アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

音楽批評について

2009-06-03 01:56:47 | Weblog
昨日、京大人文研にて「岡田暁生×片山杜秀 21世紀の音楽批評を考える」という、この斯界の寵児ともいうべき人気の-けれども私にとってはとても遠いところにいる-両氏の対談を聞いた。その批判的受容の一端として、今一度自身の批判に対する姿勢について考えておこうと思う。


批評というものは、音楽に限らず、究極的には個人の好みに還元されざるを得ないというのが、私の長い間の考えである。たとえ、10億人がモーツァルトを賞賛しようとも、私に少しも良さが感じられなければ、私にとってはモーツァルトは名曲ではない。
これは些か極端な例にしても、批判することさえ憚られるような名盤-カザルスのバッハだとか、フルトヴェングラーの第九だとか-を、どれだけ権威ある評論家が絶賛しても、どうしても良さは分からないと主張する人があるだろう。
それを説得して首を立てに振らせようとするのは容易ではないし、そもそも必要のないことだ。

評論家、批評家の仕事は、読者を己の感性の前にひざまずかせることではない。単に一人の人間の意見・感想の類を披瀝しているに過ぎない。突き詰めれば、それ以上でもそれ以下でもないことだ。
けれども、語弊を恐れずに言うなら、それがいつでも「感性の押し売り」とでも言うべき側面を胚胎していることは、看過してはなるまい。

そういう意識を持ちながら、如何に客観的に対象に迫り、そこに生まれた主観を言語化するかという矛盾に、私はいつでも苛まれる。ただやはり、私にとっての好悪は避け難く生じてくるのであって、それを偽らず記述するのが、実は対象に対しての客観的で真摯な姿勢につながると思っている。

その結果、読者が自身の意と反したとして不快になろうとも、それは批評家の責任とすべきでないだろう。(もちろん、これは表現に左右されうる問題だけれども)なぜなら、その読者個人の感性同様、批評家にも一個の感性があるのだから。それを滅し去る必要はないし、出来もしないことだ。この相違を受け入れられない人は、批評など読まないほうがいい。
私は自分の批評を客観的たらしめようとすることはないし、ましてや普遍性を持たせようなどとは思わない。客観的な事実に因りながら、生じた主観的な私の内的真実を述べるまでである。


すると、批評・評論の価値は、個人の感性の披瀝が、読者にとって何らかの発見、他者との相違を認めた時に生まれるある種の感動、につながることではないかと、私は思っている。

いつでも批評とは私的なものでしか有り得ないというのが、以上から推察頂けるだろう、私の認識の根本である。岡田・片山両氏は、その私的なるものを何とか表出させまいとするスタンスのようだが、繰り返しになるけれども、不可能なことだろうと思う。


その意味で、私にとってお手本は、やはり吉田秀和さんである。氏の批評は、かなり思い切ったことを書いているのに、不思議に極端な印象を受けない。それは、吉田さんの、例えば歴史意識など、対象の彼方をも見抜く鋭い眼差しが働いているからだろう。こうして批評は、独りよがりの呟きとはならない。
批評が私的なものの披瀝であることを、少しも隠そうとしないのは宇野功芳氏だが、宇野さんは思い余ってというべきか、しばしば読み手の領域を侵しかねない表現があって、私は疑問を感じることがある。


以上、ごく端的にのみ述べたが、これが私の根本にある、批評姿勢である。

過去の執筆原稿から② 「型の芸術」としての能 ~歌舞伎との比較を通じての小文~

2009-06-02 22:32:43 | 古典芸能
これも1回生のレポートとして提出したものである。当時筆者は歌舞伎>能の歌舞伎贔屓であって、能の専門家である教授があまりに歌舞伎をくさすので、やや反発的に認めたものである。教授は寛大にも「優」を下さったけれども。

その後、観世流の謡を実際習うようになって、ヨリ能に親しむところとなり、考えに少なからぬ変化は来たしているが、ここで呈したいくつかの視座は、今日でも尚、一層の考察の余地を残すものと思っている。
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能は、海外でも非常に評価が高いという。私は、この点に、一寸疑問を感じずにはおれなかった。能の文句は、所謂「古文」そのものだし、しかも独特の調子で謡われるせいで、日本人である私たちにさえ、刹那に理解することは容易と言えない。ましてや、それが海外の人々に理解されようはずも無いではないか。それが、私の積年の疑問であった。

けれども、稀代の名手に於いてさえ、その内容の委細を知らずに舞っていたという現実。それが意味するところは何であるか。即ち、能を鑑賞する人の多くは、そこに「様式美」を追求しているということではないか。「型」が、そこに於いては支配的なのではないか。そう考えると、上述の疑問にも合点がいく。「型」の魅力は、観る者を選ばぬであろう。
これは愚説に過ぎないが、「型」がその芸術性の源泉だとするならば、本質的な部分に於いて、能は「保守的」な芸術ではないだろうか。勿論、上演のスタイルに歴史的な変遷を経てきたとは言え、本質的な部分では世阿弥の時代から大きな変化を持っていないという気がするのである。
ヨリ具体的に言うならば、「隅田川」なり「道成寺」なり、歌舞伎と能を比べてみると分かり良い。私のつたない鑑賞によるものではあるが、能のこれらの演目は、無論各流派によっての差異は生じるとはいえ、どこか常にひとつの完成されたスタイルの上に成り立っているという気がする。それが結局、長い歴史の中で育まれてきた「型」とでも言うべきものであり、非常に高度に抽象化された芸の世界を形成する要因なのかも知れぬ。
歌舞伎はそうではない。性根やニンの捉え方は役者によって大きく変わるし、逆にそれが歌舞伎の魅力である。演出も、大きく変わる。歌舞伎に型が無いと言うのではないが、まさに「型破り」であったことから歌舞伎が発生しているという事実は、看過され得ぬものであろう。
歌右衛門の狂女は、息子を喪った女の哀しみを、切なく、また恐ろしく演じていた。しかし、能の「隅田川」に、そういった人間的な感情の発露が、どれほどにあるのか。無論、これは優劣の問題ではない。性質の相違を述べたいまでである。「面」は表情を変えぬのである。それは常に同様の「型」なのではあるまいか。
この歌舞伎と能という、日本の二大古典芸能の差は、一体どこから生まれたのであろうか。私は、やはり歌舞伎は本質に於いて世俗的なものであると思う。即ち、それは日々移ろいゆく「浮世」に立脚しているのであって、自ずとそこに流動的な要素を内在しているのではあるまいか。
能は寧ろ逆で、「夢幻能」が「現在能」以上に演目の主流であることにも証左されるように、そもそも現実的な社会から遊離したところで存在する芸術と言えると思う。
もはや紙面が少なくなってきたが、能が何と言っても、やはり支配層に愛好されてきた現実には、こうした根本的な部分の相違が、横たわっているのではないか。私は、この世俗を離れて「型」を求めることこそ能の在り方だと思うし、今後ファンが激増することは無いかもしれないが、滅びることも無いのが能だと思う。確固たる型を持つがゆえに、普遍的足り得るのである。