アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

京都市芸大学院オペラ カプレーティ家とモンテッキ家

2009-02-24 16:07:03 | 演奏会評
響/都プロジェクト京芸ルネッサンス2008コンサートシリーズ
大学院第24回オペラ公演

日時:2009/2/21(土) 午後3時開演(午後2時開場)

曲目:G.プッチーニ/『ラ・ボエーム』より第3幕
   V.ベッリーニ作曲『カプレーティ家とモンテッキ家』全3幕

場所:京都市立芸術大学 講堂


まず、プッチーニは前座ということになるのだろうけれど、そういう具合には済ませられないような天才の筆の冴えが、ボエームの第3幕には、ある。有名な、二組のアベックそれぞれに与えられた、全く別々の音楽。プッチーニという人は、とかく甘美なメロディーメーカーとのみされがちであるけれど、かかる巧妙な音楽をもまた、書き得た作曲家であった。
演奏は、手堅くまとめたという印象で、―悪く言うと―小さくまとまりすぎた。もっと、思い切って感情的にやってもいい音楽だろうと、思う。


後半のカプレーティ家とモンテッキ家は、私などは、なかなか最後まで同じ集中力を維持し難いベッリーニの(この時代の)オペラにあって、「ノルマ」「清教徒」など、カラスが得意にした有名なものより、ずっと面白く聴く作品だ。例えば、ロメオが自らの正体を明かした後、ベッリーニは、大方の予想に反して、実に静謐な音楽を書いた。このあたりに、私はこの作曲家の才気を感じずにはいられない。
ベッリーニは、管弦楽部分が脆弱だとしばしば言われるけれども、それでもその前後のオペラに比べて、かなり充実した音楽を、オーケストラに与えている。よって、名歌手を配して、圧倒的な声の魅力で押し切るというだけでは、不満が残る。

その点を考慮すれば、ボエーム同様、指揮者は些かコンパクトに仕上げ過ぎたと言える。もっと振幅を大きくとって、柄の大きい表現をした方が、私はいいように思う。どちらかというと、ロッシーニの軽快さで以って全体が貫かれていて、劇的な効果は上がっていなかった。
無論、オーケストラがそこまでの表現をするためには、歌い手の側にもそれに負けない力感が求められようが、こちらもどちらかと言えばリリコの声質が中心で、そもそも私の言ったような音楽を、志向していなかったのかもしれない。

―随分私は自分の好みを振りかざして、悪口を言い過ぎてしまった。

私には、演出が非常に好ましかった。様々な制約があったろうが、実に効果的に舞台を利用していた。昨今の、作品を隷属させるような傲慢な演出家とは、一線を画する。
キャストには、それぞれ言い得ることがあるだろうが、とにかく全員一所懸命なのである。それで、いい。私は、心地よい充実感を持って、会場を後にしたことであった。
敢えて言うなら、一幕のロメオ役は低音がいかにも辛そうだったし、ロレンツォ役は、声は立派だが、―ちょうど往年のジョージ・ロンドンのように―一本調子に過ぎる。ロメオ、ジュリエッタともニ幕の方が整っていた。
ただ、これは日本のオペラ界すべてに言えることだけれども、「芝居」の稽古は一層充実させられるべきであろう。
歌も芝居も、こういうオペラは、言うなれば歌舞伎に於ける「世話物」の世界であるから、もっと思い切って、あざといくらいにやった方がいい。

余談ながら、当日は立ち見や通路への座り見がひしめく大盛況であった。終了後、カンパの要請があって、私も微力ながら貧者の一灯を燈したような次第であるが、例えば1000円なり500円なりでもとって、京都会館あたりで公演した方がいいのではないか。毎年クオリティーが上がってきているようなので、こういった期待も持ちたいと思う。


最後に、両曲の私の推薦盤を記しておこう。
ボエームは、テバルディが若き日に残した、エレーデ指揮の古いデッカ録音を。セラフィンとの新盤にはない、瑞々しさがある。ただ、ビョルリンクとロス・アンヘレスが歌ったビーチャムのEMI盤、これとの兄弟が、私にはつけ難い。
カプレーティ家とモンテッキ家は、ベイカー・シルズ・ゲッダというキャスティングの面白さ、加うるに指揮のパターネのダイナミックな音楽作りを評価して、このEMI盤を。

ベネズエラからの新風

2009-02-21 01:43:21 | 演奏会評
NHK芸術劇場で、いま話題の、ドゥダメル/シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラの来日公演が放映された。

ベネズエラは、国家的情操教育プログラムの一貫で、貧民街などの子供たちにも楽器を持たせ、音楽する喜びを与えた。このオーケストラは、そうして生まれたのだそうで、映画「ミュージック・オブ・ハーツ」を思い出させる。

そんな事情もあり、また若手の精鋭指揮者ドゥダメルを迎えて、昨年から注目を集めて来たのであった。
けれども私は、持ち前のあまのじゃく精神というか、少なからず偏見を持ってこれを眺めていたことを、告白しなければならない。


今日の放送を、家人の妨害によって、途中から見ることを余儀なくされたのであったが、もう驚きと感動で、すっかり満たされてしまった。

曲目は、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲 チャイコフスキー:交響曲第5番。私はチャイコフスキーの途中から見た。

まず、舞台上の人の多さに驚く。マーラーでも始まるのかしらという、巨大な編成である。顔ぶれは、確かに若いようだ。
指揮のドゥダメルは、彼らを煽りに煽って、けれども、統率してゆく。
というのも、彼らは実に自由で、演奏中に私語したり、演奏をやめたり、隣の奏者を気にしていたりするのが、ハッキリ画面に映されていた。だがしかし、実に一所懸命に、指揮者に食らいついてゆく。結果として音楽は、ただならぬ熱気を帯びて来るのであった。

チャイコフスキーの5番には些か食傷気味であったけれども、私はこれを聴いていて、抑え難い興奮を覚えた。とにかくスリリングとまで言えるほどの激しい音楽表現と、純粋に音楽を楽しむ精神とが、自然に併存しているのである。フィナーレでは、思わず笑みがこぼれて来るほど、彼らの演奏は、素直な、言葉通り、ムジツィーレンに満ち溢れていた。

それはアンコールのバーンスタインやヒナステラでいよいよ爆発し、吹奏楽部の学生のような盛り上がりを見せてくれた。あんまり彼らが楽しそうなので、余程の臍曲がりでなければ、一緒になって手拍子でもしたくなったろう。

「音楽」とはまさにこういうことだ、というのを彼らは体現していた。

もちろん指揮者もオーケストラも、かなり勢い任せに終始していて、この曲だから成功したという側面を、私は否定するつもりはない。けれども、チャイコフスキーはとても素晴らしかったので、いま、私は彼らを賞賛する。

ただ、彼らはあくまでもパフォーマンスではなくて、また特別な成立事情ではなくて、真剣な芸で勝負しているので、些か会場に異質な盛り上がり方もあったようだ。尤も、あのアンコールをして、何をか謂わんや、であろう。

ともかく、マンネリズムか、新奇さを狙ったような軽々しい演奏が増える今の音楽界に、非常に快い新風が吹いて来たことは疑い得ない。余り商業戦略に乗らずに、初心を忘れずいてもらいたいと、思う。

余談ながら、美人奏者の多さが目についた。聞けば、かの国は美人養成の国家プロジェクトもあるのだそう。ある種の独裁体制から生まれる利点を、考えさせられもしたことであった。

「逢びき」の音楽 アイリーン・ジョイスのラフマニノフ

2009-02-19 01:53:05 | CD評
映画のオールド・ファンにとっては必ず、ラフマニノフはあるイギリス映画と結び付けて思い出されるだろう-デヴィット・リーンの「逢びき」である。シリア・ジョンスンとトレヴァー・ハワード、戦後イギリス映画の隆盛を先駆けた名画。
ストーリーは、貞淑な人妻のひと時のメロドラマ、というありふれたものだ。けれども、彼女の回想、自身の語りを通じて展開されるこの映画は、私に映画がどれほど小説的な芸術であるかを、はっきりと分からせてくれた。

けれども、今はこれ以上、映画の話はしない。

この映画全編に亘って-ちょうどヴィスコンティの「ヴェニスに死す」のように-ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れる。そうして、両者は共に、名高いものとなった。

今で言うサントラということになろうが、劇中に流された演奏は、アイリーン・ジョイス女史によるもの。映画のあと、エーリヒ・ラインスドルフ指揮のロンドンpoと録音したレコードの復刻CDが、かつて発売されていた。

私はこれを漸く入手し、聴いた。

はじめに、アイリーン・ジョイスという女流は、オーストラリアはタスマニアの生まれで、女優からピアニストに転向したのだったか、とにかく容貌に相応の、経歴の持ち主である。

だから、華々しい技巧を発揮するヴィルトゥオーゾだとか、鍵盤が割れんばかりに豪壮な、ロシア系ピアニストの弾くラフマニノフとは、しぜんに趣を異にする。
決して腕が立つというのではないけれど、全体に実に丁寧に弾いているという印象が、ある。本邦のある女流ピアニストのように、無理をして強奏するような不自然さは少しもなくて、寧ろ終始中弱音くらいで弾くような、しっとりとした味わいを生み出し得た。

この曲の理想的な名演というのは、少ない。最近私はアール・ワイルドとヤッシャ・ホーレンシュタインが組んだ全集(CHANDOS)を聴いて、凄まじい勢いで弾きまくるピアニストと、濃厚の限りを尽くそうとする指揮者との、極めてスリリングな竸奏に惹かれた。
あるいはまた、モイセイヴィチ/サージェントのライヴ録音(BBC)も、テンポは流れるように速いが弱音を効果的に活かした演奏である。

むろん、アイリーン・ジョイスの演奏はそういうのとも違って、まるで掌中の珠を転がすような、曲に対する愛情を明確に感じさせる。けれどもそれは、決して赤裸々な、聴き手が恥ずかしくなるようなオーヴァーなものではなくて、ある慎みの深さを感じさせるところに、私はこの演奏の不思議な魅力を覚える。

これにはラインスドルフの伴奏もサポート著しく、いかにもザッハリッヒで職人仕事に終始しがちな彼にあっては珍しく、抒情的なしなやかさを生み出している。木管楽器の扱いも巧みで、私が聴いた中では、彼の一番美しい仕事のひとつに、これを数えたい。
伴奏が大言壮語しては、ジョイスの魅力は引き立たなかったろう。「協奏」の魅力ここにあり。

1946年の録音だけれど、DUTTONのマスタリングはいつもながらに聴きやすい。カップリングでは、プレヴィターリ指揮のメンデルスゾーンの1番コンチェルトを面白く聴いた。てらいの無い、率直な快演である。


なるほど、あの映画にはこの演奏が良かったろうと、改めて感心する。「忘れじの女流ピアニストたち」などという企画CDが、以前山野楽器から出ていたが、随分忘れるべからざる名女流が多いようだ。

グールドのベートーヴェン

2009-02-16 02:23:16 | CD評
先日、久しくお付き合い願っている在京の年上の畏友から、親切にも幾枚かのCDを頂戴した。

さすがに私の趣味をよくご存知で、自分ではつい購入を逡巡してしまいがちなレコードを送って下さる。

今回は、アントニーニ/バーゼル室内管のベートーヴェンがメインであったけれども(これも、また取り上げることがあるだろう)、グレン・グールドが若き日に残した、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(SONY)が含まれていた。

私はグールドという人の才覚を認めるに吝かでないが、いつもある偏見から離れて聴くことが、出来ずにいた。
つい先日もあの全く個性的なモーツァルトを、酷評したばかりである。彼の主要な演奏であるバッハ-バッハの鍵盤作品を、些かの退屈も無しに聴き通すことは、そもそも私にとって容易ならざる行為である。第一、私はピアノ独奏というものを聴くのが、甚だ苦手であるという告白をしておかねばならない。

グールドの録音で私が随分感心したのは、最後の録音となったリヒャルト・シュトラウスのソナタ、またシュヴァルツコップにつけた歌曲の伴奏。そうして-これも最晩年の遺産だけれども-、ワーグナーのジークフリート牧歌を彼が指揮した、ワーグナー・アルバムである。
これらは本当に美しい音楽の、美しい演奏で、グールドというピアニストの、多分にロマンティックな性格が、存分に発揮された名演であり、もっと聴かれてよいように思う。

ところでこれは、ベートーヴェンの話。

私はベートーヴェンのピアノ協奏曲では、3番を殆ど偏愛している。1・2番は寧ろハイドン的な手法の延長に立って、ベートーヴェンは彼自身のスタイルを確立しつつある。4番は実に不思議な音楽で、第2楽章などは無調の世界をふと感じさせるようだ。5番は、第2楽章の静謐さに惹かれつつも、あの構えたようなモノモノシサは、聴いていて疲れを催さずにはいられない。

3番は、開始こそブラームスのような重々しさを漂わせるが、一番モーツァルト的な優美さを感じさせ、コケティッシュと言いたいような旋律美に溢れている。

では、グールドはこの曲をどう弾いたか?伴奏は、これもまだ溌剌としていた、バーンスタイン指揮のコロンビア交響楽団である。

結論を急げば-また、この演奏はそうせずにはおかない-、かつて聴いたあらゆる名演奏も霞む出来栄えを、グールドは示してくれた。私はいっぺんにこの天才に惹かれ、まずこの感動を記したいがためにブログ立ち上げを決意したのである。

まず、テンポ設定に些かの無理も無く、全体の統一を図れている。これは後年のグールドには求め難いものであろう。バーンスタインも、瑞々しい伴奏をつけている。第1楽章は、第2主題の品の良さ-この上品さは、全集すべてに共通する-、そうして何より、カデンツァの素晴らしさを特筆すべきである。テーマの回想が、何と慈しみ深くなされていることか!聴き手の感傷を、誘わずにはおかない。
第2楽章も同様の、実に孤独なモノローグであるけれども、それがモーツァルトのソナタで感じさせられたような我が儘ではない。少しの恣意性も無い。ため息をついて、私たちはこの美しい歌に耳を傾けるより他無い。
終楽章は、例えばリリー・クラウスが示した、啖呵をきってゆくような、闊達自在な展開を私は好む。そこへゆくと、グールドはここでもとてもしなやかに、ベートーヴェンが書いた目眩く曲想の変化を紡いでゆく。これにはバーンスタインも実に巧みに付けていて、浮かび上がったクラリネットが美しい。

今まで、自明のことのようでいて、少しも分かっていやしなかったグールドというピアニストの性格が、私には突然理解出来たような気がした。彼はエキセントリックな演奏を旨とするよりは、もっとナイーブで内省的な音楽をする人であったのだ。
こんなこと、彼の性癖からしても、誰にも分かりきったことなのかも知れないけれど、少なくとも私には、漸く演奏からはっきりと感じられたのであった。

こうなると、集中的にグールドを聴きたくなるのが私の悪癖である。カラヤンが伴奏したものとの聴き比べも、一興であろう。あるいはこの分だと、ブラームスの独奏曲も期待出来そうだ-と、調子づく。

即ち凡百の評論も、それはしばしば偏見の温床になりがちである。だから、これから私があれこれとひとりごちて認めてゆくくさぐさも、所詮はある一人の人間の偏見に満ちた評価に過ぎない。問題は、それを基にあるレコードを知り、自身で聴いて何を感ずるかであって、そうして初めて主体的な音楽聴取も成立し得るのであろう。
今日は、グールドのベートーヴェンを、読者諸兄の御参考に供します。