アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

ピアノと西洋音楽史・ピアノと西洋音楽受容史

2009-12-08 23:27:55 | 随想
 本邦の西洋音楽受容に於いてピアノが果たした役割に思いを致すとき、そこにピアノと西洋音楽史との関係とパラレルであると同時に、実に特殊な一側面を見出さずに入られない。西洋音楽史にとってピアノとは何だったのか。そうして日本西洋音楽史にとってピアノとは何だったのかということについて、全く私的な感慨をも交えながら、ひとつのトルソとして本稿を認めるものである。
 ピアノの誕生は、音楽の創造―それは原創造にも、もちろん追創造にも―に根源的な影響を与えた。シューベルトがいくつかの傑作を、ピアノ無しで作り上げたということが驚異として語られるほどに、あらゆる作曲家にとって、ピアノという楽器は不可欠なものとしての地位を占めてゆく。またモーツァルトやベートーヴェンにとって、その華々しいキャリアの幕開けは、ピアノの名手としての名声でもあったということを、看過すべきではないだろう。では、西洋音楽史に於いてピアノはいかなる意味を持つのか?
 単純に道具としての役割がまず挙げられよう。上述した如くに、表現のための手段、道具としてのピアノである。その利便性と多様な表現の可能性に於いて、その比類の無い価値は、かくも高度な技術を有する今日になお、失われていないと言えるであろう。もしピアノが無かったら―即ち、ピアノが無くては表現し得ないものは何か―ということを想像してみるのは、容易なことのようでいて、私には俄かに答を見出しえないものだ。仮にピアノがこの世に無かったとしても、天才たちはどうしても同じ音楽を生み出すより他は無かったという思いもする。けれども、もしモーツァルトがピアノを知らなかったならば、あの美しいコンチェルトを私たちは聴くことが出来なかった―と考えれば、暗澹たる思いにとらわれる。するとまた、あの透徹されたクラリネット協奏曲も、壮麗なハ長調のジュピター交響曲も、生まれはしなかったような気がするのである。この有能なる楽の友が、彼の創作意欲を、どれだけかき立てたろうという意味に於いても。それほど深く、作曲家は、その創造行為において、ピアノに依存するところ少なくなかったのではないだろうか。ピアノがそれぞれに有した個性もまた、それを愛した作曲家の個性と不可分の絆で結びついていたのである。
 けれども私の感覚では、ピアノは来るべき市民社会と音楽との関係において、極めて興味深い存在として浮かび上がってくる。貴族や一部の趣味人の間のものであった音楽(これは器楽としてもいいだろうか?この際オペラなどは考えの外におくべきと思われる)が、新たに台頭してきた市民層に所有される時代である。弦楽器や管楽器を奏しているのでは、例えばかつてのブランデンブルク候のように、玄人はだしの腕前であったとしても、家庭で再現しうる音楽には限界がある。メンデルスゾーンの管弦楽作品が、ピアノ連弾によって親しまれた例にも示されるように、10ないしは20という指の運動から可能になるその表現は、オーケストラ音楽を、わが部屋に再現せしめたのである。しかも、弦楽器や管楽器に比べて―私も自身で体験したことだけれども―素人でもサマになるのがピアノなのである。確固たる歴史のうちに己のアイデンティティーを見出せず、その存在の証をいつも求めずに入られなかった新興市民層にとって、ピアノは受け入れられる条件を見事に備えていたのである。
 こうしていわゆるクラシック音楽の裾野を広げることにも、ピアノは多大な影響をもたらした。M・ウェーバーが論じてみせたごとく、ピアノはクラシック音楽と市民社会の発展の象徴的な存在となってゆく。
 こうした地位を誇ったピアノが、明治日本にそのままもたらされたと言っていいだろう。まさに厳格なる階層社会の崩壊した後の世という状況は、ピアノが生まれ育ってきたヨーロッパのそれとパラレルなものであった。およそ熱心に音楽の道を志していない者の間にも、ピアノを持ち、演奏するということは広がってゆくのである。一種のステータスであると言ってはあまりに卑俗な見方になろうが、おそらくヨーロッパに於いても、同様の受容を些かなりとも示したことであろう。もちろん、明治大正期に於いては、それは良家の子女のみに許された素養であったろうが、広く少年少女たちの「習い事」として普及してゆくまでには、半世紀の時を待つだけで十分であった。それは即ち、我が国が迎えた次なるパラダイム・シフト―1945年8月15日―の後に立ち上ってくる現象である。
 私自身、かかる世の趨勢に則って、幼き日にピアノと格闘する羽目になった人間の一人である。ただ本人も家族も別段熱心ではなく、あの異常なまでにシステマティックな指導法にも、まるで無縁であった。私は、結局、今に至ってみれば、楽譜を単なる記号の羅列として見ないくらいの素養が身に付いた程度である。それに、音楽的アイデンティティーの形成に、驚くほどにピアノ体験が無関係であるということにさえ、気づくのである。
 ただ周囲を見渡して、私も僕もピアノをやっていた、やっているという今日の状況は、殆ど空恐ろしいまでの気分に私をさせる。能動的であれ受動的であれ、これほどにまで多くの人々がピアノに触れ合っているという国が、他にあるのだろうか。もはやピアノは、音楽表現の手段でもなく、市民社会の象徴でもない、全く我が国に特異な存在として、浮遊しているのではあるまいか。まさに、単なる道具として。
 以前からかかる違和感を禁じえなかったのであるが、こうまでも痛感させられたのは、先頃ポリーニの日本公演に接してからである。
 そもそもクラシックを聴くようになってからの私は、その本質に於いてレガートすることが不可能なピアノという楽器、その独奏を徹底して嫌いぬいてきた。いつでも私にとって音楽は、カンタービレ―から発していたのである。ピアノは打楽器であるということが、私には堪え難かった。例えば、ミケランジェリを聴いて、ピアノが金属の塊であることをいよいよ痛感させられて、殆ど生理的な不快感を催したりもした。
今もそういう嗜好は強く、ピアノ独奏曲を、同じ集中力で聴き続けることは、かなり困難といっていい。上述の如くに、ピアノが音楽史に占める犯し難い価値を認めながらも、ショパンやリストという、ピアノを抜いてはどうにも語りようの無い作曲家を、私はいつでも「嫌いな」という形容詞を付して語ってきたものである。その時点で、私は多くの日本の音楽ファンと、その根源的な部分で質を異にしていたと言えるかも知れない。熱烈なファンでもないポリーニの、しかもオール・ショパンという半ば拷問にも似たプログラムの演奏会に、決して安くない料金を払って出かけたのは、ひとえに「今のポリーニ」を自分の五感で感じたいという欲求からであった。満場の聴衆のうちで、かくも冷ややかな気持ちでいた者が、他にどれほどいたろうか。
ポリーニの演奏は、あの精巧なヴィルトゥオロジーに、ある不思議な透明感を備えて、マズルカやスケルツォ、ポロネーズといった作品よりも、ノクターンのような小品に、その真価を発揮したように思った。けれども、とにかく人は、例えば「革命」のような有名曲に、悲鳴にも似た喝采を送り、特に1階席などは殆ど総立ちという様相である。よもや中村紘子の演奏会でこういう現象が起こるとも思えないし、この異様な雰囲気を目の当たりにしながら、私は先の、日本人とピアノ、そうしてショパンとの特殊な関係を感じずにいられなかったのである。
かかる現象を生んだのも、あそこにいた大部分の人々が、その幼少期に於いて親しくピアノと接点を持ったからではないだろうか。だとすれば、日本人の音楽的アイデンティティー(クラシック音楽の)はピアノと不可分では考えられまい。またそこにショパンの存在を交えてみるとき、単に日本人のセンチメンタリズムだけでは捉えきれない淵源があるように、思われてくるのである。

過去の執筆原稿から① マーラーとわたくし

2009-05-24 22:36:43 | 随想
過去に私が執筆した駄文を、時折転載してゆきたいと思う。

今回の「マーラーとわたくし」は、大学1回生の折にレポートとして提出したもの。今となっては拙さばかりが目立つが、敢えて改訂せずに、読者諸兄に呈することとしたい。

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「好きな」作曲家は?と問われると、まず「マーラー」と答えたくなる。ブルックナーの7番を偶然聴き、そして感動し、現在に至るクラシック好きへの道を歩み始めた者として、「ブルックナー」だと言いたい。しかし、どうもブルックナーへの思いは「尊敬」と言うに近い気がする。その点、マーラーはチャイコフスキーやブラームスと並んで、理屈抜きに好きな作曲家であり、就中、心から共感できる作曲家なのである。
 マーラーとの出会いは、ご多分に漏れず第1交響曲であった(以下、単に便宜上の問題として「巨人」という名称を用いる)。私がクラシックに目覚めたのは、中学3年生の秋だったけれども、その翌年、即ち高校1年の秋に(たしか9月だった)我が京都コンサートホールにベルティーニ/都響が巨人を引っ提げてやって来た。それを知ったのはちょうど前売り発売の当日で、たまたま京響の定期に来ていた私は有り金を叩いてS席を購入したのだった。今に比べると、まだまだクラシックについて無知であったが、ともかくこのコンビが本邦で最高のマーラーを奏でるコンビだという認識は、何故かあったのである。
 しかし、当時の私はマーラーに関心は一切無かった。その前売りを買って後も、暫くマーラーは聴いたことのない状態が続いていたように思う。件の演奏会が迫った頃、漸く「予習」の必要を感じ、あのワルターの名盤を買ってきたのであった。驚いた。それまで聴いてきたシンフォニーとは質を大きく異にする。今にして思えば、これはこの曲に接した当時の聴衆の印象だったのかも知れぬ。ただ、最も強烈な印象を与えたのは、ちょうど授業で取り上げられた第3楽章冒頭の旋律であった。例のコントラバスのソロ ―あの独特のぎこちなさを持つワルター盤のソロ― が始まってすぐ、「ん?」と思った。どこか聴いたことのあるメロディーである。1分と経たない間に「あ!」と声を上げずにはいられなかった。幼稚園の時によくやった、手遊びの一種の歌と同じ旋律だったのだ。「グー・チョキ・パーで、何作ろう?…」という遊びであるが、果たして全国的なものなのか、私には分からない。しかし、何人か、初めてこの曲を聴く友人に聴かせ、感想を聞いたところ、いつもこの旋律への驚きが返って来た。少なくとも京都では、ポピュラーな遊びであることは事実のようである。ともかく、すぐに解説を開いたところ、ボヘミア民謡だとある。京都の幼稚園の手遊びまでにボヘミア民謡が用いられているとは、大変な驚きであった。いずれにしても私はこのシンフォニーをたいそう気に入り、本番までに何度も繰り返し聴いて、演奏会当日を迎えたのであった。
 
 私の席は3列目のど真ん中、指揮者を間近に見られる席だった。開演間近の印象として、とにかく客の入りが悪かったことを思い出す。国内オケの演奏会だから、価格もS席¥6000程度だったし、しかもビックネームの登場だったのに、客入りはせいぜい7割程度ではなかったろうか。私の両脇も空いていた。
 チューニングが終わり、マエストロが登場する。思ったより小柄で、少し顔の赤らんだ、温和そうな人だと感じた。前プロは「さすらう若人の歌」。この曲については、「予習」無しで臨んだが、巨人の解説でメロディーの転用についての知識はあったので、なるほどなぁと思いつつ耳を傾ける。そんな状態であったから、演奏の良し悪しについてはよく分からなかったのだけれど、少しバリトンが硬いように感じたこと、カーテンコールの中、セカンド・ヴァイオリンの女性奏者が涙を拭っていたことが、今でも鮮明に思い出される。
 さて後半はいよいよ待ちかねた巨人である。第1楽章冒頭の神秘的な響きがホールを満たすや、確かに空気が一変した。他の作品にも実演で接して来た今日でも思うことだけれど、殊にマーラーの名演は、演奏中聴衆が文字通り「固唾を呑んで」聴いている。その反動であろう楽章間の開放感との対比に於いて、それはいつも如実に感じられる。ベルティーニのマーラーは決して情緒過多でも無ければ、ザッハリヒなものでもない。あくまでも作品の寄り添いながらも、実に巧みに指揮者の意志を聴かせてくれる、そんなマーラーである。一言で言うならば、そこには優しさが感じられる。マエストロの人柄なのかも知れない。そんなマーラーだから、第1楽章の、「さすらう若人」の旋律は、背中越しにでも微笑むベルティーニの表情が見えるようだった。実際彼は身体を旋律とともに揺らせて楽しそうに指揮していたし、実にのどかで、朗らかなカンタービレであった。しかし、ここぞというところでの彼の切れ味の鋭さを見逃すべきではない。第1楽章コーダの追い込みの激しさ、スケルツォのリズム感。いずれもマーラーと同時に現代音楽のエキスパートでもあるベルティーニらしい、鋭敏な感覚を思わせるものである。勿論今日の知識での分析であるけれど。
 
 何故か第3楽章の印象が薄いが、あの大編成オケのパワフルなサウンドの洪水である終楽章に、思わず仰け反りそうになったのは言うに難くない。本当にすごい迫力であった。そして何より強烈に記憶に焼きついているのは、曲が盛り上がるにつれてどんどん高潮していくマエストロの後頭部であった。先述したように、ちょうど真後ろで見ていたものだから、血管でも切れないかしらと本当に心配するくらい凄まじいものだったのである。最後の方は興奮していて、もう何がなんだか分からなかった。気がつけば「ブラボー」を叫び、立ち上がっていた。微笑みを湛え、何度も答礼に応じるマエストロ。ポディウムやバルコニー席の人々にも手を振って応える。後日、こういう彼のスタイルを、「聴衆への媚だ」とする評論を読んだが、不愉快以外の何物でもなかった。私は終演後、サインを貰いに行って幸運にも少し彼と会話する機会に恵まれたが、本当に人柄がそうさせたのだとしか思えない、そんな指揮者だった。未だに忘れ得ぬ、握手した時のあの温かい手の感触。それが全てを語っているように思われた。それは彼が世を去った今でも、変わらぬ思いである。
 
 今は、2番や9番の方が好きだけれど、やはりこの「巨人」は特別な意味を持つ作品である。しかし、所謂「マーラー指揮者」と呼ばれる指揮者ではない人々について言うならば、この作品へのスタンスは分かれているように思う。どこか距離を置いた客観的な部分を感じさせる演奏か、それとも全く演奏しないかである。ジュリーニなど、血気盛んなシカゴ時代に録音しているが、意外に大人しい。後者の例に当たる指揮者は、多くの場合、「巨人」の成立や書法に疑問を感じるという。直弟子であるクレンペラーを始め、朝比奈隆やカラヤンが挙げられよう。私はマーラーの音楽について、非常に私小説風なところがあると思う。朝比奈は「巨人」を振るのは「この歳になるとああいう音楽は恥ずかしくって」と語っているが、まことに赤裸々なマーラーの叫びが、あそこにはある。
 そういったマーラー作品のひとつの傾向を、言わばまだ多少未成熟の形で内包するのが「巨人」ではないか。と同時に、彼の音楽の持つ非西欧性・汎世界性の志向も既に見ることが出来る。具体的には、当時としては革新的だったであろうあの序奏に続いて、直ちに木管に提示されるラ-ミの下降四度のモティーフ。この四度の音程は、オクターヴ・五度・三度が音程の中心を占める西欧系の民謡よりも、ハンガリーやアジア系の民謡に多く見られるもので、作曲家の柴田南雄氏は、ここに非西欧・西欧以前との親近性を指摘する。続いてクラリネットで模される「カッコウ」の音も、例えばベートーヴェンの「田園」ではミ・ドと長三度の音程で示されるのに対し、ラ・ミの四度の音程を取っているのである。しかし同時に、全体としてはまだ伝統的な西洋音楽の形式に則っている。こういった点も、この曲がマーラーの作品のうちでまず一番にポピュラリティを獲得した所以であろう。
今ではマーラーのCDはそれこそ山のように買ってきたし、それぞれのシンフォニーについて、愛して已まない愛聴盤がある。またハーディング/東フィルによる「復活」、ゲルギエフ/ロッテルダムpoによる9番(涙を流すことさえ忘れるが如き凄演であった!)など、未だ脳裏に鮮烈な印象を焼き付ける名演にも立ち会った。しかし、私のマーラー体験は、いつまでもあの「グー・チョキ・パーで…」から始まっているし、またベルティーニの温顔と共にある。生涯忘れ得ぬ音楽体験というのは、そういうものなのであろう。


さくらのこと、はなのこと・あれこれ

2009-03-25 21:53:56 | 随想
京都にも、もう桜が咲いた。花冷え、とはこういうことなのかと思う、寒い日がまた戻ってきたというのに。

私は、毎日二条城の前を往復して駅へ向かうのだけれど、夜間ライトアップが始まっていて、今日の帰路は、たくさんの人で賑わっていた。確かに、夜の闇のなかに照らし出された桜の花が、一種独特の妖艶さを持っていることは、いまさら私が言うまでも無く、広く知られたことだ。

国語学の大家、山田孝雄博士の「櫻史」という名著がある。昭和16年刊行であるから、とても古い本だけれども、国語学の門外漢である私にも親しめる、浩瀚博識の書である。「櫻史まさに公にせられむとす。時正に櫻花爛漫たり。」という書き出しで始まるこの論文は、桜の花同様の、実に美しい文体を持っている。ここで博士は、古今の膨大な例を引きながら、日本人と桜の密接な関わり合いを説く。

そういう言わば「桜党」とでも言うべき氏の名著を引きながら、私自身は桜の花にかかる愛着を持たないことを、告白しなければならない。何も、あの美しさに感動しないような荒んだ心を持っているのではないけれど、散ったあと、いかにも惨めに路傍に吹き曝されている様が、何とも心苦しいのである。
「桜の木の下には死体が埋まっている!」と書いたのは梶井基次郎であったが、寧ろその感覚に、私は与し得る気が、している。

そう、散るといえば、私は椿が好きではなかった。あの「ぼとっ」と地面に落ちるのが、私はあまり好きではない。到底、潔いなどとは、言えはしない。

私は、いろ・かたち・におい、今も昔も変わらず、梅の花が好きだ。殊に、蝋梅が。

けれどもこのところ、茶の道に入るに及んで、茶花に些かの関心を持つようになって、次第に印象が改まった。晩秋以降、冬の訪れを感じると共に、茶会の折にも椿が生けられることが多くなる。私は元来甚だ不精な人間で、およそ植物も動物も、ひとりで世話をしきった記憶が無く、よって乏しい知識しか持ち合わせていない。私が今まで脳裡に描いてきた「椿」が、一体何という名を持つものかさえ分かりはしないが、初釜の折に知った、「西王母」という故事に由来した名を持つ、つつましやかな桃色の花に、すっかり心惹かれてしまったのであった。

爾来、いろいろと調べてみると、日本産の椿だけで2000種以上があって、いずれも実に美しい名前を持っている。

茶道では、莟の花しか用いないが、開けばまた、別の美しさを見せてくれるのだろうと、このところ思っては楽しんでいる。


閑話休題。「びいでびいで」と呼ばれる桜を、御存知であろうか。これは南国の方言で、正式な名を、ムニンデイゴ、あるいは南洋桜というそうだ。私は、「桜」というコトバを使ったけれども、どうやらこれは桜ではないらしい。桜が自生しない小笠原では、春の訪れを告げる花として、よく似たこのムニンデイゴを桜と擬えているとの由。花は真紅ということだが、私はまだ、見たことが無い。

関西楽壇の重鎮であった平井康三郎氏に、「びいでびいで」という歌曲がある。歌曲集「日本の笛」の一篇。詩は、北原白秋。

びいでびいでの
今 花盛り
紅いかんざし
暁(あけ)の霧

びいでびいでの
あの花かげで
何とお仰(しゃ)った
末(すえ)かけた

南国の暖かい春、島の娘の屈託のない笑顔が浮かんでくるよう―と言うとあまりに陳腐であろうが、そういう表現をつい口にしたくなるような、明るい、弾んだ佳曲。

「平城山」「スキー」など、誰もが馴染んだ童謡の作者である平井氏であるが、この曲を私は、つい最近まで不覚にして知らずにいた。北新地に、同名のクラブがあって、そこで初めて知り、また聴いたのである。

いつのまにか、随分と色々なことに詳しくなったものだ。

ところで、あすこのマダムは、南国出身なのだろうか。次に行く折の楽しみが、できた。