「女性には女性の考えがあり、女性の問題は女性が解決したい!」という考え方はある意味の気高さから来るものと捉えたいと思います。
しかし、女性の活躍促進政策によりある意味「できる女性」ばかりがクローズアップされる裏側で、そうでないとされた女性は、ある意味「いないもの」として扱われていることを垣間見ることがしばしばありました。
このような「いないもの」とされた女性は、「できる女性」とされた側からは自分達の平均値を下げる邪魔な存在と認識され、徹底的に無視の対象になっているようです。
「臭いものには蓋をする事」と、心理的には同じものを感じます。
基本的にこの構造は、男性社会と同じで、違うものは競うための競技の違い位の差しか私には感じられず、人間普遍のテーマのように感じます。
さて、「いないもの」として蓋をされた者は、どうすればよいでしょうか?
このような存在は、徐々に社会の底辺とみなされた生き方に誘導されていくでしょう。
現時点でバス運転士も社会的に観たら、底辺とされる職業の一つと認識されていると思います。
それでは「底辺とは、何ぞや?」という疑問が発生すると思いますが、私は「できるとされた人間が、出来ればやりたくないと思う職業や生き方」と捉えています。
要するに「できる」側の目線で決められる発想なのです。
さて、私は今の日本の現状ですが、ハッキリいって「発展途上国」に既に転落していると感じています。
むしろ、自ら好んで「発展途上国」になりたいと思っている感も否めませんし、日本の宿命を深く考えるとその様にすることが最適とすら思います。
国際的な出費のことを考えると、「発展途上国」でいたほうが有利な面もあることは近隣諸外国が証明していると感じます。
ただし私は、昨今の国際社会の要請で、今は「先進国」を演じているに過ぎないのが日本と感じています。
「いやいや、日本には高度技術力があり、最先端のテクノロジーに基づいたインフラが充分に整備されているではないか!?」という意見もあります。
しかし、これらの運用について外国にイニシアチブがあるとしたらいかがでしょうか?
一応自分名義の家や車でも、使用にあたっては常に第三者の許可と監視が必要な環境とでも云いましょうか。
日本は常に様々な物事を行うに当たり必須の資源を、海外に依存している宿命は今も昔もこれからも変わらないと考えます。
海外から一時的に投資のような受益的行為があっても、その行為のイニシアチブは常に海外にあり、胸先三寸で如何様にでもできると感じます。
「人工石油を日本人が開発した!」何て言うニュースが一時期飛び交いましたが、これも借金のカタや国際情勢の貸し借りにより、いずれ特許が海外に行くのではと懸念してます。
要するに、日本という国は自国だけで鎖国して国を発展させることは「宿命的に不可能」と捉えて考えることの方が現実的と感じます。
では、「日本は日本人がイニシアチブを取り行うことのできる産業はないのか?」という嘆きの様な声も聞こえてきそうですが、私は「ある!」とハッキリ回答したいと思います。
それが国内観光産業と健康福祉産業と考えています。
どれも、自前で目の前にある観光資源や人的資源で賄うことが可能な産業で、海外に資源を依存する度合いが極力少ない産業です。
この2つの産業で国の「底辺」を充分に固めることで、海外に依存するその他の産業とのバランスが取れると考えます。
もっと言えば「底辺」を固めることで、外国の胸先三寸の影響を緩和できると考えています。
「底辺」というワードで、味噌も糞も一緒にいれた蓋の中にチャンスが隠されていることもあるのです。
最後に、バス運転士の仕事は観光バスや介護送迎バスなど上記の2つの産業を含んだ、稀有な業種です。
また、収入の面でも女性が一人で暮らしていけるには充分な額を手にする事が可能と感じます。
上記の「いないもの」とされた女性のリベンジ対策として提案したいと思い、今まで女性運転士に言及してきただけです。
但し、女性には聖域と云える「テリトリー」に関する意識があり、よそ者が口を出すべきでないこともあるのかもしれません。
私は、今後は女性運転士に対する記事は書くつもりはありませんし、もしもご不快に感じたら深くお詫び申し上げます。
自分の人生は自分で納得したようにしか進めることができないのかもしれません。今後ともご健勝をお祈り申し上げます。
※ 女性の世界について安易に触れることについて、ある方から警告を受けました。ブログやXの中で触れている女性は全く関係ございませんので、ご安心ください。