「急で申し訳ないんですけど今からナレーションをお願いできますか?」
数年前、ロケが終わりテレビ局でホッと一息ついていたときにプロデューサーから声をかけられた。かなり慌てている様子だ。ナレーションの内容は、5分ほどのVTR6本分だという。店じまいモードに入っていただけに、もう一度気持ちを盛り上げるのはたいへんだったが、頼まれればイヤとは言えない。
「森本さんしかいないんですよ。実はナレーターが来てるんですけどダメなんです」
話の内容がよくつかめない。どういうこと?詳しく理由を聞くと、ある若手のナレーターがやる気マンマンで録音スタジオに来ているのだが、肝心の声が出ないというのだ。本人は、やります!と意気込んでいても、声が全く使いものにならない。ディレクターが灰皿を床に投げつけ、帰れ!と言っても居座ってダダをこねているというのだ。ディレクターが怒った原因は、このナレーターが前日に友人と深夜まで酒を飲みカラオケに行ったことを知っていたからだ。
大好きなスポーツのナレーションだったので引き受けたが、プロ意識のかけらもない若手の穴埋めかと思うと、なんだか複雑だった。しかし、つべこべ言っている暇はない。生放送までは限られた時間しかなく、6本のVTRすべて一発OKで収録しなければならない。
VTRごとにディレクターが違うため、初めて顔を合わせる制作スタッフが入れ代わり立ち代わり僕の横にやってくる。VTRを一度だけザッと見て即収録という繰り返し。時間がない緊迫感が制作サイドから痛いほど伝わり、すべての収録をノーミスで終えた。
自分でもびっくりするほどの集中力を発揮でき、ディレクター陣から拍手をもらった。照れくささを隠すように、プロですから当然ですよ!という言葉を安堵の気持ちととも僕は吐き出した。すると、件の若手ナレーターがまだスタッフルームに残っていた。何をするでもなく遠くを見つめて。それは反省なのか、悔しさなのか?彼の気持ちを察するとさすがに何も声をかけられない。彼とは目を合わさずに「おつかれさまでした」とスタッフさんたちにあいさつした。
すると、お弁当食べてから帰ってくださいよと言われ、アシスタントプロデューサーがお弁当の入ったダンボールに手を伸ばした。
「あーれー!?弁当がないっ!」
人数分注文していたという弁当がない。やつが顔を背けた。すかさず、女性スタッフが、「何にもしないくせにお弁当だけ食べに来たんですよ、あいつ。人数分しかないのに、勝手に食べるなんて信じられないです」と言いながら、若手ナレーターに冷たい視線を突き刺した。
「最悪やな、あいつ」
若気の至りだ。今回のことは仕方がないと穏便にすまそうと思っていた。でも、食べものの恨みは、自分の想像以上を感情を生み出す。さすがに我慢できず、漂う塵を追いかけるような表情をしていた若手ナレーターに、僕は「最悪やな」と言ってしまった。
別にお弁当が食べたくてどうしようもなかったわけではない。ただ、食べる準備をしかかったところで、ないことがわかって僕の卑しい気持ちがあらわになってしまった。
こんな小さい出来事をしょっちゅう思い出してしまう。きょうこの若手ナレーターが掲載されている某プロダクションの宣伝用クリアファイルを偶然見た。彼の顔写真を見た瞬間に、鮮明にあのときのことが甦ってきて書かずにはいられなくなった。
ちっちゃいことは気にするな……。なんて僕はさもしいんだろう。