gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

タイ近代法整備の功労者・政尾藤吉と郡中

2008-02-10 22:27:14 | 日記・エッセイ・コラム

 Img019

 2007年は「日タイ修好120周年」であった。これを記念した愛媛人物博物館の「タイ近代法整備の功労者・政尾藤吉」企画展が開催されており、出かけてきた。明治20(1887)年、西欧列強の植民地主義政策によってアジア各国が植民地化されるなかで、日本とタイ(当時のシャム)は自国の主権を守って独立を維持し続け、両国の修好通商宣言が交わされた。明治30年、外務省事務次官・小村寿太郎の委嘱をうけ、タイの近代法整備に貢献したのが愛媛県大洲出身の政尾藤吉。政尾藤吉は、苦学の末、アメリカ・エール大学で民事博士号を取得。タイに渡り、タイ政府の法律顧問として刑法などの起草に携わり、国王から法律の最高位「ピアー・マヒダラ」を与えられ皇族待遇として数々の勲章を授与された。帰国後、愛媛県選出の衆議院議員となりアメリカなどを歴訪。米騒動や大正デモクラシー、原敬政友会内閣の頃である。大正9(1920)年に、再びタイの特命全権公使に任命されたが、翌年、赴任地のバンコクで亡くなった。享年52歳、国王も参列した盛大な葬儀が執り行われたという。Img_0012_edited

 『政尾藤吉伝』(信山社)を著した香川孝三・大阪女学院大学教授の記念講演では、アジアにおける法整備支援国際協力の先駆者としての政尾藤吉の業績と人物像を紹介。同時に「これまで政尾藤吉があまり知られていないのは何故か」という疑問に、活躍した場がアメリカで6年タイで13年と海外であったこと、アジアの法律や法制史を研究する専門家が極めて少なかったことによるのではないかとした。Img_0017_edited

 この政尾藤吉は、これまた知られていないが、郡中ゆかりの人物である。藤吉は明治3年、喜多郡大洲町に御用商人「政屋」を営む父・勝太郎の長男として生まれるが、廃藩置県の後、家業が傾き、8歳の頃、父とともに親戚であった郡中町の呉服商・吾川屋岡井常吉の家に寄宿することになった。勝太郎は山嵜小学校の教員となり、藤吉も編入をした。のちに大正4(1915)年1月12日、タイから帰国した藤吉は郡中尋常高等小学校で講演をし「私は一生の最も面白い、なつかしい、腕白時代を郡中で過ごした」(海南新聞)と話している。14歳の時に両親が離婚、父は教員をやめ郵便局に勤務したが、月給が4円と低く生活が苦しかったので、藤吉も郵便配達の仕事を手伝ったと伝えられている。Img_0019_edited_2 政尾父子が寄宿していた吾川屋・岡井家は湊町の梶野家の隣にあったが、現在は空地になっている。また、明治5年にできた伊予郡初の小学校・山嵜小学校は大洲藩上屋敷跡にあった。少年時代を郡中で過ごした藤吉は、明治20年、17歳のときに大洲教会二代目牧師・青山彦太郎と出会い英語を学ぶ。父の死後、大阪に出たあと、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学、英語普通科を卒業。明治22年に念願のアメリカ留学に挑戦した。この留学を支えたのが「大洲の女傑」・中野ミツだった(澄田恭一『大洲・内子を掘る』(アトラス出版))。 タイの近代化に生涯をかけた愛媛人・政尾藤吉が、゛腕白゛として父や岡井家とともに暮らした明治10年代の郡中のまち。この足跡も、記録に残しておきたい。


最新の画像もっと見る