「おもしろいなぁ。吉本に入ったら?」
「声がいいからアナウンサーになれるんちゃう?」
「顔がまあまあやからテレビに出たらええやん」
おそらく誰もが一度ぐらいは言われるフレーズ。それを真に受けてしまう人がいる。そう、僕だ。すべては勘違いから始まった。お世辞であったり、話の流れで何となく言ったことであったり、それらを本気にして、都合よく解釈してタレントになってしまった。
「吉本に入ったら?」はほめるところが見当たらないときに関西ではよく使われる言葉だ。でも、僕は自分がおもしろいことを言えるとは思っていなかったので、お笑いの道に進むことはなかった。「アナウンサーになれるんちゃう?」というコメントに対して、注意すべきは「絶対になれるで!」に比べてずいぶんと可能性が低くなる点だ。これをあたかも将来の進むべき道を示してもらったように信じてしまった。実際に言われたのは2回ぐらい。「アナウンサーになれるんちゃう?」よりもよく言われたのが、「アナウンサーなんて無理やわ」という真逆の言葉。だけど、不思議なもので、例えば、パチンコで負けたときのことよりも大勝ちしたときの記憶のほうが鮮明に残るように、自分にとって都合のいい方の言葉だけを心の中で反芻するのだ。最後の「顔がまあまあやから…」は、よほど僕にかける言葉がなかったのだろう。改めて思い返してみると、すぐに言葉の軽さが伝わってくる。「まあまあ」やもん。しかし、勘違い野郎は、そんな言葉さえも信じてしまうのだ。
所詮は勘違い。アナウンサーになり、その後タレントに転身したが、もともと実力も才能もなく何度も叩きのめされた。うまく読めない、しゃべれない。もがいて苦しんだ。勘違いだと早く気づけばいいものを、ときどきうまくいったり、ちやほやされたりするもんだから、気づくチャンスを逃してしまう。そして、かれこれ17年、放送という業界で過ごしてきた。勘違いだと気づいていれば、20代の頃にやめていたと思う。その20代に、ADさんが必要なものを全部準備してくれたり、マネージャーが送り迎えをしてくれたりするもんだから、気づけなかったなぁ。タレントってええやん!という気持ちの方が強かった。
きのう、あるケーブルテレビ局の番組ガイドの表紙撮影だった。プロのカメラマンさんが撮影してくださり、ポーズをディレクターさんが指示してくれる。番組のあと談笑するデキるキャスターがテーマだった。ディレクターさんが、「こんなイメージです」と見せてくれた写真は、コーヒーカップを持ち、充実感にあふれた表情を見せるイケメンの欧米人。自分と重ね合わせる。無理だ。全く違う。かぶる要素はひとつもない。でも、不思議なもんやね。「今の顔、いいですね」、「だんだん近づいてきましたよ」なんて言われると、「そうなの?近づいてる?いい感じ?」と気分がのってくる。できあがった写真、イメージとは全然、違う。カメラマンさんは上手に撮ってくださった。ディレクターさんも精一杯演出してくださった。なにぶん素材がよろしくないもので…。だけど、照明をあててもらい、関係者が見守る中、とてもいい気持ちで撮影に臨めた。この先しばらくこんないい経験はないだろうから、「最高の表情ですね」と、もらった言葉だけを何度も心の中で繰り返し思い出す。大いなる勘違いをまた経験してしまった。