アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

10/31 プレヴィン/NHK交響楽団京都公演

2009-11-02 14:23:55 | Weblog
今年N響の首席客演指揮者に就任したプレヴィンが、京都へ来た。私事ながら、週末3日、全日コンサートホールに運んだ中日である。

プレヴィンは、2年前だったか、前回の来日の折、東京へ出向いてラフマニノフを聴いた。上半身が随分肥えて、指揮台の行き来がやっとという有様で、随分老けたという印象が強く、もう来日は最後かなどと思ったものだった。

今回は、立ち居は危なっかしさを増して、音楽自体もいよいよ老いたということを痛感せずにはいられなかった。

曲目は、モーツァルトの38・39・40番。往時のスウィトナーを思い出させる選曲である。アプローチは極めて温雅な、フレーズの終わりを弱めるなど昔風のものである。私はこういうモーツァルトで育ったし、こういうモーツァルトが好きである。
ただ今回はテンポばかり遅く、音楽がまるで生き生きした表情を持たない。リズムに弾力が無い。それでいて、リピートをすべて実行するのだから、すっかり退屈してしまった。確かに管楽器のバランスなど、いくらか面白いところもあったが、これを中庸などと言うのは、あまりに過大な評価という思いがする。

プレヴィンの老化はともかく、N響のぞんざいな演奏に私は不快感を覚える。指揮にはよく従っていたが、決して「献身的」ではない。切り詰められた編成であるのに、vnを中心に甚だ雑なアンサンブルを聴かせる。ホルンのピッチも不安定である。ティンパニの打ち込みは、突出して安っぽい。
まるでプロ意識に欠けた、言葉を選ばないならば、手抜きの演奏であった。

このオーケストラの根本的な問題を目の当たりにした。プレヴィンも、晩節を汚さぬほうがよい。

音楽批評について

2009-06-03 01:56:47 | Weblog
昨日、京大人文研にて「岡田暁生×片山杜秀 21世紀の音楽批評を考える」という、この斯界の寵児ともいうべき人気の-けれども私にとってはとても遠いところにいる-両氏の対談を聞いた。その批判的受容の一端として、今一度自身の批判に対する姿勢について考えておこうと思う。


批評というものは、音楽に限らず、究極的には個人の好みに還元されざるを得ないというのが、私の長い間の考えである。たとえ、10億人がモーツァルトを賞賛しようとも、私に少しも良さが感じられなければ、私にとってはモーツァルトは名曲ではない。
これは些か極端な例にしても、批判することさえ憚られるような名盤-カザルスのバッハだとか、フルトヴェングラーの第九だとか-を、どれだけ権威ある評論家が絶賛しても、どうしても良さは分からないと主張する人があるだろう。
それを説得して首を立てに振らせようとするのは容易ではないし、そもそも必要のないことだ。

評論家、批評家の仕事は、読者を己の感性の前にひざまずかせることではない。単に一人の人間の意見・感想の類を披瀝しているに過ぎない。突き詰めれば、それ以上でもそれ以下でもないことだ。
けれども、語弊を恐れずに言うなら、それがいつでも「感性の押し売り」とでも言うべき側面を胚胎していることは、看過してはなるまい。

そういう意識を持ちながら、如何に客観的に対象に迫り、そこに生まれた主観を言語化するかという矛盾に、私はいつでも苛まれる。ただやはり、私にとっての好悪は避け難く生じてくるのであって、それを偽らず記述するのが、実は対象に対しての客観的で真摯な姿勢につながると思っている。

その結果、読者が自身の意と反したとして不快になろうとも、それは批評家の責任とすべきでないだろう。(もちろん、これは表現に左右されうる問題だけれども)なぜなら、その読者個人の感性同様、批評家にも一個の感性があるのだから。それを滅し去る必要はないし、出来もしないことだ。この相違を受け入れられない人は、批評など読まないほうがいい。
私は自分の批評を客観的たらしめようとすることはないし、ましてや普遍性を持たせようなどとは思わない。客観的な事実に因りながら、生じた主観的な私の内的真実を述べるまでである。


すると、批評・評論の価値は、個人の感性の披瀝が、読者にとって何らかの発見、他者との相違を認めた時に生まれるある種の感動、につながることではないかと、私は思っている。

いつでも批評とは私的なものでしか有り得ないというのが、以上から推察頂けるだろう、私の認識の根本である。岡田・片山両氏は、その私的なるものを何とか表出させまいとするスタンスのようだが、繰り返しになるけれども、不可能なことだろうと思う。


その意味で、私にとってお手本は、やはり吉田秀和さんである。氏の批評は、かなり思い切ったことを書いているのに、不思議に極端な印象を受けない。それは、吉田さんの、例えば歴史意識など、対象の彼方をも見抜く鋭い眼差しが働いているからだろう。こうして批評は、独りよがりの呟きとはならない。
批評が私的なものの披瀝であることを、少しも隠そうとしないのは宇野功芳氏だが、宇野さんは思い余ってというべきか、しばしば読み手の領域を侵しかねない表現があって、私は疑問を感じることがある。


以上、ごく端的にのみ述べたが、これが私の根本にある、批評姿勢である。