内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

瀬戸内寂聴さんの本から

2008-12-03 00:17:57 | 読書感想
昨日に引き続き、瀬戸内寂聴さんの「生きることば」より。
 『私はまだ至らないので、侮辱されると腹が立ち湯気がたつほど怒りますが、その後、持仏堂にかけこみひたすら祈ります。心が猛り狂っているのでまともな祈りのことばも出てきません。それでお経をあげます。
帰依する天台宗の経典が法華経なので、毎日のお経と法華経をかたっぱしからあげます。不思議なことに、はじめはただくやしくさまぎれに字づらだけ追って大声を出していたのがいつのまにか声が落ちついて呼吸も楽になってきます。そこで座禅をはじめます。座ってしまえば心が澄んできて、樹々に風の吹きすぎる音、筧の水の音、小鳥の声が静かに聞こえてくる。深山幽谷に座っている気分になります。何のために私は逆上し、だれを殺してもやりたいほど怨んでいたのかを忘れてしまっています。』(p.176)

 私はここに、森田理論学習で学ぶ、「感情の法則」「あるがまま」「行動の原則」の実践を感じるのです。
 感情の法則①感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。
 森田先生も、亡くされたご子息のことを急に思い出して悲しまれることもあるという。それでもその悲しみはそんなに長くは続かないということを本に書かれていた。
 過去の嫌なことを不意に思い出すことはある。生きていると嫌な出来事にも出会う。でもそれは初一念であって、人間には当然あること。問題なのは、そこからああこうすれば良かったとかなんだとかくよくよ考え出すこと。
 でも、行動の原則に従い、いろんなことに手を出していると、そういう後悔という深みにはまることなく、心を「そのまま」にしておける。つまり「あるがまま」ということ。私は「あるがまま」と「行動」は一対のものだという認識をしている。心はどうあっても、日常のことに手を出していくこと。それが「あるがまま」。何か悟りを開いたような心境でもなんでもなく、心をそのままにしておくというだけのこと。
 昨日、重い気持ちだったのも、私にとってはもうほとんど過ぎ去ってしまった。何をしたわけでもなく、日々の生活を過ごしているだけ。ただ、ひとつひとつの行動を大切にしようという気持ちは持っている。
 芸は身を助けるという言葉もありますが、手を出すのがクセになってくると、生きるのがラクになってくる気がしています。

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