アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

ラドゥ・ルプー雑感

2010-10-17 01:20:18 | 演奏会評
9年ぶりに来日したルプーを聴いた。昨今では「ピアノ界のクライバー」などと呼ばれ、いよいよ希少価値を高めているらしい。それで、私も久しぶりに拙筆をふるうことにした。

プログラムは、
ヤナーチェク:霧の中で
ベートーヴェン:アパッショナータ
シューベルト:ソナタ第21番

演奏の印象としては、とにかく全編「霧の中」であった。というのも、最初から最後まで、殆どペダルに頼りきりで、確かに柔らかな響きを醸し出しはするのだけれども、甚だ曖昧模糊たる演奏なのである。これを美音と言っては、あまりにまやかしめいてはいないだろうか。
それに、多用されるルバートもいかにも気ままであり、ある種独特のモノモノしい雰囲気めいたものは漂うが、おしまいまで、どうにも浅薄な印象を払拭し得なかった。決して凡百の演奏と同列に語るべきものではないが、大家の名演とはまるで言えはしないのである。

ごく瞬間的な名技として、スケールが敢然と下降する際に、ふわりと力が抜けるのである。これはいかにも情熱的に叩いていますという風の、本邦のピアニストたちには聴かれない呼吸の良さだろう。アンコールが、シューベルトの13番第2楽章で、この佳曲については、とてもよかった。何かモノローグを聴くような訥々とした味わいがあり、また素直に「美しい」と思わせられもした。同時に、この人は小品に向くのかしらとも。


ところで、私は背もたれのあるイスを使うピアニストを初めて見た。それにあんなに無表情な人も。私たちはまるで知らされていなかったが、当夜彼は既に著しい体調不良の下に在って、来日ツアー初日となった京都公演ののちは、全てキャンセルして帰国を余儀なくされたとの報である。

そうした事情と、演奏の出来は繋がっているのだろうか。そうだとすれば、彼はステージに上がるべきではなかったのだ。私たちのためにも、何より彼のためにも。世界屈指とされるピアニストを指して、体調不良だったのだから仕方ない、などといったコンクール、いやアマチュアのピアノ発表会めいた陳腐な同情など寄せたくない。それは彼とて同じであろう。これは、常に瞬間の創造に生きる音楽家にあって、本質に関わる問題である。プロとは、常に結果で判断されるべきもの、とも言い得るかも知れない。
ともかく緊急帰国とは穏やかでなく、ひたすら回復を祈るものではあるが、私には大いに疑問の残る演奏会となった。

11/14 京都市交響楽団モーツァルト・ツィクルスNr.21

2009-11-14 23:48:46 | 演奏会評
指揮/鈴木雅明 sp/松井亜季 管弦楽/京都市交響楽団
歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲K.527
交響曲第20番ニ長調K.133
モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」k.165(158a)
交響曲第34番ハ長調K.338

アンコール:アリア<私の感謝をお受け下さい、慈悲の人よ>K.383


古楽器団体を率いてのバッハ演奏で名高い、鈴木雅明さんが、初めて京響に客演することになった。一連の、小ホールでのモーツァルト・ツィクルスである。

鈴木さんは、名前はよく聞きながらも、実は一度もその演奏にーレコード、実演ともにー接したことはなかった。その初めてが、今日のモーツァルト。

鈴木さんの指揮は、実にエネルギッシュなものであった。どちらかと言えば器用なタクトではないけれども、直截である。金管・ティンパニが強調され、弦楽器は基本的にノン・ヴィブラートで、いよいよ響きは先鋭的で、ストイックなものとなる。もちろん、6ー6-4-3-2の小編成である。

そういうスタイルが、特に前半では些か生硬に過ぎる表情に留まっていた。指揮者、オーケストラが、双方探り合いという趣で、アインザッツなどの不揃いも聴かれた。

後半のエクスルターテ・ユビラーデ、これは私が中学生の時、例の「オーケストラの少女」で、ディアナ・ダービンの歌う「アレルヤ」に惹かれて以来、モーツァルトの作品中でも愛惜おく能わざるものである。今日も、昨今ではなかなかコンサートで聴かれないこの曲を目当てに出かけたのである。
ソプラノの松井さんは、豊かな声量で高音の響きも申し分ない。ただ、些かオペラ的な歌唱で色があり、私はもう少し素直な表現を望みたい。
このあたりからオーケストラも落ち着きを見せ、明るく、また優しく独唱を包み込む。アレルヤの、愉悦に満ちた快活なテンポも爽快である。

最後の34番は、やや鋭角的ではあるが、よくオーケストラが鳴っている。特に終楽章の執拗なタランテラ風のリズムは、指揮者共々、非常に情熱的であった。とにかく鈴木さんは、精力的な指揮をする人だという印象である。

どこからか「待ってました!」の声(会場はやや苦笑。「北座」ではないのだが)がかかったアンコールが、また、とてもよかった。ここでは松井さんの豊かな表情がよく活かされて、この素敵なアリアを堪能した。後半通じて素晴らしい演奏をしていたオーボエが、ここでも良いアクセントになっていた。

初めに述べたように、やや硬さが最後まで拭いきれなかったが、充実したマチネーを聴いた思いである。どこか人情味のようなものがあるようで、過度にエキセントリックでないピリオド・アプローチが、私には聴きよかった。

11/1 リッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団京都公演

2009-11-02 16:04:00 | 演奏会評
さすがに連夜の演奏会に運ぶのは穏やかなことではない。先のN響のようないい加減な演奏もあるが、聴き手の襟を正さずにはおかない熱演の前には、尚更のことである。しかしまたそれは、とても心地好い充足感でもある。今回の演奏会は、まさにそうした一夕となった。マチネーにしなかったのも、シャイーの気概を現したものであったろう。

初めに告白しておくならば、私はシャイーという指揮者を好きではなかった。コンセルトヘボウの、「あの響き」をまるで変えてしまったイタリー人の指揮者-そうしてまた、微に入り細に穿ったアプローチも、私には煩わしいものであった。きっと彼はまた、ライプツィヒのこの古いオーケストラの響きも、すっかり変えてしまうのだろうと思っていたのである。

確かに彼は、またしてもオーケストラを自分好みのそれに変えてしまっていた。そのことの是非は、別に問いたいところではあるが、それが全く不満とならないほどの素晴らしい演奏会となった。

まずモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番。独奏は、アラベラ・美歩・シュタインバッハーという若い女流である。私はこの人のことを皆目知らないのだが、これからが楽しみな才能と思われた。線は太くないが、とても美しい音色、高音に至っても実にしなやかに響く。艶やかというよりは、もっと清廉な印象である。曲想にそれが、とても合っている。
シャイーの指揮は、冒頭の極端な強弱や間合いなどは些か過剰であったが、明るく爽快な響きが持ち味である。シャープでありながら、とても柔らかな風合いと言ったらいいだろうか。第2楽章が、とてもよかった。ピッツィカートひとつにも、表情がある。優しい気持ちにさせられる、そういうモーツァルト。

マーラーは、作曲者の細かい指示を更に上回る、濃厚な表情を初めからおしまいまで聴かせた。シャイーの執拗なまでの要求に、完璧に応えていくオーケストラ。この緊張感は、なかなか聴けるものではないし、かかる刺激的な関係が、名オーケストラを次々と渡り歩くシャイーの手腕であるのだろう。とにかく惰性というところが皆無の演奏であり、それでいて煩わしさを感じなかった。

冒頭の「カッコウ」の甲高い強調に始まるそれを、一々指摘するつもりは無いが、白眉は終楽章である。あの胸の詰まるような弦のメロディーから、金管の阿鼻叫喚まで、指揮者とオーケストラが一体となって描き出す。殆ど忘我の境地で、私は聴かずにはいられなかった。それでいて、シャイーはバランス感覚を少しも失わず、各パートが実に精緻に鳴り切っているのである。

夏のティルソン・トーマスとPMFに続いて、忘れ得ぬマーラー演奏を聴くことが出来た。久しぶりに、根底を揺さぶられる音楽体験であった。

10/30 第529回京都市交響楽団定期演奏会

2009-11-01 23:27:39 | 演奏会評
かつて常任指揮者であった井上道義の指揮による、リンツとブルックナーの交響曲第9番。「ミッキー」は確か7番をレコーディングしていたが、彼のブルックナーはそう頻繁に聴くことができるものでもなかろう。

リンツは、現在彼が指揮しているアンサンブル金沢に合わせたような小編成で、これを例によって彼は踊り、指揮する。非常に軽快で歯切れが良い。京響の緻密なアンサンブルも際立った。モーツァルトが書いた管楽器の魅力的な動きも、はっきり聞き取ることができる。

ブルックナーは、一転して井上も神妙な面持ちとなる。遅いテンポで、思い入れを隠さず存分に歌い上げたブルックナーである。例えば第1楽章の第2主題など、一息でさらりと歌うのもよいが、こうしたたっぷりとした、やや粘り気のある演奏も好ましい。細部に拘泥せず、全体の分厚い響きを聴かせるスタイルが、ブルックナーによく合っていた。

京響はいくらか不安定なところもあったが、最後まで全身全霊を傾けている。弦の発音など、かなり美しいところが多かった。木管もよく整っている。聴く度に充実してゆく様子が、京都市民にとってはとても嬉しい。

ルル雑感

2009-10-04 21:39:49 | 演奏会評
アルバン・ベルク:歌劇「ルル」(ツェルハ補筆・全3幕)
09.10.4 14:00~ 於びわ湖ホール

指  揮 : 沼尻竜典
演出・装置 : 佐藤 信
照  明 : 齋藤茂男
衣  裳 : 岸井克己
音  響 : 小野隆浩(財団法人びわ湖ホール) 
舞台監督 : 牧野 優(財団法人びわ湖ホール)
管弦楽 : 大阪センチュリー交響楽団

ルル/飯田みち代
ゲシュヴィッツ伯爵令嬢/小山由美
アルヴァ/高橋 淳
劇場の衣裳係・ギムナジウムの学生・ボーイ/加納悦子
医事顧問官・銀行家・教授/片桐直樹
画家・黒人/経種廉彦
シェーン博士・切り裂きジャック/高橋祐樹(黒田 博休演につきカヴァーキャストで上演)
シゴルヒ/大澤 建
猛獣使い・力業師/志村文彦
公爵・従僕/清水徹太郎
侯爵(売春斡旋業者/二塚直紀
劇場支配人/松森 治
15歳の少女/中嶋康子
少女の母 /与田朝子
女流工芸家/江藤美保
新聞記者/相沢 創
召使/安田旺司

 結論から言うならば、「沼尻竜典オペラセレクション」とされた一連のシリーズで、今回のプロダクションが最も高い完成度を示していた。歌手・管弦楽・演出それぞれが、極めて高いクオリティで融合するという、オペラ上演では決して多くない成功を収めたと言っていいだろう。
 ―具体的には、どういうことか?まず、各幕ごとに振り返ってみたい。
 第1幕。幕が上がると、舞台上には廃墟の一画としてしつらえられた、簡素な室内セットが目に入る。これは全幕通じて同様である。プログラムに掲載された「演出ノート」によれば、「廃墟のサーカス」というのが基本的なコンセプトであるらしい。これについては、私にはやや合点がいかないのだけれども、あとで詳述するように、演出は大いに満足の行くものであった。
 第1場では、ルルは白の衣装に身を包んで、いかにも爛漫な少女といった趣きで、飯田さんの舞台姿の美しさも引き立った。この人のタイトルロールは、ファム・ファタール妖婦として扱われることが殆どであるこの役を、寧ろ可憐な様子で演じてみせる。これが飯田さんの容姿や声の質に調和して、この大役を見事に歌いきった。高音、特にセリフ調の急な高音に時として苦しさを感じさせられはしたが、それも些細な瑕と思わせられるほどの、立派さ。この幕では第2・3場が白眉で、第2場での、画家を歌った経種さんの、純な情熱を感じさせる熱唱は、この役によく当てはまっていた。それから、―これは私が全幕通じて、一番衝撃を受けたところだけれども―第3場で、衝立の陰から、踊り子姿のルルが現れたときには、思わず息を呑まずにはいられなかった。上述のような、少女ルルから女ルルへの変貌。それを、ひと目で観る者に感じさせる飯田さんの姿。もちろん、衣装、照明、演出。この少女から大人の女性への変貌は、この場面が全幕中極めて重要な意味を持つことを物語る。ここに於いてルルは、それまで半ば父性愛を捨てられずにいたシェーン博士を、完全に自らの僕とし得るのである。そうしてまた、アルヴァは兄妹めいた感情の、ハッキリとした変化を感じずにはいられない…。前場でルルの処女性・少女性を描いて、ここでは妖婦への変貌を巧みに描いた演出の卓抜なる手腕に、まず私はとても感心した。妖婦ルルは、確かに一面ではあるが、あくまで全面ではないのである。
 沼尻さんの指揮は、いつもながらに艶麗の極地で、場面転換の音楽など、執拗に絡みつく愛撫の手のようであって、大変に充実した響きを引き出している。けれどもまた、前回のトゥーランドットでも感じたようにクライマックスの形成が下手で、クレッシェンドの頂点がもうひとつ決まらない。

 第2幕。第1場ではまず、1週間前にカヴァー役から昇格した高橋さんが、前幕終わり頃から調子を上げて、堂々たるシェーンを演じて見せた。それまでは、画家にも気圧される様子だったけれども。このシェーンに、甘えたり、あるいは突き放したりするルルを、やはり飯田さんは巧くやる。そうしてシェーンの殺害に及んで遂に、ルルは完全な妖婦へと変貌するのではないだろうか?彼女のそれまでの男漁は、あくまで「父なるもの」の探求であって、それはいつでもシェーンに繋がっていた。けれどもここで、ルルはその父性への憧憬を喪失する。後の凄惨な幕引きへのプレリュード前奏曲を、私はここに聴かずにはいられない。かねてよりのかかる私の解釈を、今回裏打ちしてもらったような思いがしたのである。
 第2場は、まず力業師とシゴルヒが、それぞれ力強い歌唱で、大変充実している。それから、今まで言及しなかったけれども、アルヴァがとても素晴らしい。いかにも芸術かぶれの御曹司といった様子。終幕へ向かって、真っ直ぐな情熱を高ぶらせてゆくあたりの迫力は、とても立派なものである。

 第3幕。これには先に、苦言を呈しておきたい。そもそもこの第3幕は、ベルクの没後、未亡人がシェーンベルクやクシェネクに補筆完成を依頼して断られ、その後一切のそうした活動を、固く禁じたものである。それをUniversal社が極秘裏に進め、夫人の死後一気に完成へと畳みかけたという、感心のゆかない事情が、横たわっているのである。―といったようなことは、もう周知の事実であるのに、プログラムに一言も触れられていないのはどういう訳だろう?このシリーズは、毎回多角的な視点から、論文はだしの充実した解説が並んでいるが、こういう肝心な曲目解説がなされていないのは、大いに問題がある。ともかくこういう完成の経緯もあって、私はこのツェルハの手になる3幕を、日頃聴かない。やはりこれは、前の2幕と、決定的に別の音楽なのだということを、感じずに入られないのである。
 そうしてこの幕は、内容的にも、ただ破滅に向かって陰惨な場面が繰り返され、殆どそれは目をそむけたくなるばかりである。ただキャストは、ここでも非常な緊張感を維持していて、特に最後の場面では、私は口の中がすっかり渇ききるのを感じながら、思わず息を止めんばかりに聴き入った。沼尻さんは、殊に打楽器の衝撃音を強調して、例えばルルの断末魔の叫びなど、身の毛もよだつほどの凄絶さであった。終幕後、暫く誰も拍手できずにいたのも、当然のことであったように思われる。

 ざっと各幕を概観したが、とにかく今回の名舞台は、充実したキャストと、有能な演出家を得たことによるだろう。私は日本のオペラが、ここまで高度な演劇性を有するに至ったことに、盛大な喝采を送りたい。演出の佐藤さんは、全く演劇畑の人だけれども、おそらく歌手たちに相当厳しい指導を施したのであろう。惰性というものの感じられない芝居が、確かにあった。音楽・演劇・文学が融合したオペラの、究極の形として、私は「ルル」位置づけたくなる。なにしろこの「沼尻セレクション」では、単なる思いつきのような傲慢な演出につき合わされてきたから、本当に嬉しく思っている。「廃墟のサーカス」というコンセプトは、私にはよく分からなかったが、ベルクは消え逝く19世紀へのどこかこの作品に託しているように思われる。1930年代、それはもう廃墟の中の道化でしか在り得ないものだったというのかしら?
佐藤さんの要求を見事に体現したキャストも、やはり6年前の上演を経て、更なる高次へ上ったと言えるだろう。全役ミスキャストというのが見当たらないオペラ上演も、頻繁にお目にかかりはしない。特に主要な役どころは、いずれも先述の如く大変な出来栄えである。取り分けて、ルルを演じた飯田さんの美しい舞台姿と澄んだ声は、繰り返しての賞賛に値するものである。
沼尻さんの指揮は、殆ど第1幕で述べたことがそのまま全幕に当てはまるが、こういった曲の雰囲気を醸成させては、天才的である。ただし、その音が深い意味を持たず、いつでもただ雰囲気として流れてゆくというのは、殆ど決定的な欠点であるように思われるが、事実に於いて私は、とても惹き込まれたのであって、こういう批判が正しいのか分からない。オーケストラ共々、鬼気迫る熱演を聴かせてくれて、このシリーズでは昨年の「バラの騎士」以来の出来栄えである。
ともかく、最初から最後まで恐るべき緊張感の連続であって、時間の経つのをすっかり忘れさせられたが、終わってみればまるでもう、深夜であるかのような気持ちであった。終演後のやや冷静な観衆の態度は、果たしてそういう呆然たる様から発したものであったのか…。
 余談めくが、終始舞台の後ろで、沼尻さんを移した白黒テレビが光っていた。あれは、単に歌手のためのものなのか。すると第2幕終盤で、急に画面が消えたのは、一体どういうわけなのだろう?

5/21 関西フィルハーモニー管弦楽団 第211回定期演奏会

2009-05-22 13:29:58 | 演奏会評
09.5.21(木)19:00 ザ・シンフォニーホール
関西フィルハーモニー管弦楽団 第211回定期演奏会
指揮/小松長生 ピアノ/河村尚子 曲目:貴志康一/大管弦楽のための「日本組曲」より,ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調,バルトーク/バレエ「中国の不思議な役人」組曲 op.19

新型インフルエンザ流行に伴った公演中止が、クラシックの演奏会にも広がっているこのごろ、果たして開催されるのだろうかという危惧もあったが、楽団・ホールサイド、それから勿論客席も、マスクをつけた人々で活況(?)を呈した。

今回も、先月同様に管弦楽曲を集めたプログラム。それも、規模、演奏の難度ともに容易ならざる作品が並んだ。

まず、生誕100周年を迎える貴志の作品は、殆ど聴き手が恥ずかしくなるような、日本的な旋律を生のまま用いたものだ。けれども、その書法は実に瀟洒であって、土臭さというようなものを感じさせない。それは楽天的といっても言い過ぎではないかも知れないが、寧ろ、この作曲家が持つ平衡感覚の鋭さを、私は聴きたい。「ええとこのぼん」であった彼の、良い側面ではないかと思っている。
演奏は、手堅くまとめたという印象で、もっと思いきって表情を、―特に「道頓堀」などその名に相応しいくらいの―たっぷりつけてもよかった。

次いでラヴェルは、貴志との近似性を感じさせるピアノ協奏曲。この作曲家の持ち味である、目くるめくオーケストレーションの妙。そうして、淀みのない、次から次へと紡ぎ出される旋律。「どうして、こんな美しい音楽が書けたのだろうか?」と問わずにはいられない、あの第2楽章。どれをとっても、私の大好きなラヴェルという作曲家の、特に大好きな曲だ。
私は「左手の協奏曲」は幾度か実演に接していたが、こちらは初めてで、まず独奏とオーケストラのバランスが、レコードに鳴らされた耳には、随分異なって聴こえた。私は7列目に座っていたので、ピアノにはかなり近かったが、それでもオーケストラに埋没してしまうところが、少なくなかった。

それは、独奏の河村さんによるところも大きい。この人は、本質的にこの作品と相性を持たないのではないか。決して圧倒的なパワーで聞かせるという人ではないのに、全体としての弾き方がかかる「剛腕」流で、表情がいかにも一本調子だ。ベタ塗りの油彩画のようで、躍動感にも乏しい。それでも中間楽章は、思わず息を呑んで聴く、強い緊張感を維持していたが、弱音の繊細微妙な味わいは無く、どこか勘所を全て外してしまったような印象しか残らなかった。
オーケストラも、アッチェレランドすれば危うく崩壊寸前というところが少なくなく、冷やりとさせられた。

後半は、まず、バルトーク。前半とは打って変わり、相当の練習量が窺われる熱演であった。私はこの曲を、本当によく知っているとは言えないのだけれど、大きな破綻も無く、かといって事務的な仕事に終始したという訳でもない演奏で、指揮者の手腕の確かさを感じた。とにかく止め処のない凶暴な音楽の波が押し寄せてきて、聴き手はかなりの体力を消耗したろう。私はまだコンサートが続くということに、終了後、驚きさえ覚えたことであった。

コダーイは、まず選曲のセンスを評価するべきだろう。こうしてバルトークと並んで聴くと、同郷の盟友であったこの2人の、その作風の相違をはっきりと知ることが出来るからだ。
「ガランタ舞曲」は、まず冒頭の弦の響きから、並大抵ではない感情移入の激しさを感じる。この演奏会の中で、最も生々しい音が奏でられた瞬間であった。中間部などは、もっと軽快さを持ってもよかったように思うが、小松さんの誠実な、けれども情熱的なタクトに、オーケストラもしっかりと喰らいついたという気がする。東欧の音楽の持つ、どこか哀切な響き―それは、私たち日本人に特別そう聴こえるのかもしれないが―と、燃えたぎる情熱の音楽が、巧く描き分けられていて、素晴らしい出来を示していた。

ポリーニのリサイタルをめぐって

2009-05-13 02:11:51 | 演奏会評
はじめに断っておく必要があろうかと思うが、常は、新聞批評ほどの必要性を持ってではないけれども、些かなりとも演奏会リポートめいた役割を意識して拙文を認めている。しかし、今回は、かかる意識を敢えて排して、私が感じたことを、自由に述べてみたい。それが、殆ど、自分語りを、ひとりごちるような具合になろうとも。


私は、ポリーニを、今回初めて実演で聴いた。実のところ、私は、ポリーニの良い聴き手ではない。いや、かつては、嫌いなピアニストのひとりであった。
予てから、ポリーニの完璧無比な技術はもちろん評価していたし、それがもう、否応なく突き付けられる、ペトリューシカの3楽章や、ショパンのエチュードといった録音に敬意を表してきたつもりだ。
それでも尚、ポリーニは私にとって遠いところにいるピアニストだった。ベートーヴェンは、あまりに冷血な気がしたし、同じ作曲家のコンチェルトやブラームスのそれも、伴奏共ども、筋骨隆々たる立派さが、聴いていて辛かったものである。

そんな印象が改まり始めたのが、最晩年のベームと録音した、モーツァルトのコンチェルトを、聴いてからであった。私はそれまで、彼が、こんなに優しく美しいピアノを弾く人だとは、全く思っていなかった。

それから少なからぬ注意を、ポリーニに対して払い始めたところ、いよいよこのところの彼の深化を看過することは出来ないと、今回、決して安くないチケット代を支払って、出かけたのであった。


発売時は-これは、本当に腹立たしいことなのだが-、プログラムが未定であった。後日発表されたのが、この度のオール・ショパン・プログラム。既にチケットを求めた大半の人達が、狂喜したのではないかと、思う。

けれども、私は寧ろ、残念だった。率直に、ショパンを好まないからだ。後半のプログラムを占めたスケルツォ・マズルカは、殆ど私にとって聴くのが苦痛な音楽である。ソナタの第2番も、第3番と比べて、あまりに貧相な作品と、私は思う。
多分、発売前にこのプログラムが出ていたら、私は行きはしなかったろう。

ただ、断っておけば、何もショパンに限らず、私はピアノ独奏を進んで聴くことは滅多にない。独奏ピアノがフォルティッシモを叩き出しているのを聴くのが、耐え難いという人間なのである。


それでも、私はポリーニを実際に見て、聴くことに大変な期待を寄せて、当日を迎えたのである。


そして、結論のみを言うならば、ポリーニが、当今比肩する者を見出だし難いほどの、まごうことなき名手であると、痛感した。これだけ腕が立って、それでいて知的なピアニストが、他にあるだろうか。選曲、その繋ぎ方、全てが考え抜かれ、一部の隙もありはしない。それはもう、今日の演奏会の、どれか一曲を聴いてみれば、すぐに分かるというものだ。

けれども、それにも関わらず私は、最後まで歯痒い思いを拭い去ることが出来なかった。

-なぜ、ショパンなのか?

この演奏会に来た人を、大別すれば、ショパンを聴きに来た人、ポリーニを聴きに来た人、とし得るだろう。更に後者を、ポリーニの技術そのものを聴きに来た人と、彼が作品を通して何を語るかを聴きに来た人と分けてもよいかも知れない。
私はピアノ演奏技術には疎いし、ショパンは嫌いだから、最後に分類されるより他ない。

その観点で見れば、ポリーニの才覚は、ショパンの音楽を超えている。ポリーニという人が、どういうピアニストであるのか、知ろうとするほどに、ショパンの作品が桎梏となる。

先述したポリーニへの賞賛の気持ちが、ショパンがいかにつまらないかという気持ちに、すっかり押しやられてしまったと言えば、果たしていかばかりの反論を浴びるだろうか?

事実に於いて、演奏会は空前の大成功を見た。まるでトースターからパンが跳ね上がるように、スタンディングオベーションが広がり、関西では、朝比奈さんが亡くなって以来、こんなことは初めてではないかと思う。
アンコールの、「革命のエチュード」、バラード1番となるに至り、会場は凄まじい熱狂に包まれていた。
確かにバラードは凄絶で、穏やかな開始と、次第に熱を帯びて行く、そうして最高潮に達したときの、地を揺るがすばかりの迫力。しかしそれは、私の「強奏嫌い」を消し去るように、あくまで豊かな響きを持っており、全く力付くという印象を与えはしないのである。

これは、全体についても、言えることだ。他のピアニストと比べては、mp以上の音量で、ポリーニは始終演奏しているような具合だが、あれほどうるさく響かない最強音を、私は初めて聴いた。
音楽は些かの澱みもなく、流れる。英雄ポロネーズなど、物足りなさが残ったくらいだ。こういうショパンは、あるいは情緒的なショパン演奏を求める向きには、食い足りないかも知れない。ソナタも、それがかえって、せわしなく感じられた。

けれども、私が今回の白眉と感じたのは、直前で追加された、ノクターンの2曲である。特に変ニ長調が。ポリーニが、あんなにも美しくて、優しいピアノを奏でる人とは、先のモーツァルトを聴いても尚、想像出来なかった。しかし、その演奏は一抹の寂寥感を漂わせている。いつも、どこか寂しげなのである。それは「ギリシア彫刻」「アポロ的」などと一般に比喩されるポリーニ像では、まるで指摘されないものだ。慈愛に満ちた微笑みと、寂しげな横顔-いかにも突飛で、牽強附会の謗りを免れ得ないであろうが、私はあの、「生きる」での志村喬を、ふと思い出したりもした。

彼はずっと、その恵まれ過ぎた技術故に、批評家筋から揶揄されてきた。ディースカウ同様、「うますぎる」などという批判が、甚だ無意味であることは言うまでもないが。
けれども彼の演奏が、かつて確かにテクニックの披瀝のようにしか感じられなかったことも事実である。しかし、いよいよかかる繊細微妙な表情を、その演奏が帯びて来たことにこそ、傾注すべきではないのか。

私はノクターンを聴いてしきりとそう感じたが、ショパンの音楽では、技術の妙ばかりが先立ちすぎて、こうして表情のうつろいが、浮かび上がって来ないのである。そこに私は、ショパンの限界を指摘する。これはもとより、その音楽の優劣を言うのではなく、ポリーニへの適性を言いたいのだ。

殆ど感情的な言い方をすれば、いい加減にピアニストはショパンを弾くという図式から、もっとたくさんの聴き手は抜け出すべきだ。おそらく、このオール・ショパン決定の背景には、様々な音楽以外の事情が絡んでいるのだろうが、その中でポリーニは最大限自分の主張をしてはいる。けれども、これは、日本の聴衆が蔑まれていると言えるのではないか。名手がショパンを、完璧な技巧で弾き切れば、熱狂をもって讃えるという人たちが、あまりに多くはないだろうか?
無論、何を以ってその演奏家の魅力と為すかに決まった基準などありはしないが、少なくとも、ショパンの音楽は、技術以外の、ピアニストが、音楽を通じて自己の何を表出しようとしているのかを聴き取ろうとする時には、あまりに不十分なところが、多い。彼の音楽は、多くの人が思うよりも、形式への志向が強い。そうしてまた、歌謡性が、前進への抑え難い思いに疎外されて、そのロマンティシズムに断絶が生じている場合が少なくない。
そんな中で、ノクターンは、彼の感情が、実は割と素直に書かれていると、私は感じる。マズルカもスケルツォもバラードも、ロマンティシズムと形式へのこだわりに引き裂かれている。例えばシューマンのような、ある種の開き直りのようなものが、もっと必要だったろう。

上述した、ポリーニの演奏がもつ流れの良さと、表情の微妙な明滅とを考え合わせれば、私はやはりモーツァルトが聴いてみたい。バッハ、ブラームス、モーツァルトのプログラムなど、私はいま、ポリーニで1番聴きたい。コンチェルトなら、ラヴェルも、あの第2楽章を想像して、居ても立ってもいられなくなる。

果たして、こうした、ショパンに比べると大人しいプログラムで、人々はどれほど熱狂したろう?あるいは、無名の若手ピアニストが、全く同じ演奏をしたとして、同じ喝采を浴びたろうか?この矛盾した2つの問いに、どう答えたものだろうか。再現芸術としての音楽への接し方を、改めて考えさせられずにはいられない。

ともかく私にとっては、満足感と著しい不満とが、併存する結果となった。

初めから少数派、終わっても少数派であろうか?

関西フィル第210回定期演奏会

2009-04-29 22:47:51 | 演奏会評
サン=サーンス:死の舞踏
ラロ:チェロ協奏曲
ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲/ラ・ヴァルス

独奏:堤剛
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団
指揮:藤岡幸夫

於ザ・シンフォニーホール


新年度、まずワーグナーの名演奏を聴かせてくれた関西フィルであったが、今回はフランス物中心の、プログラム。今年の関西のオーケストラの定期演奏会プログラムを眺めてみると、このように管弦楽曲を幾つも取り上げるというものが、多い。
私は、こういう趣向の演奏会で、最後まで高い完成度で以って聞き手を引き付けるのは、容易ならざる業と感じているのだけれども…。


さて、はじめのサン=サーンス。私はこの作品、この作曲家のいい聴き手では、ない。実のところ、少しもその真価というものが、分からずにいる人が、サン=サーンスだ。
よって、日常この曲を聴くということは、全く無い。昨夜思い立って久しぶりに聴いた次第。
確かに才人の筆であり、短い中に実に様々な仕掛けが施されていて、その意味に於いて飽きさせない作品であろう。演奏も、過度に小さくなり過ぎず、エネルギッシュなものであった。コンマスの独奏は、やや大人しく、もっと遊びが欲しい。


2曲目のラロは、「スペイン交響曲」を以って音楽史に名を刻んだこの作曲家の、もうひとつ、比較的演奏機会に恵まれた作品である。
とても、渋い曲。ハバネラの軽快なリズムなど、表情の変化に富んではいるし、和声の変化も面白いものであるけれども、些かオーケストレーションも不器用なもので、聴いていて、もうひとつ歯痒い。
堤さんは、地を揺るがすが如き轟音も、絢爛華美な美音も、売り物にしていない人だけれども、実に誠実で、自らの裡にほとばしる情熱を、収斂してゆく。それは、曲想に一致していて、例えば彼がドヴォルザークを弾いている時などとは異なった、不思議なオーラとでも言うべきものを感じたことであった。
ただ、オーケストラがそれに満足なサポートを付けきれていなかった。指揮者共々、おしまいまで手探りのままであったように思う。第2楽章などは、堤さんも生真面目に過ぎて生硬だし、バックとの齟齬が、いよいよ際立った。



休憩を挟んでのラヴェルは、藤岡さんの希望により、初めにダフニスとクローエ組曲。後半に、ラ・ヴァルス。私には、首肯しがたい順番だけれども。

ダフニスとクローエは、中庸からやや遅めのテンポで、じっくり開始される。20世紀最高のオーケストレーション能力を持ったラヴェルの、絢爛たる音の洪水。それを再現するには、例えば木管の技量などに、未だ高いハードルを感じずにはいられない。「夜明け」「全員の踊り」のように、トゥッティによるフォルティッシモで、聴き手を圧倒しているうちは良いが、「パントマイム」では指揮者も緊張感を維持し得ないし、オーケストラも極めて散漫なアンサンブルを露呈していた。

後半のラ・ヴァルスは、藤岡さんにとって随分思い入れがあるようであったが、残念ながら演奏からそれを感じることは出来なかった。ダフニスとクローエと、およそ同様の批判が当て嵌まるであろう。


藤岡さんの良いところは、好きな曲を、実に好きでたまらない風に演奏することだと思っている。けれども同時にそれは、ともすれば全体の見通しを欠いた、勢い任せに終わりがちである。その悪い方が今日は勝ったと言うべきだろうか。さすがにラヴェルには限界を感じずにはいられなかった。

3/27 第209 回関西フィル定期

2009-03-28 02:29:14 | 演奏会評
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死
楽劇「ワルキューレ」より第一幕(演奏会形式)

ジークリンデ:畑田弘美
ジークムント:竹田昌弘
フンディング:木川田澄

関西フィルハーモニー管弦楽団
指揮:飯守泰次郎
於ザ・シンフォニーホール


まず、率直に言えば、日本で、全てが日本人による上演で、これほどまでのワーグナーを聴けたことに-語弊を恐れずに言えば-、驚きに近いような感動を覚えた。朝比奈隆による「ニーベルングの指環」全曲上演から、遂に本邦のワーグナー演奏も、このレベルに達したのである。

飯守さんのワーグナーは、何しろバイロイトで20年以上もキャリアを積んだ人であるから、今までから、指揮する度に話題になっていた。手兵の関西フィルとも、ヴァイクルとの共演に続いて、昨年200回の定期演奏会の記念に、万を持してリング抜粋を取り上げて、喝采を浴びていたものである。

私はいずれも会場で聴いたけれども、実のところ、甚だ散漫な印象しか持てずにいる。オーケストラも歌い手も、飯守さんとある種の齟齬を抱いたままであるように、思った。響きも、私は周囲の評価以上に、軽いものだと感じたことであった。

その意味に於いて、今回の演奏会は、今まで飯守さんとはいつでもある距離感を保ち続けていたオーケストラが、完全に彼の意図を再現し、一体となって燃え上がったと、私は感じている。


まず、冒頭のトリスタンとイゾルデが、およそこれだけで聴き手は満腹感を催さずにはいられないような演奏である。
前奏曲・愛の死合わせて20分に至った演奏は、官能のかぎりを尽くし、濃厚な描写に余念がない。前奏曲は、時に長い、長いパウゼを効果的に挟んで、悠然と物語を紡いでゆく。初めこそセロの音程に危うさを感じたけれども、次第に全オーケストラが、むせ返るようなエロティシズムの渦に、飲み込まれてゆく。かくも陶酔的な演奏は、古今東西の名演奏のうちにも、容易に類例を見出だし得ないものだ。
けれども、飯守さんは我々が感じた以上に醒めたものではなかったろうかという、気がしている。単にずるずるべったりに各パートが混然となっているのではなく、もっと制御された、不思議な見通しの良さをも持っていたように思う。

この前プロが終わったところでもう、私はワーグナーの音楽の持つ、麻薬にも似た作用にすっかり冒されてしまい、軽い眩暈さえ覚えたほどであった。

後半のワルキューレは、65分ほどであったから、テンポとしては標準的であったが、緩急のコントラストが巧みで、全体としてはアグレッシヴなアプローチながら、この作品の持つ抒情性をも描出し得ていた。
終幕に向かっての、長いジークムントとジークリンデの二重唱。ワルキューレ第一幕のサワリであるこの部分の、何という壮麗さ。しかも、音楽はいつも、自然に膨らんでゆく。そうしてそのあとのオーケストラによる後奏は、肌に粟粒を生じさせずにはおかないような、異様な緊迫感と烈しさを持っていた。

無論、歌手もとてもよかった。細かいところに注文を付け出せばキリの無いことだし、そんなことに執心していては、演奏会などとても楽しめたものではない。
私が一番感心したのは、ジークリンデを歌った畑田女史である。ジークムント共々、素朴な瑞々しさが、圧倒的な力感の前に消されていない点を高く評価したい。ブリュンヒルデとジークリンデの性格の区別が、ここにはっきりと打ち出されていた。
ジークムントの竹田氏も、時折低音に不安定なところはあったが、真っ直ぐに声が伸びていて、これもワルキューレ第一幕の特異性、即ちジークフリートもブリュンヒルデもヴォータンも出て来ないという、全編から見た時のこの幕の特異性が、これを聴いてはっきりする。怪物的と言いたいような力強い絶唱よりも、寧ろ伸びやかでリリックな表現が、相応しいように思われる。新しいヘルデン・テノールの可能性を示したと言っては、言い過ぎだと謗られようか。
フンディングの木川田氏は、貫禄の名唱。朗々と、しかし憎々しい響きが広がる。やや生硬な印象を受けはしたが、こういうフンディングの性格描写は、有り得て然るべきと言えるであろう。あまり器用な悪役というのも、柄が小さくなってしまうだろうから。

前プロから引き続いて、オーケストラも端々まで鳴り切った演奏。今日の関西フィル在るは、飯守さんの功績によるところ、並大抵ではないが、漸くオーケストラがそれに応えて来た。弦楽器の厚い響きなど、往時の大フィルにも匹敵する。加えて、管楽器の充実ぶりも、このところ関西楽壇全体に見られるが、顕著である。唯一フルートにいまひとつのしなやかさを望みたいが、個人攻撃は私の意図せざるところであるから、詳述は避けよう。


会場には、若い指揮者の姿も見受けられた。大いに触発されて欲しいと、思う。


ホールを出ると、火照った顔に、花冷えの夜風が心地よかった。

3/14 びわ湖ホール プロデュースオペラ「トゥーランドット」

2009-03-15 22:59:50 | 演奏会評
2/14 びわ湖ホール プロデュースオペラ「トゥーランドット」
トゥーランドット姫  並河寿美
アルトゥム皇帝  田口興輔
ティムール  佐藤泰弘
カラフ  福井敬
リュー  高橋薫子
ピン  迎肇聡
パン  清水哲太郎
ポン  二塚直紀
役人  西田昭広
指揮/沼尻竜典 演出/粟国 淳 合唱/びわ湖ホール声楽アンサンブル,二期会合唱団 児童合唱/大津児童合唱団 管弦楽/京都市交響楽団


「レコード芸術」は、時として我々を不幸にする。かつての歴史的名演に日常的ふれられることによって、しばしばそれに、殆ど呪縛的と言いたいような、強烈な印象を与えられる。そうしてそれは、我々がその音楽を聴く時の、ひとつの指標として、強い力を持ち始める。

「巨匠不在」が叫ばれて久しい昨今の楽壇に於いて、敢えてその傾向の強い分野を求めるとすれば、それは声楽、殊にオペラに顕著であろうと、私は思う。

私が聴いてきた、「トゥーランドット」を例に採れば、かつてニルソンがトゥーランドットを歌い、コレッリがカラフを歌った。リューにテバルディを配した、贅を尽した演奏もあった。殆ど「怪物的」とさえ言いたいまでの、圧倒的な彼らの名唱に馴染んだ(!)私たちはおよそ、現役の歌手たちに、どこか不満を覚えずにはいられない。

これは、実に身勝手な弁だと、自覚するのだけれども。

とは言うものの、私が聴いたトゥーランドット、歌手個々人のレベルは極めて高かった。トゥーランドット役の並河女史は、ニルソンのような圧倒的なパワーで押すということではなく、もっとしなやかである。エレーデの指揮で歌ったインゲ・ボルクにやや近い。初めは危ういところも散見されたが、次第に調子を上げたようだった。
福井氏のカラフは、多くのファンにとって、本公演最大の期待であったろうが、それに反しない好演を見せてくれた。実にこの人は、無理をしない。ドミンゴに近いような、制御された、理知的な歌い手である。
私はまた、リューを歌った高橋女史に大いに感心したことであった。純情可憐で、けれども決して弱弱しくはならない強さを持っている。リューが平凡では、このドラマは随分と平板なものになってしまうし、重要な役どころであるが、素晴らしい出来栄えを示していた。
ピン・ポン・パンは、コンメディア・デッラルテの伝統に則った、形式的な役どころには違いなかろうが、プッチーニは彼らのために、実に魅力的な音楽を、書いた。第2幕前半などは、彼らの独壇場である。今回、私が聴いた初日は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの若い人たちが歌ったが、些か生硬に過ぎ、客席にまでその緊張が伝わるようだった。

オール日本人キャストによる「トゥーランドット」上演は、決して容易ならざるものと思われるが、私の心配は殆ど払拭されたと言ってよい。

指揮の沼尻氏は、昨年のシュトラウス(バラの騎士、サロメ)では、艶麗で官能的な響きを引き出し、私はそれまでの印象を大いに改めねばならなかった。今回も、弦の響きを中心に、とても流麗な音楽を奏でる。けれども、あの大きなモーションに反して、出てくる音楽は広がりを持たず、オーヴァーと言っても過言でないプッチーニの起伏に富んだ音楽は、すっかり矮小化されてしまったように思う。肝心の盛り上げるべきところで、どこかいつも中途半端に終わってしまう。こういうイタリアオペラは、見得の下手な歌舞伎を見せられたようで、心地が悪い。
この指揮者が、未だ十分なオペラ経験を欠いていることを如実に見せ付けられる結果となった。

けれども、最も罪深いのは演出の栗国氏であろう。近未来の機械文明の世界に舞台を設定したということで、常に舞台には-ちょうどチャップリンの「モダン・タイムス」のような-歯車や蒸気機関といった機械仕掛けが配置される。「北京の民」は、管理された労働者を演ずる。
特定の時間・場所を意識させない目的があったようだが、主要登場人物は皆中国王朝風の衣装で統一されており、理解し難い矛盾を示している。
かかる不可解な設定は、各所に見られたが、私が最も腹立たしいのは、リューを他殺に処したことであろう。これは作曲者が考えたろう東洋的趣味に照応してみても、自刃することがドラマの進行上必須であろうと思う。音楽とテクストを隷属させるような傲慢な演出は、いい加減にしてもらいたいものだ。
加えて氏は、昨年のホモキやグルーヴァーのような徹底振りにも乏しく、幼稚と言っていいような散漫な舞台を露呈した。舞台は全体に暗く、プッチーニ畢生の、絢爛たる音楽絵巻が、甚だ陰気な視覚効果によって阻害されるところとなった。

小林秀雄の「目をつぶってオペラを見てやる」というコトバに、首肯したくなる演出である。私はブーイングを飛ばさずにはいられなかったが、日本人もハッキリとした意思表示を打ち出して然るべきであろう。

若杉弘氏のヴェルディ・シリーズを引き継いでの、沼尻氏によるホール・プロデュースオペラである。監督の果敢な試みは感じながらも、私は前途に暗雲を感じずにいられない。