アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

グールドのベートーヴェン

2009-02-16 02:23:16 | CD評
先日、久しくお付き合い願っている在京の年上の畏友から、親切にも幾枚かのCDを頂戴した。

さすがに私の趣味をよくご存知で、自分ではつい購入を逡巡してしまいがちなレコードを送って下さる。

今回は、アントニーニ/バーゼル室内管のベートーヴェンがメインであったけれども(これも、また取り上げることがあるだろう)、グレン・グールドが若き日に残した、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(SONY)が含まれていた。

私はグールドという人の才覚を認めるに吝かでないが、いつもある偏見から離れて聴くことが、出来ずにいた。
つい先日もあの全く個性的なモーツァルトを、酷評したばかりである。彼の主要な演奏であるバッハ-バッハの鍵盤作品を、些かの退屈も無しに聴き通すことは、そもそも私にとって容易ならざる行為である。第一、私はピアノ独奏というものを聴くのが、甚だ苦手であるという告白をしておかねばならない。

グールドの録音で私が随分感心したのは、最後の録音となったリヒャルト・シュトラウスのソナタ、またシュヴァルツコップにつけた歌曲の伴奏。そうして-これも最晩年の遺産だけれども-、ワーグナーのジークフリート牧歌を彼が指揮した、ワーグナー・アルバムである。
これらは本当に美しい音楽の、美しい演奏で、グールドというピアニストの、多分にロマンティックな性格が、存分に発揮された名演であり、もっと聴かれてよいように思う。

ところでこれは、ベートーヴェンの話。

私はベートーヴェンのピアノ協奏曲では、3番を殆ど偏愛している。1・2番は寧ろハイドン的な手法の延長に立って、ベートーヴェンは彼自身のスタイルを確立しつつある。4番は実に不思議な音楽で、第2楽章などは無調の世界をふと感じさせるようだ。5番は、第2楽章の静謐さに惹かれつつも、あの構えたようなモノモノシサは、聴いていて疲れを催さずにはいられない。

3番は、開始こそブラームスのような重々しさを漂わせるが、一番モーツァルト的な優美さを感じさせ、コケティッシュと言いたいような旋律美に溢れている。

では、グールドはこの曲をどう弾いたか?伴奏は、これもまだ溌剌としていた、バーンスタイン指揮のコロンビア交響楽団である。

結論を急げば-また、この演奏はそうせずにはおかない-、かつて聴いたあらゆる名演奏も霞む出来栄えを、グールドは示してくれた。私はいっぺんにこの天才に惹かれ、まずこの感動を記したいがためにブログ立ち上げを決意したのである。

まず、テンポ設定に些かの無理も無く、全体の統一を図れている。これは後年のグールドには求め難いものであろう。バーンスタインも、瑞々しい伴奏をつけている。第1楽章は、第2主題の品の良さ-この上品さは、全集すべてに共通する-、そうして何より、カデンツァの素晴らしさを特筆すべきである。テーマの回想が、何と慈しみ深くなされていることか!聴き手の感傷を、誘わずにはおかない。
第2楽章も同様の、実に孤独なモノローグであるけれども、それがモーツァルトのソナタで感じさせられたような我が儘ではない。少しの恣意性も無い。ため息をついて、私たちはこの美しい歌に耳を傾けるより他無い。
終楽章は、例えばリリー・クラウスが示した、啖呵をきってゆくような、闊達自在な展開を私は好む。そこへゆくと、グールドはここでもとてもしなやかに、ベートーヴェンが書いた目眩く曲想の変化を紡いでゆく。これにはバーンスタインも実に巧みに付けていて、浮かび上がったクラリネットが美しい。

今まで、自明のことのようでいて、少しも分かっていやしなかったグールドというピアニストの性格が、私には突然理解出来たような気がした。彼はエキセントリックな演奏を旨とするよりは、もっとナイーブで内省的な音楽をする人であったのだ。
こんなこと、彼の性癖からしても、誰にも分かりきったことなのかも知れないけれど、少なくとも私には、漸く演奏からはっきりと感じられたのであった。

こうなると、集中的にグールドを聴きたくなるのが私の悪癖である。カラヤンが伴奏したものとの聴き比べも、一興であろう。あるいはこの分だと、ブラームスの独奏曲も期待出来そうだ-と、調子づく。

即ち凡百の評論も、それはしばしば偏見の温床になりがちである。だから、これから私があれこれとひとりごちて認めてゆくくさぐさも、所詮はある一人の人間の偏見に満ちた評価に過ぎない。問題は、それを基にあるレコードを知り、自身で聴いて何を感ずるかであって、そうして初めて主体的な音楽聴取も成立し得るのであろう。
今日は、グールドのベートーヴェンを、読者諸兄の御参考に供します。

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