森田宏幸のブログ

Morita Hiroyukiの自己宣伝のためのblog アニメーション作画・演出・研究 「ぼくらの」監督

スタッフの起承転結 最終回

2006年12月03日 06時23分47秒 | 監督日記
(スタッフの起承転結 その10のつづき)
「ムタゼリー」は、宮崎さんが私の「承」の仕事を手伝ってくれたようなものだったと思う。たとえ私が、猫芸のシーンなど、自分のオリジナルを組み入れることがあっても、所詮は作風自体に大きな変化を与えたり(「転」)、主張を変えたりするもの(「結」)ではなかった。だから、私の役割はあくまで「承」だった。

 そこを踏まえた上で、私はいったい何が言いたいのか? 私もつい探り探り長々と書いてしまったので論点を整理しながら、まとめる方向で話を進める。
 始まりは原作とアニメーションの関係の話だった。この二者のあまりに微妙な関係の謎を解く鍵は、原作者や企画者や監督、そしてスタッフが組織されるところの、枠組み全体の理解にあるのではないかという考え方が、私の友人・田坂逸郎君との対話の中で出たのである。このことは、私には大変重要に思えた。
 そこで、「起」「結」「転」と順に、その担う役割を明らかにしてきたけれど、出版や放送など、映像産業の大きなネットワークの中で仕事をする、アニメーションのスタッフの多くと、さらには監督と呼ばれる人たちまでもが、「承」を請け負っているに過ぎないのではないかと思われてきた。「猫の恩返し」の監督である私もまた、そうした中のひとりだった。
 起承転結の枠組みの中で「承」とは一見、たとえば主従関係の「従」にも等しい。創造性や主体性に欠けるつまらない役割のように思える。しかし本当にそうなのだろうか? そこで私は「猫の恩返し」で請け負った自分の仕事の中身を、出来るだけ具体的に振り返ることになった。

 そして明らかに思い出されたことは、「猫の恩返し」で私が請け負った「承」は、決して「従」では足りない、複雑な仕事だったということである。企画者や原作に従うこともあれば逆らうこともある、原作にある台詞を鵜呑みにしてシナリオに書き写すこともあれば、原作を反面教師にしてオリジナルを入れることもあった。それでも、私の仕事は「承」に過ぎない。そのことをどう考えればよいのか?

「承」はもちろん「転」も「結」も、まずは企画者や原作者の「起」に含まれる意図を理解することから始まる。しかしこれが、並大抵のことではないのだ。
 柊さんも宮崎さんも、この作品を非凡なものにしたいと思っているから、簡単に底が割れないように、捻りに捻った謎を、企画に仕込んでいる。それを周りが理解出来たと思っても、その瞬間、現場のふやけたムードを敏感に感じ取り、さらに先へ突き進んでいるというのが、「起」を担っている作家と呼ばれる人種の本性なのだ。
 ちょっと考えてみれば分かることだけれど、現状に満足できないとか、周りより一歩抜け出たいという欲求があるから、作家になったり、企画をやったりするのである。そうした人たちは、常にまわりが付いて来られない速度で、走り続けるのが本能なのである。たとえ「承」と言えど、そうした作家や企画者の速度について行くには、付き従いぶら下がるだけではお荷物以外の何者にもなれず、共に考え、議論し、激しくぶつかり合って、時には追い越して走るぐらいのつもりでなければ勤まらない。
 
 これは監督以下の、たとえば作画スタッフとの関係にも当てはまることである。
「言われたとおりにやっているつもりなんですけど」
 と、言い訳をするスタッフがいる。このこと自体、正直な話で結構なのだけれど、時に、あまりにその仕事の質が低い時には、
「言われたとおりにしかやっていないのではないか?」
 と疑う。言われた通りのことをやって見せるためには実は、言われた通りにやるだけでは足りない。人に言われた事の中に、自分を発見し、それを自ら生きるぐらいでなければ、人が言う通りのことは出来ないというのが表現というものなのである。その事が理解できるなら自然と、言われたとおりのこと以上の自分のオリジナルを加えるぐらいの態度に仕事の質は変わっていくだろう。これはつまり、意識が上がるということだ。
「起」や「転」や「結」を担う一握りの支配的な立場に対して、「承」を担うスタッフが、数で圧倒的に多いことは言うまでもない。そして、そうした、たとえば大勢のアニメーターたちのような「承」を担う人たちの意識が、業界全体の浮沈を握っているのである。
 つまり、ここに私の言いたいことはまとまる。雇われ仕事に過ぎない「承」の仕事の位置づけを明確にして、その意識の向上を図る、つまり業界の底上げである。

 田坂逸郎君は話の最後に私に言った。

「おまえは『承』でいいから、この『起承転結』の全体が見渡せる『承』になれ」

 こう言われた時、私は目が覚めたような気がしたのだ。
「承」だからといって卑屈な気持ちになり、自分の役割を否定的に見ることに実りはない。「自分のやりたいこと」をやるためには、アニメーターをやっていては駄目だ、企画を自分でやらないと、作家にならないと、と考えて「承」を否定することは、悪いことではないけれど、その考え方は巡り巡って、企画者や原作者になった自分を成り立たせてくれるはずのアニメーション作り全体の枠組みを否定することに繋がってしまうという落とし穴にはまるのである。その矛盾に気が付かない鈍感さに気が付いて、田坂君の先の言葉だったのだろう。ちょっとぐらい面白いアイディアを出せたとか、企画のアイディアをひとつかふたつ持っているぐらいのことで、自分を作家やクリエーターのように思いたがるのは、かえって意識が低い、と。

「猫の恩返し」では、枠組みへの理解が足りなかったが故に、私は「転」や「結」はおろか、「起」までも担うつもりで仕事をしていた。自分の主張が通らず、多くの部分で原作を尊重して仕事をしなければならない、つまり「承」を請け負わなければならないと分かった時、それを否定的に考えていたら、私は“監督”にさえもなれなかっただろう。長年アニメーターとして、「承」の仕事にも魅力や誇りを感じていたからこそ、それに耐えられた。そして、なおかつ「転」や「結」への野心を持ち続けたが故に、宮崎さんや柊さんの速度に、ついて行けたのだと思う。
 
「おまえは『承』でいいから、この『起承転結』の全体が見渡せる『承』になれ」
 と言われ、目が覚めたのは、作家になるわけでも、金を手にするわけでもない、この全体の枠組みを知るということだけで、自分を強く保てるようになる、仕事に誇りを持てるようになると気が付いたからだと思う。
                          
 スタッフの起承転結の話はこれでひとまず終わる。けれど、最後にひとつ補足しておきたい。私が繰り返し述べている「枠組み」という言葉は、今年の私のお気に入りの言葉No.1になった。私にとっては流行語大賞「イナバウワー」並のヒットである。「企画の枠組み」というロジックは、このブログ内で今後「アニメーション技術の体系化」の話や、「物語の構築」の話に応用されて行く。私が追求したい世界観の基本概念になって行く。(おわり)
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6 コメント

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Unknown (軍人)
2006-12-05 05:42:41
ひとまず連載お疲れ様です。
森田さんの次回作への意気込みが強く感じられました。

今年も、もう12月で早いものです。
来年の放送、楽しみに待っています。
返信する
焦りますね (もりた)
2006-12-06 03:17:47
いつもコメントありがとうございます。

シナリオは10話にさしかかり、
1話がやっと作画インしたところですが、
そうこうしているあいだにもう12月です。急がねば。。

次回は、このブログを続けていくにあたっての
所信表明のようなことを書きますね。
返信する
初コメントです。 (マット)
2006-12-06 22:03:33
はじめまして、
「ぼくらの」のアニメ化の話を聞いてこちらに飛んできた、「ぼくらの」ファンのマットと申します。

早速、過去ログを読みふけってしまいました。
その中での作品や原作に対する姿勢に感動しました。

個人的にも原作からアニメへは飛躍、あるいは「転」がある作品(出崎統さんの作品など)が好きなので、
森田さんの文章には共感というか、今まで漠然としていた感覚を言語化してもらったような気がします。

「ぼくらの」ファンとしてアニメを本当に楽しみしています。
返信する
ぼくらのファンの方へ (もりた)
2006-12-07 02:44:31
マットさん、コメントありがとうございます。

このような場で思うところを書くことと、
実際に仕事の中で実践することは違いますから、
難しいところです。

今のところでは、原作を指示してくださる方の期待を
いい意味で裏切ることが目標になりつつあります。

返信する
Unknown (Unknown)
2008-06-04 00:15:46
映画「ネコナデ」 つじあやの「頼りない天使」http://blog.nekonade.info/article/14903743.html

「猫の恩返し」と関係ある?
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Unknown (Unknown)
2008-06-04 16:16:20
「起」を理解して他人の一歩先を行く筈が

「気」が動転して自分の行き先が見えなくなり

果てはどこかにいなくなっちゃったんだね。

おつかれmoriphy。
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