gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

郡中三町独立200年・佐伯矩博士のこと

2008-12-27 17:20:07 | 日記・エッセイ・コラム

 Img004 2008年は、伊予市の歴史資源からみて記念すべき年であった。まず「郡中三町独立200年」。文化5年(1808)8月、灘町・湊町・三島町が町の発展を背景に、これまでの米湊村・下吾川村の郷(村方)から独立することを幕府に認められ、自治による町政が始まって200年目にあたる。この独立協定書である『郷町引離二付為取替証文』(8月11日)、湊町の安政『大地震記録』がこのたび発見され、伊予市指定文化財に指定された。奇しくも同じ文化5年7月29日、伊能忠敬測量隊が上灘から郡中の測量のために本陣・宮内小三郎家に投宿していた。

   この200年前の出来事を再現すべく、7月28・29日、宮内家で『郡中町方文書』『伊能忠敬測量日記・米湊図』『宮内家・幕府巡検使文書』などの展示と愛媛県歴博主任学芸員・安永純子さんを招いたギャラリートークを開催。伊能の弟子・東寛治の描いた『大洲領海岸実測図』なども紹介され、伊予の測量技術の高さや矢野玄道家に残された測量道具など、宮内家との所縁についても興味ある話を聞くことができた。伊能忠敬らの直前の時機を得た投宿が、宮内家など町方による「自治都市・郡中」を祝う意味さえあったのではと推測される。

 Img_0009_5 栄養学の創始者・佐伯矩博士もまた、伊予市の「宝」である。11月3日、灘町・栄養寺で佐伯矩博士の顕彰碑設立除幕式が開催された。2008年が博士の没後50年であることを記念して、その業績を称え、食育や食文化など今日的な意義を問い直すことを目的に事業が行われた。博士は3歳のとき、医者であった父卓爾、母シンとともに北山崎・本郡に移り住み、松山中学から第三高等学校(現岡山大学)医学部、京都帝国大学医科学教室に進み、北里研究室では野口英世とも親交を深めた。エール大学大学院で学位を取得し、世界で初めての「栄養学」創始のために尽力し、大正9年(1920)には念願の国立栄養研究所が開設され、初代所長に就任した。注目すべきは「栄養」という公用語も佐伯博士によるものだ。当時使われていた「営養」を「栄養」に改定したのは、少年時代に親しんだ「栄養寺」の寺名にあったと思われる。

  顕彰碑の製作には、砥部・里山房の矢野徹志さんにご協力いただいた。Img_0060 庵治(あじ)石には陶板で焼き付けた博士の肖像画がはめ込まれた。碑文の作成には、佐伯矩博士を研究した日下部正盛先生をはじめ地元の思いが込められている。佐伯栄養学校の卒業生であり元愛媛県栄養士会副会長・合田徳明さんからは、博士の人柄や思い出を話していただいた。東京慈恵医大付属病院の柳井一男栄養部長による記念講演では、科学としての「栄養学」を基本とした「食」が健康には不可欠と提言された。Img_0040_edited 来年の1月京都で行われる日本病態栄養学会の学術集会でも佐伯博士の顕彰企画が予定され、2月の愛媛大学の学術講演会でも愛媛大学大学院医学系研究科・恩地森一教授が基調講演を行うことになっている。郷土・伊予市で育った佐伯矩博士の半世紀ぶりの顕彰事業が、食育・食文化のまちづくりへと発展していくことを期待したいものだ。

 「灘町・宮内邸を守る会」が事務局となって実施してきた2008年の活動。百年・二百年と近世・近代の歴史をひも解きながら、「郡中まちぐるみ博物館」構想による「まちなか再生」へ新たなステップにしていきたい。


最新の画像もっと見る