MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2406 発達障害バブル

2023年05月07日 | 社会・経済

 4月2日は、国連が定める「世界自閉症啓発デー」とのこと。自閉症をはじめとする発達障害への理解を広めようと、日本国内でも各地で様々な公共施設などがシンボルカラーの青色にライトアップされたりしています。

 「発達障害」とひと括りにされていますが、強固な世界観を持つ中で他者の気持ちを想像する力が乏しかったり、言葉を字義通り受け止めがちなASD(自閉スペクトラム症)や、多動傾向が強く人の話を黙聞いていられない、注意力散漫で約束などが守れないなどが特徴のADHD(注意欠如・多動症)など、その症状は様々です。

 発達障害を持った人は、その個性から(しばしば)集団の中で人間関係を結び社会性を発揮することが困難な場面に直面し、周囲から「変わった人」として距離を置かれることも多いとされています。

 一方、近年では発達障害という言葉も広く知られるようになり、「もしかしたら自分も…」と医療機関を訪れる人が増えているということです。幼い頃から人間関係に苦労した経験を持つ人が、大人になって障害として認定されることで「自分が悪いのではなかったのだ」と安心できたというのはよく聞く話。一方で、「発達障害と認められなかった」ことでがっかりし、さらに傷ついたというような話も耳にするようになりました。

 もとより発達障害は(いわゆる)「病気」ではなくその人の特徴(個性?)なのですから、徴候はあっても診断(認定)には至らない「グレーゾーン」に位置する人たちがたくさんいるのは当然のこと。障害者に当たるかどうかはその「程度」の問題で、明確な線引きをするのは相当の専門家でないと難しいことでしょう。

 とは言え、たしかに相対してお話をしていても、「この人は生きていくのが大変だろうな」と感じる人が一定程度いるのは経験上からも分かります。

 個人の生きづらさの問題だけになかなか難しいこうした発達障害の問題に関し、3月24日の総合情報サイト「DIAMOND ONLINE」が、筑波大学教授で精神科医の斎藤環氏の近著『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)の一部を紹介しているので、この機会にその概要を小欄に残しておきたいと思います。(2023.3.24「発達障害がキャラ化してバブル状態の異様、裏に日本人の“承認依存”文化」)

 キャラが重視されることと相関するかのように、現代の日本は一種の「発達障害ブーム」と言って良い様相を呈している。私の知人の小児科の教授は、この状況を的確に「発達障害バブル」と表現していると、斎藤氏はこの論考に記しています。

 最近では多くの著名人がアスペルガー障害やADHDをカミングアウトするようになっている。(勿論その全て厳密な診断に基づいているとは限らないが)一見社会適応できている人や成功しているような人たちも、実は「発達障害」を抱えていたというナラティブが、ある種の定番として定着した観があるということです。

 一方、同時に「ギフテッド」や「サバン」のように、通常の生活能力に著しく欠けた人にも別の特異な才能があるというナラティブも定番化した。「才能に恵まれた人」というイメージが広がったことで発達障害への承認は得られやすくなり、病気語りが「承認」を集める有効なコンテンツとして機能するようになったと氏は言います。

 発達障害の近年の急増ぶりはとりわけ日本で突出しており、かつて「広汎性発達障害」と呼ばれたこの障害の有病率(約2%)は、欧米の調査結果のほぼ2倍以上だということです。

 一方、文科省が2012年に発表した調査報告では、公立の小中学校に通う普通学級の児童生徒で発達障害の可能性のある子どもは実に6.5%に上っている。発達障害は先天的な脳の機能障害なので、日本で突出して多いというのは奇妙なことだというのが氏の指摘するところです。

 (専門家としての斎藤氏の)個人的な経験から述べれば、専門医、非専門医を問わず、「発達障害」の診断で紹介されてきた患者の誤診率はきわめて高いという印象を持つ。発達障害は「先天性の脳の機能障害」で、「治療」や「治癒」という表現は適切ではなく、(奇妙な話だが)もしも治るものであればそれは発達障害ではなく「誤診」と言わざるを得ないというのが氏の感覚です。

 (誤解を恐れずに言えば)こうした「発達障害バブル」ともいうべき日本固有の現象の背景には、近年の「コミュ力偏重主義」があるのではないかと氏は話しています。

 スクールカースト下位に位置づけられることの多いコミュ力の低い者、協調性に欠ける人たちは、しばしば若い世代の間では「コミュ障」や「アスペ」などと呼ばれ揶揄されることになる。口にする方からすれば軽い表現かもしれないが、そこにはコミュ力の低い個人に対するうっすらとした差別的な発想が透けて見えるということです。

 明るく積極的に振る舞えない人は「普通」ではない。弱肉強食の現代社会では、「障害者」としてのエクスキューズがなければ、根暗のオタクは生きていけないということでしょうか。

 内気なのも人の輪にうまく溶け込めないのも個人の性格であり、人格を否定される筋合いはないはずですが、(こうして)「生きづらさ」の範囲が広がっている今の時代だからこそ、自らの個性によりどころを求める人々が増えているのかもしれないなと、斉藤氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿