アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

ノートNr.2 古楽器演奏に寄せて

2009-11-22 00:37:06 | ノート
ここでは、古楽器での演奏と、モダーン楽器を用いてのピリオド・アプローチを、基本的に区別して扱うことを断っておきたい。両方合わせて言う場合は、古楽器派とする。

私はそのいずれも、率直に言えば好まない。今でも、素直な感動に、ある種の学術的な関心が先行するところ少なくないが、このところ以前より多くの古楽器演奏、ピリオド・アプローチに接することもあり、いくらか考えをまとめておきたいと思ったのである。

こうした古楽器派と呼ばれる潮流が、果たしていつ生まれたのか?60年代から既に、そうした動向は認められるかも知れない。古楽器を用いない、あるいはピリオド・アプローチを標榜していなくても、例えばかつてのフェリックス・プロハスカの指揮などは、今日の私たちが聴くと、その嚆矢をさえなしているように聴こえるところも少なくない。

モーツァルトを演奏する時に、果たして当時それがどのように聴かれていたかというのに思いを馳せるのは、歴史主義など引き合いに出さずとも、まことに自然な感情であると思われる。そうしてまたそれは、私たち音楽学の人間にとって、ある重要な仕事であることも疑い得ない。

こうした様々な視座が相俟って、古楽器派半世紀の歴史を数え、実に多様な演奏が聴けるようになった。そうして今や、たくさんの人達に、彼らの演奏が受け入れられている。すると私などは、かなり保守的な趣味の持ち主とばかり、ほとんど奇異の眼差しでさえ見られかねない。


先日、鈴木秀美さんの指揮するモーツァルトの「プラハ」などを収めたCDを聴いた。とても、面白い演奏。とにかく緊張感の持続が素晴らしく、演奏の様子が目に浮かぶほどに、生々しい音楽が展開されている。それに各楽器のバランスが独特で、時折強調される弦のレガートもまた、強い印象を残す。こうした賛辞は、私が古楽器派の演奏に接する時、いつも思うことだ。

ただし、同時にいつも思わずにいられない批判も、ある。彼らはピリオド・アプローチであらねばならぬのか、ということである。

というのも、誰を聴いても、歌いたいという本能的な欲求を敢えて抑圧しているか、もしくはかなり工夫を凝らして歌う様子が、どうにも不自然に聴こえるからである。何故そこまで苦労してまで古楽器を用い、またピリオド・アプローチであらねばならないのか?-このことに、演奏で以って説得的な回答を与えてくれた人は、未だいない。それが私が、今も古楽器派の演奏を受け入れきれない所以である。

加えて、例えばアーノンクールやガーディナーのような、この分野の巨匠と呼びうる人たちが、結局のところモダーン楽器、それもウィーンフィルのような団体に活動を広げていったことが、私の意を強くする。
まさしく音楽史の展開の縮図を見る思いがする。まことに芸術は、人間の本能に、欲求に忠実であったのだ。

もうひとつ古楽器派の限界は、例えばモーツァルトを演奏する時、彼の音楽の持つ息の長い歌謡性など、既に胚胎されている超時代性とでも言うべきものを、表現しきれない点にある。同時代のコンテクストではもはや捉えきれないものを、時代を超えて作曲家が希求したものを、今日の我々は再現すべきではないだろうか。それこそが、100年、200年前の音楽がその中心であるという特異なクラシック音楽の領域に於いて、重要なことと私は感ずるのである。
「プラハ」の第一楽章展開部、あの「ジュピター」を先取したような対位法的書法や、ト短調シンフォニーにも似た切迫感などは、やはり、同時代のほかの音楽とは、明らかに一線を画している。そうしたことを、音楽で以って私にはっきりと語ってくれるのは、例えば、やはりベームのような指揮者なのである。

11/14 京都市交響楽団モーツァルト・ツィクルスNr.21

2009-11-14 23:48:46 | 演奏会評
指揮/鈴木雅明 sp/松井亜季 管弦楽/京都市交響楽団
歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲K.527
交響曲第20番ニ長調K.133
モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」k.165(158a)
交響曲第34番ハ長調K.338

アンコール:アリア<私の感謝をお受け下さい、慈悲の人よ>K.383


古楽器団体を率いてのバッハ演奏で名高い、鈴木雅明さんが、初めて京響に客演することになった。一連の、小ホールでのモーツァルト・ツィクルスである。

鈴木さんは、名前はよく聞きながらも、実は一度もその演奏にーレコード、実演ともにー接したことはなかった。その初めてが、今日のモーツァルト。

鈴木さんの指揮は、実にエネルギッシュなものであった。どちらかと言えば器用なタクトではないけれども、直截である。金管・ティンパニが強調され、弦楽器は基本的にノン・ヴィブラートで、いよいよ響きは先鋭的で、ストイックなものとなる。もちろん、6ー6-4-3-2の小編成である。

そういうスタイルが、特に前半では些か生硬に過ぎる表情に留まっていた。指揮者、オーケストラが、双方探り合いという趣で、アインザッツなどの不揃いも聴かれた。

後半のエクスルターテ・ユビラーデ、これは私が中学生の時、例の「オーケストラの少女」で、ディアナ・ダービンの歌う「アレルヤ」に惹かれて以来、モーツァルトの作品中でも愛惜おく能わざるものである。今日も、昨今ではなかなかコンサートで聴かれないこの曲を目当てに出かけたのである。
ソプラノの松井さんは、豊かな声量で高音の響きも申し分ない。ただ、些かオペラ的な歌唱で色があり、私はもう少し素直な表現を望みたい。
このあたりからオーケストラも落ち着きを見せ、明るく、また優しく独唱を包み込む。アレルヤの、愉悦に満ちた快活なテンポも爽快である。

最後の34番は、やや鋭角的ではあるが、よくオーケストラが鳴っている。特に終楽章の執拗なタランテラ風のリズムは、指揮者共々、非常に情熱的であった。とにかく鈴木さんは、精力的な指揮をする人だという印象である。

どこからか「待ってました!」の声(会場はやや苦笑。「北座」ではないのだが)がかかったアンコールが、また、とてもよかった。ここでは松井さんの豊かな表情がよく活かされて、この素敵なアリアを堪能した。後半通じて素晴らしい演奏をしていたオーボエが、ここでも良いアクセントになっていた。

初めに述べたように、やや硬さが最後まで拭いきれなかったが、充実したマチネーを聴いた思いである。どこか人情味のようなものがあるようで、過度にエキセントリックでないピリオド・アプローチが、私には聴きよかった。

11/1 リッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団京都公演

2009-11-02 16:04:00 | 演奏会評
さすがに連夜の演奏会に運ぶのは穏やかなことではない。先のN響のようないい加減な演奏もあるが、聴き手の襟を正さずにはおかない熱演の前には、尚更のことである。しかしまたそれは、とても心地好い充足感でもある。今回の演奏会は、まさにそうした一夕となった。マチネーにしなかったのも、シャイーの気概を現したものであったろう。

初めに告白しておくならば、私はシャイーという指揮者を好きではなかった。コンセルトヘボウの、「あの響き」をまるで変えてしまったイタリー人の指揮者-そうしてまた、微に入り細に穿ったアプローチも、私には煩わしいものであった。きっと彼はまた、ライプツィヒのこの古いオーケストラの響きも、すっかり変えてしまうのだろうと思っていたのである。

確かに彼は、またしてもオーケストラを自分好みのそれに変えてしまっていた。そのことの是非は、別に問いたいところではあるが、それが全く不満とならないほどの素晴らしい演奏会となった。

まずモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番。独奏は、アラベラ・美歩・シュタインバッハーという若い女流である。私はこの人のことを皆目知らないのだが、これからが楽しみな才能と思われた。線は太くないが、とても美しい音色、高音に至っても実にしなやかに響く。艶やかというよりは、もっと清廉な印象である。曲想にそれが、とても合っている。
シャイーの指揮は、冒頭の極端な強弱や間合いなどは些か過剰であったが、明るく爽快な響きが持ち味である。シャープでありながら、とても柔らかな風合いと言ったらいいだろうか。第2楽章が、とてもよかった。ピッツィカートひとつにも、表情がある。優しい気持ちにさせられる、そういうモーツァルト。

マーラーは、作曲者の細かい指示を更に上回る、濃厚な表情を初めからおしまいまで聴かせた。シャイーの執拗なまでの要求に、完璧に応えていくオーケストラ。この緊張感は、なかなか聴けるものではないし、かかる刺激的な関係が、名オーケストラを次々と渡り歩くシャイーの手腕であるのだろう。とにかく惰性というところが皆無の演奏であり、それでいて煩わしさを感じなかった。

冒頭の「カッコウ」の甲高い強調に始まるそれを、一々指摘するつもりは無いが、白眉は終楽章である。あの胸の詰まるような弦のメロディーから、金管の阿鼻叫喚まで、指揮者とオーケストラが一体となって描き出す。殆ど忘我の境地で、私は聴かずにはいられなかった。それでいて、シャイーはバランス感覚を少しも失わず、各パートが実に精緻に鳴り切っているのである。

夏のティルソン・トーマスとPMFに続いて、忘れ得ぬマーラー演奏を聴くことが出来た。久しぶりに、根底を揺さぶられる音楽体験であった。

10/31 プレヴィン/NHK交響楽団京都公演

2009-11-02 14:23:55 | Weblog
今年N響の首席客演指揮者に就任したプレヴィンが、京都へ来た。私事ながら、週末3日、全日コンサートホールに運んだ中日である。

プレヴィンは、2年前だったか、前回の来日の折、東京へ出向いてラフマニノフを聴いた。上半身が随分肥えて、指揮台の行き来がやっとという有様で、随分老けたという印象が強く、もう来日は最後かなどと思ったものだった。

今回は、立ち居は危なっかしさを増して、音楽自体もいよいよ老いたということを痛感せずにはいられなかった。

曲目は、モーツァルトの38・39・40番。往時のスウィトナーを思い出させる選曲である。アプローチは極めて温雅な、フレーズの終わりを弱めるなど昔風のものである。私はこういうモーツァルトで育ったし、こういうモーツァルトが好きである。
ただ今回はテンポばかり遅く、音楽がまるで生き生きした表情を持たない。リズムに弾力が無い。それでいて、リピートをすべて実行するのだから、すっかり退屈してしまった。確かに管楽器のバランスなど、いくらか面白いところもあったが、これを中庸などと言うのは、あまりに過大な評価という思いがする。

プレヴィンの老化はともかく、N響のぞんざいな演奏に私は不快感を覚える。指揮にはよく従っていたが、決して「献身的」ではない。切り詰められた編成であるのに、vnを中心に甚だ雑なアンサンブルを聴かせる。ホルンのピッチも不安定である。ティンパニの打ち込みは、突出して安っぽい。
まるでプロ意識に欠けた、言葉を選ばないならば、手抜きの演奏であった。

このオーケストラの根本的な問題を目の当たりにした。プレヴィンも、晩節を汚さぬほうがよい。

10/30 第529回京都市交響楽団定期演奏会

2009-11-01 23:27:39 | 演奏会評
かつて常任指揮者であった井上道義の指揮による、リンツとブルックナーの交響曲第9番。「ミッキー」は確か7番をレコーディングしていたが、彼のブルックナーはそう頻繁に聴くことができるものでもなかろう。

リンツは、現在彼が指揮しているアンサンブル金沢に合わせたような小編成で、これを例によって彼は踊り、指揮する。非常に軽快で歯切れが良い。京響の緻密なアンサンブルも際立った。モーツァルトが書いた管楽器の魅力的な動きも、はっきり聞き取ることができる。

ブルックナーは、一転して井上も神妙な面持ちとなる。遅いテンポで、思い入れを隠さず存分に歌い上げたブルックナーである。例えば第1楽章の第2主題など、一息でさらりと歌うのもよいが、こうしたたっぷりとした、やや粘り気のある演奏も好ましい。細部に拘泥せず、全体の分厚い響きを聴かせるスタイルが、ブルックナーによく合っていた。

京響はいくらか不安定なところもあったが、最後まで全身全霊を傾けている。弦の発音など、かなり美しいところが多かった。木管もよく整っている。聴く度に充実してゆく様子が、京都市民にとってはとても嬉しい。