文と外見

2006-01-18 21:11:46 | Weblog
 たまに梶井基次郎などを読み返す。「檸檬」なんて
のはいつ読んでもいいですな。

 しかしこれはいろんな方がネタにしていることでは
あるが、あのように繊細な文章を書き、優美な発想
のできる作家が、ナニユエあのような体育会ばりば
りの外見なのか。なんか、高校の柔道担当の体育
教師みたいなんだもの。「結核持ちの文学青年」と
は、あまりにもかけ離れていないか。

 当時の文学青年などというモノは、ほとんどすべ
て不良と同義語であったのだが、梶井基次郎もそ
の例に漏れず、かなり無茶をやったらしい。つーか、
本屋の棚に檸檬を置いて「爆弾だ」などという児戯
よりも、本人の方が爆弾に近かったという、なんか
いやなオチであります。

 外見と作品の距離ということに関しては、最近で
は村上春樹が有名でありますな。繊細な文章を書
く人間は、自動的に繊細な容貌をしているはずと即
断するのが人間の業。あんな、売れない関東の漫
才師のツッコミ役みたいな顔のオッサンが、「ノルウ
ェイの森」を書いたと思うのは少しいやである。

 もっとも中原中也の如く、「おお。いかにも夭折した
詩人であるな」と思わせる容貌の写真が残っている
人間もいるが、彼の親友たる大岡昇平によると、あの
オカマ帽をかぶった目の大きな美青年風の写真、あ
れは一生に一度のベストショットだったらしい。「本人
はシワの多いただのオッサン顔」だったというからや
やさびしい。

 考えてみれば、文学者の写真というのは「この一枚」
というのしか出てこない場合が多い。漱石しかり鴎外し
かり。宮沢賢治もそうだし、ずっと時代がくだって太宰治
もそんなに写真の種類があるわけではない。

 文章と外見を安易にリンクさせて考えるのも愚かだが、
たった数枚の写真のみで外見を決め付けるというのも
また愚かなのだろう。疑う者はキャバ嬢を見よ。キャバ
嬢が名刺や看板、雑誌に載せるために使われるベスト
ショットと、実際に会った印象との格差。村上春樹も、実
際に会って話をしたら小説そのままのダンディなおっさん
かもしれない。