今年N響の首席客演指揮者に就任したプレヴィンが、京都へ来た。私事ながら、週末3日、全日コンサートホールに運んだ中日である。
プレヴィンは、2年前だったか、前回の来日の折、東京へ出向いてラフマニノフを聴いた。上半身が随分肥えて、指揮台の行き来がやっとという有様で、随分老けたという印象が強く、もう来日は最後かなどと思ったものだった。
今回は、立ち居は危なっかしさを増して、音楽自体もいよいよ老いたということを痛感せずにはいられなかった。
曲目は、モーツァルトの38・39・40番。往時のスウィトナーを思い出させる選曲である。アプローチは極めて温雅な、フレーズの終わりを弱めるなど昔風のものである。私はこういうモーツァルトで育ったし、こういうモーツァルトが好きである。
ただ今回はテンポばかり遅く、音楽がまるで生き生きした表情を持たない。リズムに弾力が無い。それでいて、リピートをすべて実行するのだから、すっかり退屈してしまった。確かに管楽器のバランスなど、いくらか面白いところもあったが、これを中庸などと言うのは、あまりに過大な評価という思いがする。
プレヴィンの老化はともかく、N響のぞんざいな演奏に私は不快感を覚える。指揮にはよく従っていたが、決して「献身的」ではない。切り詰められた編成であるのに、vnを中心に甚だ雑なアンサンブルを聴かせる。ホルンのピッチも不安定である。ティンパニの打ち込みは、突出して安っぽい。
まるでプロ意識に欠けた、言葉を選ばないならば、手抜きの演奏であった。
このオーケストラの根本的な問題を目の当たりにした。プレヴィンも、晩節を汚さぬほうがよい。
プレヴィンは、2年前だったか、前回の来日の折、東京へ出向いてラフマニノフを聴いた。上半身が随分肥えて、指揮台の行き来がやっとという有様で、随分老けたという印象が強く、もう来日は最後かなどと思ったものだった。
今回は、立ち居は危なっかしさを増して、音楽自体もいよいよ老いたということを痛感せずにはいられなかった。
曲目は、モーツァルトの38・39・40番。往時のスウィトナーを思い出させる選曲である。アプローチは極めて温雅な、フレーズの終わりを弱めるなど昔風のものである。私はこういうモーツァルトで育ったし、こういうモーツァルトが好きである。
ただ今回はテンポばかり遅く、音楽がまるで生き生きした表情を持たない。リズムに弾力が無い。それでいて、リピートをすべて実行するのだから、すっかり退屈してしまった。確かに管楽器のバランスなど、いくらか面白いところもあったが、これを中庸などと言うのは、あまりに過大な評価という思いがする。
プレヴィンの老化はともかく、N響のぞんざいな演奏に私は不快感を覚える。指揮にはよく従っていたが、決して「献身的」ではない。切り詰められた編成であるのに、vnを中心に甚だ雑なアンサンブルを聴かせる。ホルンのピッチも不安定である。ティンパニの打ち込みは、突出して安っぽい。
まるでプロ意識に欠けた、言葉を選ばないならば、手抜きの演奏であった。
このオーケストラの根本的な問題を目の当たりにした。プレヴィンも、晩節を汚さぬほうがよい。