。ピリオド・アプローチ台頭の今にあっては、あまり聴かれなくなったコレッリのコンチェルト・グロッソのロマンティックな演奏を経て、モーツァルトのアヴェ・ウェルム・コルプス、ラウダーテ・ドミヌムに至って前半のクライマックスとなる。本当に美しい曲の、美しい演奏で、私は両曲の録音のうちでは1番好きである。後半はまずアカペラ作品が6曲。ここでも少年合唱を中心としたコーラスは、非常に質の高い歌唱を聴かせる。最後はエクスルターテ・ユビラーテで、ドナートが潤いのある柔らかな歌を聴かせてくれる。
そうしてまた、アイヒホルンの指揮が実に心得ていて、単なる日常の演奏会に終わらせない仕上がりとなった。
あまり話題になっていないようだが、心がとても暖かくなる名演奏で、私は今頃どうしても聴きたくなる。

「逢びき」の音楽 アイリーン・ジョイスのラフマニノフ

2009-02-19 01:53:05 | CD評
映画のオールド・ファンにとっては必ず、ラフマニノフはあるイギリス映画と結び付けて思い出されるだろう-デヴィット・リーンの「逢びき」である。シリア・ジョンスンとトレヴァー・ハワード、戦後イギリス映画の隆盛を先駆けた名画。
ストーリーは、貞淑な人妻のひと時のメロドラマ、というありふれたものだ。けれども、彼女の回想、自身の語りを通じて展開されるこの映画は、私に映画がどれほど小説的な芸術であるかを、はっきりと分からせてくれた。

けれども、今はこれ以上、映画の話はしない。

この映画全編に亘って-ちょうどヴィスコンティの「ヴェニスに死す」のように-ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れる。そうして、両者は共に、名高いものとなった。

今で言うサントラということになろうが、劇中に流された演奏は、アイリーン・ジョイス女史によるもの。映画のあと、エーリヒ・ラインスドルフ指揮のロンドンpoと録音したレコードの復刻CDが、かつて発売されていた。

私はこれを漸く入手し、聴いた。

はじめに、アイリーン・ジョイスという女流は、オーストラリアはタスマニアの生まれで、女優からピアニストに転向したのだったか、とにかく容貌に相応の、経歴の持ち主である。

だから、華々しい技巧を発揮するヴィルトゥオーゾだとか、鍵盤が割れんばかりに豪壮な、ロシア系ピアニストの弾くラフマニノフとは、しぜんに趣を異にする。
決して腕が立つというのではないけれど、全体に実に丁寧に弾いているという印象が、ある。本邦のある女流ピアニストのように、無理をして強奏するような不自然さは少しもなくて、寧ろ終始中弱音くらいで弾くような、しっとりとした味わいを生み出し得た。

この曲の理想的な名演というのは、少ない。最近私はアール・ワイルドとヤッシャ・ホーレンシュタインが組んだ全集(CHANDOS)を聴いて、凄まじい勢いで弾きまくるピアニストと、濃厚の限りを尽くそうとする指揮者との、極めてスリリングな竸奏に惹かれた。
あるいはまた、モイセイヴィチ/サージェントのライヴ録音(BBC)も、テンポは流れるように速いが弱音を効果的に活かした演奏である。

むろん、アイリーン・ジョイスの演奏はそういうのとも違って、まるで掌中の珠を転がすような、曲に対する愛情を明確に感じさせる。けれどもそれは、決して赤裸々な、聴き手が恥ずかしくなるようなオーヴァーなものではなくて、ある慎みの深さを感じさせるところに、私はこの演奏の不思議な魅力を覚える。

これにはラインスドルフの伴奏もサポート著しく、いかにもザッハリッヒで職人仕事に終始しがちな彼にあっては珍しく、抒情的なしなやかさを生み出している。木管楽器の扱いも巧みで、私が聴いた中では、彼の一番美しい仕事のひとつに、これを数えたい。
伴奏が大言壮語しては、ジョイスの魅力は引き立たなかったろう。「協奏」の魅力ここにあり。

1946年の録音だけれど、DUTTONのマスタリングはいつもながらに聴きやすい。カップリングでは、プレヴィターリ指揮のメンデルスゾーンの1番コンチェルトを面白く聴いた。てらいの無い、率直な快演である。


なるほど、あの映画にはこの演奏が良かったろうと、改めて感心する。「忘れじの女流ピアニストたち」などという企画CDが、以前山野楽器から出ていたが、随分忘れるべからざる名女流が多いようだ。

グールドのベートーヴェン

2009-02-16 02:23:16 | CD評
先日、久しくお付き合い願っている在京の年上の畏友から、親切にも幾枚かのCDを頂戴した。

さすがに私の趣味をよくご存知で、自分ではつい購入を逡巡してしまいがちなレコードを送って下さる。

今回は、アントニーニ/バーゼル室内管のベートーヴェンがメインであったけれども(これも、また取り上げることがあるだろう)、グレン・グールドが若き日に残した、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(SONY)が含まれていた。

私はグールドという人の才覚を認めるに吝かでないが、いつもある偏見から離れて聴くことが、出来ずにいた。
つい先日もあの全く個性的なモーツァルトを、酷評したばかりである。彼の主要な演奏であるバッハ-バッハの鍵盤作品を、些かの退屈も無しに聴き通すことは、そもそも私にとって容易ならざる行為である。第一、私はピアノ独奏というものを聴くのが、甚だ苦手であるという告白をしておかねばならない。

グールドの録音で私が随分感心したのは、最後の録音となったリヒャルト・シュトラウスのソナタ、またシュヴァルツコップにつけた歌曲の伴奏。そうして-これも最晩年の遺産だけれども-、ワーグナーのジークフリート牧歌を彼が指揮した、ワーグナー・アルバムである。
これらは本当に美しい音楽の、美しい演奏で、グールドというピアニストの、多分にロマンティックな性格が、存分に発揮された名演であり、もっと聴かれてよいように思う。

ところでこれは、ベートーヴェンの話。

私はベートーヴェンのピアノ協奏曲では、3番を殆ど偏愛している。1・2番は寧ろハイドン的な手法の延長に立って、ベートーヴェンは彼自身のスタイルを確立しつつある。4番は実に不思議な音楽で、第2楽章などは無調の世界をふと感じさせるようだ。5番は、第2楽章の静謐さに惹かれつつも、あの構えたようなモノモノシサは、聴いていて疲れを催さずにはいられない。

3番は、開始こそブラームスのような重々しさを漂わせるが、一番モーツァルト的な優美さを感じさせ、コケティッシュと言いたいような旋律美に溢れている。

では、グールドはこの曲をどう弾いたか?伴奏は、これもまだ溌剌としていた、バーンスタイン指揮のコロンビア交響楽団である。

結論を急げば-また、この演奏はそうせずにはおかない-、かつて聴いたあらゆる名演奏も霞む出来栄えを、グールドは示してくれた。私はいっぺんにこの天才に惹かれ、まずこの感動を記したいがためにブログ立ち上げを決意したのである。

まず、テンポ設定に些かの無理も無く、全体の統一を図れている。これは後年のグールドには求め難いものであろう。バーンスタインも、瑞々しい伴奏をつけている。第1楽章は、第2主題の品の良さ-この上品さは、全集すべてに共通する-、そうして何より、カデンツァの素晴らしさを特筆すべきである。テーマの回想が、何と慈しみ深くなされていることか!聴き手の感傷を、誘わずにはおかない。
第2楽章も同様の、実に孤独なモノローグであるけれども、それがモーツァルトのソナタで感じさせられたような我が儘ではない。少しの恣意性も無い。ため息をついて、私たちはこの美しい歌に耳を傾けるより他無い。
終楽章は、例えばリリー・クラウスが示した、啖呵をきってゆくような、闊達自在な展開を私は好む。そこへゆくと、グールドはここでもとてもしなやかに、ベートーヴェンが書いた目眩く曲想の変化を紡いでゆく。これにはバーンスタインも実に巧みに付けていて、浮かび上がったクラリネットが美しい。

今まで、自明のことのようでいて、少しも分かっていやしなかったグールドというピアニストの性格が、私には突然理解出来たような気がした。彼はエキセントリックな演奏を旨とするよりは、もっとナイーブで内省的な音楽をする人であったのだ。
こんなこと、彼の性癖からしても、誰にも分かりきったことなのかも知れないけれど、少なくとも私には、漸く演奏からはっきりと感じられたのであった。

こうなると、集中的にグールドを聴きたくなるのが私の悪癖である。カラヤンが伴奏したものとの聴き比べも、一興であろう。あるいはこの分だと、ブラームスの独奏曲も期待出来そうだ-と、調子づく。

即ち凡百の評論も、それはしばしば偏見の温床になりがちである。だから、これから私があれこれとひとりごちて認めてゆくくさぐさも、所詮はある一人の人間の偏見に満ちた評価に過ぎない。問題は、それを基にあるレコードを知り、自身で聴いて何を感ずるかであって、そうして初めて主体的な音楽聴取も成立し得るのであろう。
今日は、グールドのベートーヴェンを、読者諸兄の御参考に供します。