阪神淡路大震災からもう15年。あの朝は、東名高速を走っていた。
ラジオが「神戸で地震がおきました。けが人がいる模様」との一報
それが時間と共に惨状が克明に放送されてきたが、政府の対応は遅々として進まない。
車の中で苛立ちを覚え、思わず「何をやってるんだ」と叫んだ記憶がある。
その後すぐに、所属する会に国から県を経て要望が出た。
地震被災建物の状態を判定する「応急危険度判定」への派遣要請だった。
私(ムークの父ちゃん)も第二次派遣に参加する事となった。
当初は、参加人数も判らず、支部の皆さんに電話を掛け捲って参加を呼びかけた。
その結果、大部分の人から参加承諾を頂いたが、
この支部からは一名との事で、結局、私が行くことになる。
今では、全国的に「応急危険度判定士制度」が普及して、大地震時には即応できる体制が整っている。
しかし、阪神淡路大震災の時には静岡県と他の一つの県ぐらいしか準備されていなかったのです。
その判定とは、被災建物を調査して、被害状況により
「調査済み(安全)」「要注意」「危険」
の三つに分類して右のような判定結果を建物に貼り付ける。
先ほど、資料を読み返したら、懐かしいスケジュール表が出てきた。
朝5:30 起床
6:30 徳島市内のホテルを出発して、徳島港からフェリーに乗る。
9:20 神戸に着いて、各自自転車に乗って判定作業に出かける。
この時に、駅弁風の弁当とペットボトル一本を支給された。
判定作業の合間に、昼食を取る
夕5:00 岸壁に集合する。夕方の岸壁は寒い。。。火の気も無く。
一時間以上をひたすら体をブルブル震わせてフェリーの接岸を待つ。
他の船との順番も有って目の前の海上にフェリーが来ても乗れない。
下の写真がその岸壁に集合してる状況。
8:00 徳島港着
9:00 やっと夕食になる。
このスケジュールの繰り返し、暗いうちに出て、暗くなってから帰る毎日でした。
岸壁での写真(右の写真の一部拡大) | 貰った感謝状 |
前置きが長くなったけど、此処からが今日の記事の本題です。
判定作業を続けてお昼頃になると、公園などの一角で持参のお弁当を食べるのが日課。
ある日、何時ものように公園にやって来ました。
震災後、人は誰も居ない寂しい公園です。
少しでも温かい日の当たる場所を選んで、冷たく冷え切ったお弁当を食べ始めた。
そうしているうちに、何処からか犬が一頭やってきた。
薄い茶色の中型の犬、首輪はしていなかったと記憶している。
トボトボと歩いて来て、ちょっと離れた所からこちらを見ている。
普通よりはだいぶ痩せているようだった。
「おいで。こっちへおいで!」と呼ぶと近寄ってきた。
しかし、反応があまり無い。
シッポは軽く下を向いたまま微動だにしない。
「おなかが空いてるんだろ?」
ご飯を一握り与えようとしたが、食べようともしない。
ただ、じっと私を見つめているだけなのだ。
地震で飼い主と離れ離れになってしまったのだろうか?
相当なショックを受けて、このように放心状態になってしまったのか?
何度、ご飯を与えようとしても食べなかった。
私は、なすすべも無くその犬を見ているだけだった。
やがて、犬は踵を返してやってきた方角へと去っていった。
やはり、主人を探して歩き回っていたのだろうか?
「きっと会えるよ!」と呟くことだけしか、その時の私には出来なかった。
にほんブログ村
神戸の寒さは忘れられません。
寒かったなあ
もしかして、ムーク君のお父ちゃんが貼ってくれたのかな。
公園に、ティッシュ、ガスコンロ、トイレットペーパーをもらうために、並んだことを忘れません。