今年の洗礼志願者の方たちはかわいそうですね。
これも、神様が今年の洗礼志願者に対しての試しなのかもしれませんね。
でも、もし、なんらかの事があって死んだとしても洗礼を受けた者として扱われますのでご心配なく。
洗礼は、洗礼志願者にとって、うきうきするもの
憧れ、待ち遠しいものでしょう。
でも、そんなものは3か月もすればぶっ飛びます。
洗礼後は、よりいっそう神の恵みを受ける一方、
敵からの攻撃も受けるのです。
ゆえに、洗礼前から比べ、罪の重みがわかり、悪魔の誘惑がわかり、心の闇がわかり、祈りの意味や大切さがわかり、自分の弱さがわかり、そして神の愛、慈しみがわかるんです。
時には放蕩息子になりさがり、神を忘れるふりをしたり、反抗したりして一時期を過ごしました。
でも、ある時、神様の囁きを感じるんですよ
「ヨハネよ、もういいだろう。戻って来なさい」
10年の放蕩息子の歳月を経て、私は神様の元にもどりました。
神様は、その後、怒濤の恵みを私に与えてくださいましたが、
ある時、その大半を取っていかれました。
そして、病気を与えてくださいました。
すべての物は神のものであり、神の恵みです。
神様は、与えるのも取り去るのも自由なんです。
洗礼を受けたからと言って、天国に行ける切符はいただきましたが、たどり着ける保証はありません。
洗礼を受けたからと言って幸せに暮らせる保証はありません。
洗礼は、通過点にすぎませんから。
教会に通っている人のなかで、20年も30年も通っている人がいます。
それでいて、カトリック教会について信者のごとく
語っている人がいるんです。
こういう人はキリストの味方であるのでしょうか?
求道者なら別ですが、門を通らないものは盗っ人です。
私は、そういう人とは仲良くなれません。
信者になることは、キリストの召しだし、選びと言われますが、選ばれたことに対する答えは、自分で出さなければなりません。
20、30年も通っているのに洗礼を受けないとなると、単なる教養として通っているだけで、信仰はないと感じられてもしかたありません。
と、いう訳でいろいろ書きましたが、教会の一員になってこんなはずじゃなかったと思わないように最後に書いておきたいことがあります。
カトリック教会は、聖なるものの集まりじゃありません。確かに、敬虔な方もいらっしゃいます。
でも、普通の人と何らかわりないです。
だから、その点は間違えないようにしてほしいですね。
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