John note~ヨハネのひとりごと

のんびりと気楽に書いてます。訪問し頂いた方に感謝。不定期。
書きたい時がきたら集中的に書くかもしれません。

最も小さい霊魂の会17、18、19

2019-11-15 23:05:06 | 最も小さい霊魂の会 再び投稿します。

完全な愛、完全なるイエズスとの一致に達するには、精神と言葉と心の童貞的精神を保ち、
①考えの慎み ②口の慎み ③目の慎みを実行せねばならぬ。


「独身の人はどうして主に嘉せられようかと主のことを思い、・・・・結婚しない女と処女とは身体と心とを聖とするために主のことを思い・・・」


この聖パウロの言葉によれば、童貞であることは心が神と婚姻し、神のみを愛し、神の事だけ考え、神への愛と一致に反する事をすべて遠ざける事である。その純粋な童貞性を精神と舌と目において実行するのである。


 


イエズス様


「あなたは祈る時、沈黙に包まれる必要を感ずる。そのように、私と一致するには深い沈黙が精神の最奥の実存を支配する必要がある。どんなちょっとした騒がしさも祈りを妨げるように、あなたの気をそらすどんな些細なことも一致を妨げる。常に全くの童貞的純粋さが必要である!」


 


「愛に反するものを遠ざけるばかりでなく、神に自分を完全に捧げるのに、妨げとなるものは、全て除かなければならない。」


 


「私の心は、あなたの愛とともにあなたのあらゆる考えを渇望している。・・・・私はあなたの全て、最も小さい事まで良くしてあげるから、あなたの考えを全部私に向けなさい。あなたはただ私の事だけを考えていなければならない! 他の事を考えれば、私の頭をさす茨のとげのように私を苦しめるだろう!」


 


「茨の冠をかぶったイエズスをごらん! あなたもイエズスにならって、心にいらない考えが一つも入らないように頑張りなさい。そうすれば愛のために妨げが無くなり、多くの霊魂が救われるだろう。」


 


「頭に茨の冠をかぶせられた瞬間から、私はもう二度とそれを脱ごうとしなかった。あなたも私と同じようにしなければならない。あなたの唯一の考えは、イエズスを愛する事でなければならない。


どんな時、茨の冠を脱いでしまうかわかりますか? それは無益な考えを自由に霊魂に入れて、外に追い出さない時だ。」


 


「コンソラータ、あなたが望まないのに、自由に霊魂に入ってくる考えは、不忠実のしるしとならない。」
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現代は情報社会だ。

いらない情報が氾濫し、目、耳、から入って来てしまう。

私達は、それらを識別し切り捨てていく努力をする必要がある。

意外に考えの慎みは難しいもの。



多くの人は、なにかしら考えているからだ。


修道者でもない一般人がどうやったら、心の沈黙を保てるのだろうか?



保てるというより自分でつくるしかない。


ただただ、物事を善意に考え、祈るほかない。


だから、イエズス様はコンソラータに愛の祈りを絶えず祈れとおっしゃったのだと思う。


それは、いらない考えから身を守る、絶対的な盾だからだと思う。

最も小さい霊魂の会 18

コンソラータ、あなたが望まないのに、自由に霊魂に入ってくる考えは、不忠実のしるしとならない。」

 

現代のマス・コミ時代において、私たちの霊魂は、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、ポスター、ネオンサインなどによって、無益な考え、つまらない空想の洪水に取り囲まれている。

完全な愛に達するため、それらを節制する事はもちろん、たびたび犠牲にする必要がある。

度を過ごすことによって、内部的外部的沈黙が難しくなるからである。

生きている限り、完全に全ての無益な考えを遠ざける事は不可能である。しかし、神を愛するため、遠ざける努力をすることは、必要で、イエズスはこの弱い人間の努力だけを望み、それで満足しておられる。努力の多少に、愛の完成がかかっているのである。

 

イエズス様

 

「私はあなたを苦しめるこの激戦を取り除かない。この戦いは私に光栄をもたらし、多くの霊魂を勝ち得させるから。朝から晩まで霊魂に入り込んで、愛を妨げる無益な考えが、入り込もうとするたびごとに、『あなたと多くの霊魂のために!』と祈って、捧げなさい。

そうすればその考えを、多くの霊魂への恵みと祝福に変えよう。」

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私は、今、思う。
人を救うイエズス様に協力するとはどういうことなのか??・・・・を。
一言で言うと、聖なる人間になるよう努力しなければならない。
とは、言ってもすぐに聖人になれるわけではなく、何年も何年もかけて
聖人らしくなっていくと思う。
一つ一つの小さな勝利が積み重なって、だんだん信仰が固まっていくと思う。
私は、カトリック信者になってから、放蕩息子のような生活を送っていました。
しかしながら、神様の影はたえず私について回っていました。
罪深き生活をしていても、罪を犯すたびに自分が傷ついていました。
だからと言って、夜遊びをしていたとか、お酒を浴びるほど飲んでいたとか、
女遊びをしていたとかはないのです。
あくまでもカトリック者としての務めをしていなかったのです。
私は、10年以上告解をしていませんでした。
そして、2年前転機が訪れたのです。
たぶん、イエズス様が見るに見かねて、私をカルメルの茶色のスカプラリオの着衣式に連れて行って下さいました。
なぜか?
このままの生活をしていると、私は地獄行きだったのかもしれません。
これを境に私は変わりました。
それは、自分でもわかりました。
それからというもの、神様は溢れるほどの恵みを下さいました。
この恵みは、もらった者しかわかりません。
それは、目に見える恵みでした。そして、感じる恵みです。
詳しくは書くことは出来ませんが、それは奇跡に近いものです。


人は、聖なる者になろうと努力するにしたがって、気持ちが次第に変化していきます。
裁きが怖いから罪を減らそう、という思いから神様を苦しめたくないから罪を減らそうになります。
私は、神を愛します。という思いから、私は神を愛します、そして、人々にも神を愛させたい。になります。
そして、人々を救っているイエズス様に協力したい、という思いになります。
そのためには、まず、イエズス様とマリア様を愛する事を学び、自分を聖化していかなければなりません。
聖化の方法はいろいろあり、ミサ、祈り、犠牲、自分の欠点を直すこと。などなどあります。
聖書にも書いてあるように、地の塩となるように努めなければ、人にものをいうことは出来ません。
もし、司祭がいい事を説教したとしても、実行が伴っていなければ何の意味があるのでしょう。
自分が出来ない事を、人に言うことは出来ないのです。
自分が祈っていないのに、人に祈れとは言えません。
私は、いつも思っています。
多くの人が天国に入ってほしいと。
それは、今、生きているひとたちばかりではなく、煉獄の霊魂も含んでいます。
みんなが幸せになりますようにと願っています。



最も小さい霊魂の会 19

完全な愛に達する口の慎み》


 


イエズス様


「もうあなたの考えは、全部私のものだから、今度はあなたの言葉が全部ほしい。


あなたが全く私のものになるため、絶え間なく、沈黙をしてほしい。少しも恐れてはならない。私に信頼しなさい。」


 


「あなたはただ、私の事だけ考え、話しかけられない限り決して話さないでほしい。あなたが話しかけられたら私が返事を与えよう。あなたは自分の口から出る答えに驚いてはいけない。その答えを与えたのは私だから。」


 


「休憩時間の時は、会話が有害な方面に傾いていった時だけ話しなさい。そして会話の主題を変えなさい。」


 


「常に沈黙を守りなさい。必要なことすら最小限に慎みなさい。その代わり全ての人に微笑みで答えなさい。そしてその微笑みをいつも続けなさい。」


 


「あなたが二つの仕事のうち、どちらを選ぶか迷ったときは、より一人でいられる方、より沈黙を守れる方、より愛する事ができる方をいつも選びなさい。」


 


 


コンソラータは単純率直で、自分をも人をも、ごまかすことが出来なかった。


いつも自分が感じたことをそのまま表したので、何度も言いすぎたり、人と衝突したりして、痛悔と謙遜の材料となった。


あまりに恥じ痛悔するので、ある日、勇気づけるためにイエズスは仰せられた。


 


「本当に私に属して、私の所有である霊魂は、ちょうど酢や水と、正反対の油が溶け合わないように、真理にそむき、単純率直、従順と正反対のものに溶け合わなくなる。


悪魔が誘惑して愛徳にそむく考えを入れるのに成功しても、長くとどまることが出来ずに、すぐ逃げ出してしまうのはそのためだ。


だから恥じる事ばかりせず、こんな機会に、将来もっと注意深く警戒するよう自分を強めなさい。」


 


話しかけられなければ決して話さぬという誓いを断固として守り抜きなさい。


そうすれば、全ての欠点、慎みのない軽率な行いを避けることが出来るであろう。


そして確かにあなたの答えは常に私が望み、祝福するものとなろう。」

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口は、禍のもと・・・・ということわざがありますね。
昔の人はもとより、現代に生きている私たちだって、感じる時があると思います。
しかしながら、会話の流れでつい口がすべってしまったり、日頃の不満がついつい爆発して暴言を言ってしまうことは、よくある事とは言いませんがありますね。


神様は、人が生きている間に言ったことに対して問いただすと言われています。
これは、ちょっと怖いですね。
しかし、よく考えれば納得できます。
私たちが、日頃よく罪を犯す回数の多いのは、口によってです。
聖書では、口を制する事ができるならば聖人になれるとまで書いています。
しかし、口を制したものは一人もいないとも書いています。
口は、大きな罪は犯しにくいが、小さな罪を頻繁に犯します。
しかしながら、それを繰り返していると、やがて大きな罪に匹敵するような罪になるのです。
その一つの例は、いじめですね。
「バカ、アホ、死ね、」と一回くらいなら、冗談かと思うでしょう。
(本当は一回でもだめですが)
しかしながら、それを何十回と言い続け、言われた人がもしも自殺したとしたら
これはどうでしょうか?
これは、刃物で人を刺して殺したことと同じくらいの罪となると思うのです。
言葉が形のない剣となって、言われた人の心を突き刺したからです。


人間は、肉体だけで生きているのではありません。
魂と言うものがあり、魂と肉体を合わせて人間です。
他人の肉体を傷つけるだけが罪ではなく、他人の魂を傷つける事も罪なのです。


ゆえに、私たちは他人に対して、どういうことを言うのか、考えて話をしなければなりません。
そして、他人を傷つけないように配慮しなければなりません。
ゆえに、カトリック者として、聖体拝領は口で受けなければならないと言っている(これは私の事です)そのためなのです。
まず、最初に口を清めなければならないからです。


また、最も口での罪を犯すのをすくなくする方法を選ぶことも必要です。
それは、より一人でいる時間を増やすことです。

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さて、ヤフーブログの閉鎖に伴い重要なものだけを移行しています。
やはり、新規で見てくださっている方はいるわけでして、コンソラータにしても緑のスカプラリオにしても広めなければならないと感じています。
しかしながら、第一線は同志にお任せしております。

緑のスカプラリオは教会でも知らない方が多いのではないでしょうか?
また、コンソラータも最も小さい霊魂の会という本を読んでみたいと思ってももう本屋さんには売っておりませんで。
私は、知人の本をコピーさせてもらい読んだ次第です。

よく、罪を犯すと地獄に落ちるとかネットで書いてありますが、私はそれが大嫌いです。
多いのですが、神様を語るとき神様を怖い存在として、また審判者として語るのです。

だから、神様は多くの人に恐怖と誤解を与えて嫌われてしまうのです。
神様を知らないのに嫌われてしまうのです。

神様は三位一体。神様は愛ですが
永遠なる御父は正義
御子イエズス様は憐れみ
聖霊は霊
です。

私達を救うために地上に降りてきたのは憐れみであるイエズス様なのです。
イエズス様の愛を人々が知ったなら・・・・。
十字架にかかって死ぬことをもいとわなかった神様がそこにはいます。

神様がどういう存在なのか?
人に聞いてもわかりません。
自分で一歩一歩学んでいかなければ神様を知り、信仰を持つことはできません。

私は、聖書が教科書で聖人や神秘家の本は参考書だと思っています。
確かに聖書を個人的に解釈するのは危険だという人はいます。
しかし、聖人の本と併用して読めば、より多くの発見と理解ができます。

間違えたっていいじゃないですか?
それは、一つの解釈ですから。
間違いをその都度修正していけば良いと思うのです。

テレーズの幼子の信仰をより実践しやすくしたのがコンソラータです。
一つのかたちです。
人にはそれぞれ霊性というものがありますから、自分にあったものを選ぶとよいかと。

 






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