自己啓発セミナーなどが苦手なのと同じ理由で
日頃、こういうテーマの新書は敬遠しているのだけれど・・・
今回ふと、縁があって私も読んでみようか、と。
結果、読んでみて良かった。。。
『無力』に関しては、「続きを読む」に。
以下は、解説ボランティアの為の図録と
ワッサワッサと選んで読んだ本。
ふたつの小説は、或る意味似ている。
現代的。うーん。
図録の末尾の作家の生涯を読むほうが
私には、ドラマチックに感じた。
『蒼ざめた馬を見よ』『四季』『かもめのジョナサン』・・・
『かもめのジョナサン』は翻訳だけれど、
この人は、何故
これほどまで違うものを書けるのか?書くのか?
それが、ぼんやりとした不満だった。
子供の頃、単行本『蒼ざめた馬を見よ』で
初めて五木寛之を読んだ時、その暗さと
反骨精神みたいなものと、作者近影に憧れた。
そして、『デラシネ』という言葉に感じた不安感は
その後、故郷を離れて以来独身時代の私の脳裏に
ついて廻った。
ところが初めてTVで観た確か、
新進気鋭の矢野彰子と対談する作家は
柔軟で穏やかで静かなヒト。。。
その後も、
あの最初の強いインパクトはドコに消えたのか
と、納得できない思いがつのった。
『さらばモスクワ愚連隊』『天使の墓場』
のヒトが女性ファッション誌に『四季』を書き下ろすの?
『かもめのジョナサン』でブームを起こすの?
『青春の門』も・・・どこか違う気がした。
そんな風に、長年抱えていた違和感が、
この『無力』で氷解した。
それらを繋げていた作家のスタンスを
はじめて理解出来たように思う。
この人は社会や周囲と戦うのが本来なのでなく
いつも外から入るものを受容するキャパシティをもって
それを昇華しながら、人が生きるということを
ずっと考え続けてきたヒトだったのだとおもう。
子供の頃の私は、自身周囲に闘争的だったから、
そういう一面にだけ共感して、広い深い流れが
見えなかったのだろう。
本は、アマゾンの中古で数箇所にマーキングがあった。
その箇所の微妙に私の感覚とのズレが気になった。
でも、それも「ヒトはこんな風に違うのだよ。」
と言われているように思えば、面白くないこともない。
このブログのポレポレも、
単にゆっくりのんびりではなく
『無力(むりき)』に通じると思う。
力まない頑張らない、でも他力本願でもない生き方。。。
こんな風に理解したけれど、租借して飲み込めた感はない。
くり返し読もうかな。
この人の随筆や『親鸞』、追々読んでみようか。
それにしても、帯の『末世を生き抜く究極の人間論』は
なんか、違うんじゃないかなと思う。
五木寛之のいう生きるということは
「生き抜く」という悲壮感漂うものじゃなくて、
かといって、がんがん行く強引さもなくて、
到着点は死につながる「今」をおだやかに、自然に、
自分らしくベターと思える生き方を日々、あるいは
瞬間瞬間継続していくことではないのかとおもう。