MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2571 「ドリトス理論」を考える

2024年04月14日 | うんちく・小ネタ

 スーパーマーケットやコンビニの棚で、自らの存在感を主張するスナック菓子の袋たち。ポテトチップスやポップコーンの袋が並ぶ中、特に(日本離れした)ラテン系のパッケージで食欲を煽るのが、トウモロコシを原料とする「ドリトス」と言えるでしょう。

 ドリトスは、世界最大のスナック菓子メーカーであるフリトレーが、1966年にアメリカで発売を開始。現在では世界55ヶ国で販売されている、(いわゆる)トルティーヤチップスの代表選手です。

 製法は、コーンをすり潰して薄くのばした生地をオーブンで焼いてから油で揚げるとのこと。パリっとした独特の食感と香ばしさが特徴で、ディップなどを用意すれば、ちょっとしたパーティなどに出しても恥ずかしくないおつまみにも生まれ変わります。

 以前は都内の高級スーパーなどでしかお目にかかれない(輸入)スナックでしたが、1987年にカルビーの商標で知られるジャパンフリトレーが国内販売を開始して以降一般家庭にも次第に浸透し、最近では(以前はかなり大きかった)袋も小さくなって気軽に手を伸ばせる存在として認知されるようになっています。

 ポテトチップスよりも少し硬い独特の歯ごたえが病みつきになるドリトス。個人的には、インパクトのある赤い袋のメキシカンタコス味が好みですが、撮りためたビデオなどを見ながら夜中にビールと共に一袋を開けたりすると、「やっちまったぜ…」という不健康な罪悪感に襲われるのも事実です。

 次に買うときは、もう少しソフトな「タコス味」にしようかな…などと考えていた折、2月25日の総合情報サイト「Forbes JAPAN」に、ニューヨーク市立大学教授のBruce Y. Lee氏が、『不健全なモノや人に依存してしまうのはなぜ? ネットで話題の「ドリトス理論」を考える』と題する論考を寄せているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 SNSへの依存やろくでもない彼氏と縁を切れない状況と、人気のトルティーヤチップス「ドリトス」との間には、一見何の関係もなさそうに見える。しかし、最近TikTokで拡散した「ドリトス理論」に関する投稿動画は、こうした不健全な関係性について(改めて)考えさせてくれるものだと、リー氏はこの論考に綴っています。

 氏によれば、(現時点で)9万2600件以上の「いいね」を集めているこの動画では、アカウント主の女性が、ドリトスをはじめとするチップス系スナックの魅力を次のように説明しているとのこと。

 「ポテトチップスって食べだすと止まらなくなるよね。それは、その体験のピークが味わっているさ中に起こるから。食べた後じゃなくてね」。そして(続けて)「体験が終わってしまえば、そこには何も残らない」と断言しているということです。

 たしかに、ポテトチップスを一袋むさぼり食べた後に、空になった袋をしげしげと見つめて「食べられて本当によかった。これで社会的地位やキャリア、健康にもよい影響があるだろう。魂もレベルアップするはずだ。最高じゃないか!」と思うことは、まずないとリー氏は言います。

 薄いチップスを1枚、また1枚と噛み砕く際には、(確かに)つかの間の喜びを味わえたかもしれない。しかし一度胃袋に入ってしまえば、頭に浮かぶのは「あれ? あの味はどこに行っちゃったんだろう。次に食べるスナックの袋はどこにあったっけ?」といようなうこと(だけ)だというのが氏の認識です。

 本格的な食事なら、食後に満足感が残る。だが、満足感を得られないチップス系スナックの場合、次から次へと手元の袋が空になるまで口に運び続けてしまいかねないということです。

 勿論こうしたスナックは栄養満点とは言いがたく、一気食いは塩分とカロリーの過剰摂取という不健康な習慣につながる。甘い菓子や炭酸飲料、アルコール飲料などでも同様だと氏は話しています。

 しかも、この現象は飲食に限らず、依存性のあるさまざまな行動にも当てはまる。たとえば、デートや交際のパターンがそれ。新しいパートナーとの初セックスがたまらないという人もいれば、自分のためにならなくてもドーパミンが瞬時にどばっと出るような相手や状況に引きつけられる人もいる。ドラマチックに乱高下する関係性に心揺さぶられるという人もいるというのが氏の見解です。

 こうした絶え間ない「もっと欲しい」という衝動が、交際相手をとっかえひっかえしたり、波乱に満ちた恋愛関係にはまったりする原因となっている可能性がある。氏によれば、安定していて一貫性があり、究極的に高い満足感を得られるパートナーではなく、不適切な相手との付き合いを求めてしまうのもそのせいかもしれないということです。

 そして、おそらくソーシャルメディアにも、(こうした)同じ「依存を引き起こすリスクがあるのだろうと氏は指摘しています。

 たしかに、投稿の中には琴線に触れるものがある。だが、一過性の感情以上の何かが心に残るような投稿がどれだけあるだろう。携帯端末を置いてトイレに行ったり、寝たり、家族と団らんしたりする気になれるほどの満足感をもたらす投稿は、そんなにあるような気はしない。結果、満たされない心を抱え、SNSから得られる一時の感動を求めて、スマートフォンの画面を延々とスクロールし続ける羽目になるということです。

 こうした「ドリトス理論」は、依存のメカニズムの一要素のみを取り上げたにすぎない。何かに依存したり、悪い習慣をやめられなかったりする要因は、他にもいろいろ考えられるからだと氏は言います。

 しかし、この「理論」は、自分の行動を新たな視点で振りかえるのに役立つ。それは(何であれ)「ドリトスを一袋食べ尽くす」ような状況に陥りつつあるときには、自問してみる必要があるということ。それは、「これが全部終わった後に、自分はどう感じるだろう?」というもので、その答えが「それほどよい気分じゃなさそうだ」だった場合は、やめておくのが得策かもしれないというのが、氏がこの論考で示した結論です。

 夜中に、しょっぱいドリトスを一袋完食し、手に就いた赤いスパイスを舐めながら強い後悔を感じたことがあるのは(恐らく)私だけではないでしょう。

 実際、あの「背徳感」がまた「たまらない…」と感じる「M感」も分からないではありませんが、できることなら(ずるずると)繰り返したくはないものだと、氏の指摘を読んで私も改めて考えたところです。


#2534 コーラを飲むと骨が溶ける?

2024年01月27日 | うんちく・小ネタ

 先日、新作のスイーツをゲットしようとコンビニを訪れた際、サッカークラブの帰り道でしょうか、たまたまやってきていた母子のこんな会話を耳にしました。それは…

少年:「お母さん、ボク、コーラがいい。」

母親:「コーラはダメよ、骨が溶けるから…サイダーにしなさい。」

少年:「ダッサ、骨なんて溶けるはずないじゃん。コーラじゃなきゃいらない。」

というもの。

 そう言えば子供の頃、そのほかの飲み物に比べ結構値段の高かった(くびれた薄緑色のガラス瓶に入った)コカ・コーラは、背伸びがちな少年たちの憧れでした。「スカッと爽やか!」と、海辺でサングラスなどをかけたお兄さんやお姉さんが飲み干すテレビCMなどもあり、「大人の飲み物」として駄菓子屋などでも別格の存在だった記憶があります。

 そして、言われてみれば、当時の親たちも(なぜだか)子どもにコーラを飲ませたがらなかった。母親にねだったりしても、やはり返って来るのは「コーラを飲むと骨が溶ける」というものだったことを、かなり久しぶりに思い出した次第です。

 半世紀の時を超えて、母親たちの間で語り継がれてきた「コーラを飲むと骨が溶ける」という話。当然、子どもに「買い食い」をさせないための母親の知恵、よくある都市伝説だとばかり考えていたのですが、どうやらそうでもないようです。

  11月23日の総合情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に東京農業大学名誉教授で医学博士の田中越郎氏が『コーラを飲むと歯が溶けるは科学的に正しい…砂糖たっぷりのコーラが腐らないゾッとする理由』と題する一文を寄せていたので、参考までにその概要を残しておきたいと思います。

 世界的に非常にたくさん飲まれているコーラ類。しかしその成分は、単純な炭酸水とはまったく異なった飲み物だと田中氏はこの論考に記しています。コーラには、医学的にはまったくオススメできない、特に非常に困った点が4つあるというのがこの論考における田中氏の見解です。

 一つ目は「大量の糖が加えてある」ということ。コーラの最大の元凶は糖。しかも、糖のなかでもタチの悪い異性化糖(とうもろこしデンプンを分解してつくった果糖とブドウ糖)が大量に使われていると氏は説明しています。

 世界の貧困層の子どもたちに肥満児が多い原因のひとつにコーラの飲み過ぎ、つまり異性化糖の摂り過ぎが挙げられる。特に、途上国の子供を取り込むためのコーラ業界の戦略はえげつないほどで、10年後は肥満者がもっと増えているだろうと田中氏は予測しています。

 二つ目は、「強い酸が加えてある」ということ。炭酸飲料は普通酸性だが、炭酸水のそれは(pHおよそ4~5と)極めて弱いものだと氏はしています。一方、「コカ・コーラ」のpHは2~3とかなり強い酸性を示している。これは、「ウィルキンソン」など一般的な炭酸水の約100倍の強さで、腐敗防止、つまり殺菌の目的で加えられたリン酸やクエン酸によるものだということです。

 リン酸やクエン酸は蒸発しないため、気が抜けたコーラでもpHは3以下のまま。このためコーラは開栓して1週間放置しても、腐敗が進むことはないと氏は話しています。しかしそこには問題もある。コーラはこのように酸性度が極めて強いので、飲んだあとにその一部が少しでも口腔内に残っていると、その強い酸により歯を痛めるというのが氏の指摘するところです。

 そして、これが「コーラを飲むと骨が溶ける」という都市伝説発生の原因だろうと氏はしています。実際のところ骨は溶けないけれど、歯は溶ける。ということで、氏によれば、コーラを飲んだあとは歯を守るため、口を丁寧にゆすぐよう心がけるのが賢明だということです。

 そして三つ目の困った点は、「成分や添加物が明らかにされていない」ところだと氏は話しています。非公開ということは、何が入っているかがわからないということ。コカ・コーラの秘密主義は筋金入りで、製作者とも言えるエイサ・キャンドラーは1901年の裁判で「『コカ・コーラ』にコカインは含まれているか」という質問に対し、答えなかったとされているそうです。

 因みに、「コカ・コーラ」のリン酸含有量は非公開だが、「ペプシコーラ」(日本での販売会社はサントリー)のリン酸含有量はホームページで公表されている。氏によれば、隠蔽体質の多国籍企業と、正直に公開している日本企業との差がこんなところにも現れているのだろうということです。

 さて、四つ目に当たる最後の問題点として、田中氏は「子どものころから常飲していると『コーラ中毒』になること」を挙げています。

 食べ物の嗜好は18歳くらいまでに完成すると言われている。従って、18歳くらいまでコーラを常飲していたら、コーラが好物となり、一生飲み続けることになると氏は話しています。

 実際、氏の知人(欧米人)の中には、「コーヒーブレイク」ならぬ「コーラブレイク」を定期的にとっている人が大勢いるとのこと。幸い日本では、お茶やミネラルウォーターの牙城があるせいか、コーラのシェアはそれほど伸びていないが、コーラ類は飲まないで済めば飲まないに越したことがない飲み物だということです。

 さて、それでもコーラが飲みたくなることがあるかもしれません。そうした時はどうすればいいか。

 コーラ類は最初のひと口、もしくは最初の一杯がさわやかなのであり、惰性でペットボトル1本を全部飲むのは好ましくないというのが氏の意見です。従って解決策は、コップに取り分けて飲むということ。冷たいと舌の甘みの感度が低下するので、あまり冷やし過ぎないほうがよい。低カロリーを強調している商品もあるものの「カロリーゼロ」の商品でも25キロカロリー弱はあり、完全にゼロではないことに注意する必要があるということです。

 さらに言えば、砂糖の代わりに使われているのは人工甘味料。大人は多少摂取しても構わないが、やはり子どもには飲ませないほうが無難とのこと。私自身、コカ・コーラの営業妨害をするつもりはさらさらありませんが、コンビニのお母さんは(そして私のお袋も)正しかったということでしょうか。

 都市伝説に聞こえるようなお母さんの忠告にも、一度は真剣に耳を傾ける必要があるということでしょうか。もしも子どものことを大切に思うならば、コーラへの嗜好は育てないほうが幸せな人生を歩めると思うとこの一文を結ぶ田中氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2533 エナジードリンクはなぜ効くのか?

2024年01月25日 | うんちく・小ネタ

 先日、テレビのインタビューで、岩手県内にお住いの大正2年(1913年)生まれの久保田イチさん(110歳)が「長寿の秘訣は?」と聞かれ、「これまで生きてこられたのはリポビタンDのおかげ。今はリポビタンのおかげで元気になりました」と答えているのを聞いて、思わず笑ってしまいました。

 実際、リポビタンDは息子さんが毎回箱で50本くらい届けくれているものだとか。イチさんはそのリポビタンDを毎日欠かさず1、2本、それも一気に飲むのではなくて、日中にちびちびと長い時間をかけて飲んでいるのだそうです。

 「ファイト一発!」のリポDが本当に効いているのかどうかはわかりませんが、我々の世代にとっても親しみのあるリポビタンやオロナミン、ユンケル、リゲインなどの栄養ドリンクを口にすると、なんか疲労回復に役立っているような気がするのは事実です。それでは現代の若者たちも、こうした飲み物から元気をもらっているのでしょうか?

 株式会社RCCOO(東京都渋谷区)が運営するリサーチサービス『サークルアップ』が今年の9月、Z世代に対し「エナジードリンク」に関する調査を行っています。これによると、(いわゆる)エナジードリンクを「一日に1回以上飲む」と答えた若者は回答者全体のわずかに1%。以下、一週間に数回が6%、2~3週間に1回程度が8%、1カ月に1回程度が26%で、「ほとんど飲まない」との回答が全体の過半(58.5%)を占めたということです。

 コンビニによく並んでいるエナジードリンクと言えば「若者の飲み物」というイメージが強いですが、調査結果からはまだまだそれほど一般化していないことが見て取れます。なお、この調査において「エネジードリンクの好きな銘柄」を聞いたところでは、MONSTER ENERGYが34.7%とトップで、以下、「好きなものはない」が27.1%、Red Bullが21.8%、リアルゴールドが8.9%、デカビタが7.6%という結果だったそうです。

 自分自身ほとんどエナジードリンク系のものを口にしないので正直よくわかりませんが、(とは言え)黒いのやら青いのやら、あれだけコンビニの棚にたくさん並んでいるところを見ると、日常的に親しんでいるヘビーユーザーがそれなりにいるということなのでしょう。

 欲物による健康被害の危険性を知らせる横浜市のホームページによると、エナジードリンクの摂取には習慣性が生まれる可能性があるとのこと。依存状態が進行するとドリンクでは十分な効果が得られなくなり、市販のカフェイン錠剤や別の覚醒作用のある市販薬を多量に服用してしまうこともあるとされています。

 また、飲むのをやめても、身体からカフェイン(依存対象)がなくなった際に、離脱症状として、睡眠障害や精神不安、疲労感などの(過眠、イライラ、集中困難など)を起こす場合などもあるようです。

 さて、こうした話を聞いていると、コーラなどの炭酸飲料なども含め結構危険な香りがしてくるのですが、それでも(それだからこそ?)、あのほのかに甘酸っぱい口当たりやシュワっとした爽快な喉越しが恋しくなるのも(「スカッと爽やか」で育った)昭和の世代だからということでしょうか。

 東京農業大学名誉教授で医学博士の田中越郎氏によれば、イライラしているときに炭酸水を飲むとリラックス感が増し、気分を落ち着かせる効果があるとのことです。(「コーラを飲むと歯が溶けるは科学的に正しい…砂糖たっぷりのコーラが腐らないゾッとする理由」PRESIDENT ONLINE 2023.11.21)

 そのメカニズムははっきりしていないようですが、炭酸水に溶け込んでいた二酸化炭素が胃のなかで発泡して胃を膨らませ、胃の神経を刺激して副交感神経を活発化させるのではないかとのこと。胃の中の二酸化炭素は胃腸で吸収されて血液中に溶け込んだあと、最終的には肺から呼気中に捨てられる。その際、効率よく余計な二酸化炭素を捨てるために呼吸が深くなり、その呼吸運動が副交感神経を活発化させるという影響もあるようです。

 さて、そして次は「栄養ドリンク」の話。疲労回復には栄養ドリンクという人も多いが、その主成分は、①タウリン、②ビタミン、③カフェイン、④その他―に大きくまとまられると田中氏はこの記事で説明しています。

 ①のタウリンは肝臓の機能を助けるもの。お酒を飲んで疲れたときに適しているということです。一方、②のビタミンには代謝を助ける効果が期待できる。肉体的に疲れたときになどには効果があるかもしれないと氏は言います。

 そして、③のカフェインです。興奮剤の一種であるカフェインは精神的に疲れたときに適しているが、これは脳を興奮させて疲労感をゴマかしているだけとも言えると氏はしています。④の「その他」の代表選手は漢方薬や乳酸菌だが、いずれにしろ、1本飲んだからといって疲労が完全消滅することは期待しないほうがいいというのが氏の見解です。

 まあ、どれも「気休め」と言われれば気休めに過ぎない。この手のドリンクの最大の効果は、「効くはずだ」という本人の思い込みだろうというのが氏の指摘するところです。

 例えば、氏が試しに飲んでみた多数の栄養ドリンクの中で、最も効いた感じがしたというのが(ヤクルトが製造販売している)「タフマンスーパー」というドリンク剤だとか。元気が出たような気がしたが、これも「高麗人参1000mg」に加え、多くの人参エキスなどが入っている」というラベルを見たことが思い込みに火を付たからだろうということです。

 「病は気から」というのはよく聞きますが、健康に生きるためにもまずは「気持ちが」大切だということでしょうか。まあ、もしも毎日1本の「リポD」が長寿の秘訣になるのだとすれば、それはそれで安いものだと思わないでもありません。


#2500 哀愁の京浜急行

2023年11月23日 | うんちく・小ネタ

 地域を走る鉄道の風景は、その存在が日常的であるがゆえにその地域のイメージと結びつけられることが多いようです。そういう意味で言えば、東京の品川区から大田区にかけての下町の夕暮れ時、沿道を急ぎ足で家路につく人たちを追い抜いていく京急電車などはまさに絵になる光景と言えるでしょう。

 さらには、蒲田を越えたあたりの多摩川の河川敷に沈む夕日や、川崎から横浜の海岸地域にそびえる京浜工業地帯の夜景など、京急には様々に移りゆく東京湾岸地域の景色がよく似合います。沿線の家屋の軒下ギリギリを結構なスピードで駆け抜ける赤い京浜急行。そう、京急と言えばやはり「赤い電車」のイメージが強いのが特徴です。

 赤と白を基調とした塗装は1953年に初登場し、長らく京急の伝統として受け継がれてきたものとのこと。私が子供の頃などは「サハ280系」と呼ばれるおもちゃのような床が木でできた可愛らしい車両も(大師線を中心に)まだ時折走っていて、「戦後」と呼ばれる時代の郷愁を醸し出していました。

 改めて記せば、京浜急行電鉄(略して「京急」)は東京都港区の泉岳寺駅から京急川崎駅、横浜駅を経て神奈川県横須賀市の浦賀駅を結ぶ56.7kmの鉄道です。1899年に旧東海道川崎宿に近い川崎駅(後の六郷橋駅)から川崎大師近くの大師駅(現在の川崎大師駅)間を「大師電気鉄道」として開業し、2018年には創立120周年を迎えた国内でもかなり由緒のある鉄道路線といえるでしょう。

 現在、始発駅となる都営浅草線泉岳寺駅周辺は、隣接する山手線高輪ゲートウェイ駅周辺に行われている再開発事業の真っただ中。札ノ辻交差点に近い1街区から品川駅に繋がる4街区にかけ、泉岳寺駅、高輪ゲートウェイ駅を核に4棟の高層ビルを中心とした近未来的な交流空間が生まれる予定です。

 その泉岳寺駅を出発し横浜・三浦半島方面に向かう快特列車は、500mほどで地上に上がり都心のターミナル駅である品川駅に向かいます。2022年に開業150年を迎えた品川駅。京急電車はここで西に向かう大勢の客を乗せると、羽田空港方面への空港線を分ける京急蒲田駅を経て六郷川橋梁を渡り神奈川県に入っていきます。

 この間の乗り鉄たちのお楽しみは、何と言っても先頭車両。品川駅から八ッ山橋の鉄道橋を大きく車輪をきしませながら曲がっていくダイナミックな車両の動きは他の鉄道では体験できないもの。そして新馬場の駅を過ぎた辺りから続く直線区間に入ると、家並みをくぐる狭い空間を、京浜急行は(その名のとおり)急激に加速していきます。

 さらに線路は高架に上り、赤い電車は京急蒲田駅まで(「これでもか」と言う感じで)ぶっ飛ばします。運転代のスピードメーターは見る見る上がり、時速120kmに届こうというところ。実際、京急電車の子のスピードは首都圏の私鉄の中でも一・二を競う速さだということです。

 京急蒲田駅までジェットコースター並みのスリルを堪能したところで、多摩川を渡ってすぐの場所に位置しているのが京急川崎駅。ここでは大師線が北に分かれ、赤い電車は京急鶴見駅や幕末の「生麦事件」で知られる生麦駅などを経て海岸沿いをさらに西に進みます。

 川崎駅から先、景色は打って変わって親しみやすい古くからの住宅街。たくさんの踏切や小さな駅をやりすごし、間もなく電車は横浜駅に到着します。ここで多くの乗客を降ろした電車は、東京湾沿いに三浦半島の東縁をなぞるように南下。マンションなどの開発が続く上大岡駅や逗子・葉山線に分岐する金沢八景駅、米軍基地のある横須賀中央駅などを経て、線路は終点三崎口駅に向かって伸びています。

 京急蒲田駅の高架化を経て、近年では最高時速120kmの快特が走り「とにかく速い」というイメージが先行する京浜急行。しかし、気分を変えて品川駅で各駅停車に乗り換えると、また違った景色が浮かんでくるから不思議です。

 実はこの京浜急行、優等列車と普通列車の差が首都圏近郊各線で最も大きいことで知られています。確かに京急では、快特と各駅停車は車両の雰囲気からしてかなり違う印象。古い車両が多く編成も短い「普通」(←各駅停車)は塗装もいい感じにくすんでいて、ある意味ほのぼのとした雰囲気を醸し出しています。特に3年ほど前まで走っていた800型などは、がたつくモーター音だけでもそれとわかるのんびりしたものでした。

 その「普通」列車に乗ると、品川から9駅目の梅屋敷(7.2km)まで23〜25分。表定速度(停車時間などを含む地点間の速さ)は実に20kmを下回る17.2kmで、首都圏の通勤電車でも断トツの遅さとされています。一方、「特急」はスイスイと24駅目の横浜(22.2km)まで22分で走り、表定速度は60.5km。同じ時間で行ける距離は3.08倍もの差があるとされています。

 さて、こうして新しさと古さが入り混じった京浜急行は、より庶民的な香りの高い京成線や少しお高く留まった東急の各線、埼玉の田舎っぽさを引きずる西武鉄道や東武鉄道などとはまた違った、独特の味わいを醸し出しているといえるでしょう。

 特に、JRなどで用いられている軌間1.067mの狭軌に対し40cm近くも広い広軌(軌間1435cm)を採用している京急の安定感は抜群で、すれ違うごとに様々な型式の電車がみられることもあって乗り鉄の間では高い評価を受けているということです。

 そう言えば私の周囲でも、そのスピードと運転技術の確かさ、さらには地域密着型の親しみやすさなどから、「首都圏で最も好きな路線は?」と聞かれて胸を張って「京急」と答えるマニアが多い気がします。

 同じ東京23区でも、北部や東部に暮らす人には(羽田空港に行く時くらいしか)あまり乗る機会のない京浜急行は、暑い夏が似合う電車。折からの温暖化で、来年の夏もきっとまた暑い日が続くでしょう。そんな時は是非、冷房のギンギンに効いたかわいい赤い電車の先頭車両に陣取って、三浦半島の海に海水浴にでも出かけてみてはいかがかとお勧めするところです。

 


#2478 女性はなぜ長生きなのか?

2023年10月09日 | うんちく・小ネタ

 「人生100年時代」と言われて久しい昨今、中でも日本は世界で一、二を誇る長寿国とされています。2020年に行われた厚生労働省の調査によれば、女性の平均寿命は87.74歳と世界一。男性も81.64歳で世界2位と、日本の高齢者のタフさは際立っている様子です。

 しかし、そこで気になるのは男女の平均寿命の年齢差が約6歳もあること。長く生きることだけが幸せとは限りませんが、ジェンダー平等が叫ばれるようになったこのご時世に(初老を迎えた男性のひとりとして)何だか不公平な気がしないでもありません。

 実は、女性の寿命が男性より長いのは日本だけではなく世界的な傾向とのこと。WHOが発表した「世界保健統計(2021年)」を見ても、先進国、開発途上国を問わず、ほぼ全ての国で女性の方が長寿だとされています。

 また、女性が男性よりも長生きするようになったのは最近のことではないとのこと。100年以上前の1891年~1898年の資料をみても、平均寿命は男性42.8歳、女性44.3歳だったとのことで、日本でも明治の当初から女性の方が長寿だったことがわかります。

 戦争や事故、犯罪などに巻き込まれるケースが男性の方が多い可能性はあるとしても、総合的な体力や出産などのリスクを考えれば女性だって生きていくのは決して簡単ではないはず。それなのになぜ、女性の方が(こうも明確に)長生きなのか。

 そんな疑問に対し9月4日の経済情報サイト「PRESIDENT Online」が『進化生物学が解き明かした「おばあちゃん仮説」をご存知か』と題し、解剖学者の養老孟司氏と生物学者の小林武彦氏の対談を記録した『老い方、死に方』(PHP新書)の概要を紹介しているので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 動物学的には、子どもを産めなくなった時期、つまりメスの閉経を「老化」、それ以降を「老後」としていると小林氏はこの対談で説明しています。そして、その定義で言えば、ヒト以外の哺乳動物で老後があるのはシャチとゴンドウクジラだけ。ヒトとゲノムが99%同じ寿命40~50歳のチンパンジーでも、死ぬ直前まで排卵があって生殖可能なので「老後」という時期はないということです。

 ではなぜヒトの女性は、50歳前後で閉経した後も30年以上生きるのか。進化学の世界では、その理由の一つを「おばあちゃんは若い世代の子育てを手伝うなどの役に立つから」だとしていると小林氏は話しています。

 これをその世界では(親しみを込めて)「おばあちゃん仮説」と呼んでいるとのこと。ヒトの先祖は今で言うところの類人猿のように、体が毛で覆われていた。変異で徐々に体毛を失い今の姿になったが、そのためヒトの赤ちゃんはチンパンジーやゴリラのように母親にしがみついて移動できなくなったと氏は言います。

 赤ちゃんはそれにより、大人に抱っこされ、世話をしてもらわないと生き残れなくなった。これは親からすれば、子育てに大変な時間と労力がかかるようになったことにほかならないということです。

 そこでおばあちゃんの出番がやって来る。(集団生活の中で)閉経後の女性が、子どもの子育てを手伝う、あるいは子どもに代わって孫の世話をするという使命を担う必要が生じた。閉経したからといって人生を終わりにするわけにはいかず、結果、ヒトは老後の人生を生きることになったというのが氏の見解です。

 これはおそらく、男性(「おじいちゃん」)も同じだったろうと氏はしています。生物学的に言えば、「おばあちゃん」や「おじいちゃん」が長生きな家庭が、より子どもを多く残せて選択されたということ。子育ての期間が長くまた、子供に手がかかったからこそ、じいちゃん・ばあちゃんの手と知恵が求められたということでしょう。

 また男女を問わずシニアには、若い世代の子育てを手伝うことに加えて、社会をまとめるという重要なミッションがあったと氏は続けます。

 シニアがこれら2つの役割を果たしたことが、結果的に乳幼児の生存率を上げ、同時に生き延びるのに有利な集団が形成されていった。繁殖能力を失い老化した後も社会の役に立つ人たちのいる集団が生き残り、彼らの子孫としての私たちが存在しているというのが氏の認識です。

 なので、現代人の寿命が(さらに)ここまで延びたのは、シニアが社会に求められて存在しているおかげだと見ることができると小林氏はここで指摘しています。求められているからこそ長生きしている。逆に言えば、人間のシニアには求められている役割をしっかり果たす必要があるということでしょう。

 だから私自身は、年齢で一律に解雇する「定年制」には反対だと氏は話しています。辞めたかったら定年を待たずに辞めて、ほかのやりたいことをやってもいいし、会社に残って働きたい人は仕事を続ければいい。(高齢化が進めば進むほど)定年制の名の下にシニアを排除していくようなシステムはあってはいけないと考えるということです。

 この社会では現在、一生懸命働いているシニアに向かって「老害」と揶揄したり、社会から排除しようとしたりする向きが一部に起こっている。しかし、誰だってやがて年を取るのに、そういう見方はないだろうと氏は言います。

 シニアが社会基盤を整えて、そのうえで若い人が自由にイノベーティブに生きる。そういう2層構造があるからこそ、人間の社会は高い生産性を達成でき、発展していくものではないか。

 若者だけだったら、自分たちが欲望のままに暴走するのを誰も止められず、社会の秩序が乱れてしまうかもしれない。(そんな社会に)いいことはあまりないように思うと話す小林氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2477 日本のおいしい水道水

2023年10月07日 | うんちく・小ネタ

 夏の暑さもピークを迎える毎年8月1日は、「水の日」とのこと。この「水の日」から1週間が「水の週間」とされており、水道事業の啓発などを目的に全国的で様々な行事が実施されているということです。そんな水の日を前に、総合情報サイト「All About」が7月中旬、全国の10~70代の1000人を対象に行った「飲料水・水道水」に関するアンケート調査の結果が7月30日の同サイトに掲載されました。

 この調査結果からわかったのは、普段飲んでいる飲料水としては「水道水(そのまま)」が34.1%。次いで、「ペットボトルの水」が26.7%、「水道水(浄水器使用)」が25.4%と続き、約6割の人が普段から「水道水」を飲んでいるということ。ペットボトルのミネラルウォーターがこれだけ普及している状況をみると、「案外多いな…」と思わないでもありません。

 また、水道水を「そのまま」もしくは「浄水器を使用して」と回答した人が多かったエリアは、「北海道」が60%でダントツのトップ。次いで「中国・四国」(45.36%)、「中部」(41.67%)と、やはり(水のきれいな)地方部の方が高いような印象です。もっとも、同調査における「ペットボトルの水をよく飲む」ランキングでは、1位が「東北」の32.39%、2位が「関東」の31.13%、3位が九州・沖縄の27.38%ですので、まあ「よくわからない」ということもできるかもしれません。

 ともあれ、水道の蛇口をひねって流れ出た水をそのまま飲むことができるこの日本は、世界的に見れば極めて恵まれた状況にあるといえそうです。国土交通省の資料によれば、世界の国のうち、「水道水をそのまま飲める国」は日本を含む12ヵ国のみ。「そのまま飲めるが注意が必要な国」を含めても32ヵ国とされています。

 アジアで水道の水が飲めるとされているのは、日本とアラブ首長国連邦の2ヵ国のみ。ヨーロッパは水道水を利用できる国が多いエリアですが、カルシウム分の多い硬質の水は日本人には合わないと言われています。カナダやアメリカでは水道水を直接飲む習慣がなく、アフリカでは衛生面の問題から(現地の人以外は)ミネラルウォーターの購入がおすすだということです。

 様々な条件の下、水道設備のようなインフラ整備には大きな投資が必要なことは言うまでもありません。政府の資金が乏しい国、技術があっても国土が広い国などでは、(インフラを隅々まで整備するよりも)水は買って飲むという選択を採ること現実的だということでしょう。

 もちろん世界の中には、多くの子供たちが飲料水を原因とする下痢で命を落としたり、女性たちが毎日半日かけて井戸まで水を汲みにいかなければ生活が成り立たたない地域があるのも事実です。水道水として日常的な飲料可能な水を提供できるということは、(環境に恵まれた)我々が思っている以上に重要なことなのかもしれません。

 さて、(ともあれ)日本の水道水がどこよりもおいしいのは、海外に出かけたことのある人ならわかるはず。9月4日の経済情報サイト「ITmedia ビジネスオンライン」では、ユーザーが選んだ(その中でも)えりすぐりの県を紹介しているので、参考までに小欄でも紹介しておきたいと思います。(「水道水の満足度調査を実施、結果は…」2023.9.4)

 蛇口からそのまま飲めることを売り物にする自治体も増えてきた水道水。水道水の満足度が高い都道府県の1位は「長野県」(満足度86.7)であることが、ホワイトループ(東京都渋谷区)の調査で分かったと記事は記しています。2位は「青森県」の満足度83.3。以下「鳥取県」の80.0、「熊本県」の77.8、「新潟県」の75.9、山梨県の75.0と続いたということです。

 長野と言えば北アルプスや中央アルプス、青森は奥入瀬渓谷、鳥取は大山、そして新潟は越後の雪解け水や山梨の南アルプス天然水など、確かにどの県もきれいな水源には事欠かないことでしょう。実際、回答者からは「子どもから大人までみんな水道水の水をそのまま飲む」(長野県、40代男性)、「蛇口をひねるとミネラルウオーターサーバーが出てくるような感覚」(青森県、40代女性)といった声が挙がっているということです。

 一方、水道水の満足度が低い都道府県の1位は、「沖縄県」(同18.8)とのこと。以下「山口県」(同21.4)、「長崎県」(同25.0)、「奈良県」(同26.7)、「和歌山県」(同28.6)、「東京都」(同33.7)と続き、結果から見れば水道水の評価は西日本でやや低いといった印象です。

 なお、自然が豊かな沖縄の水道水の満足度が低い理由として、調査を実施したホワイトループ社は「水道水に適した軟水の水源がそもそも少ないことがある。海に囲まれていることからミネラル分が多く、水の硬度が高すぎて日本人がおいしいと感じにくいのではないか」とコメントしているということです。

 ともあれ、山奥の限界集落から沖縄の離島に至るまで、飲料可能な水道がしっかり整備されているのが日本の行政のすごいところ。昨今では浄水場や管路網などの老朽化が進みその維持もかなり大変なようですが、いつの時代も水道は最重要の生活インフラ。ここはひとつ、役所の意地を今後も示してもらいたいと感じるところです。

 因みに、私が最もおいしいと感じたのは、静岡県の三島市の水道水。この地域の水道水はすべて地下水を源としており、富士の雪解け水がもたらす湧水群がある柿田川近辺で取水されています。各家庭に供給されている水はまろやかな軟水で、水温は16度前後で安定。pH値も申し分なく、この水で飲む水割りは最高だったと(特に)記しておきたいと思います。


#2415 生成AIのリスクとは?

2023年05月25日 | うんちく・小ネタ

 国内外の企業の間で、対話型の人工知能「チャットGPT」などの(いわゆる)「生成AI」を活用する動きが広がっていると報じられています。

 現在注目されている「生成AI」とは、インターネット上などの膨大な情報を基に、あたかも人が作ったような文章や画像などを作成する機能を備えた人工知能のこと。業務の大幅な効率化につながると期待される一方で、セキュリティや著作権の取り扱いの問題なども指摘されており、リスク管理のための制度の方が追い付いていない印象も受けます。

 実際、4月末に群馬県で開催された主要7カ国(G7)デジタル・技術相会合では、「責任あるAI」の推進が共同声明に明記され、個人情報の保護や偽情報に対処するルール作りが必要との認識で一致したものの、日米や欧州諸国で認識の差が大きく具体的なルール作りには踏み込めなかったとされています。

 なお、大臣会合での議論を受け、先般閉幕したG7広島サミットの首脳声明には、「チャットGPT」に代表される「生成AI」について「年内に国際ルールを取りまとめる」との目標を定めるとともに、「民主的価値に沿った信頼できるAIを達成するために国際的な議論を進める」と明記されることとなりました。

 今後、担当閣僚による協議にあたっての枠組みである「広島AIプロセス」を新たに立ち上げ、生成AIの利活用や規制のあり方などに関する見解を年内に取りまとめるということです。

 誰にでも気軽に利用できる、まさに身近な存在になるであろう「生成AI」.。しかし、それはそれで「両刃の剣」のようなもの。汎用性の高さ、利便性の高さを活かすためにも、国際間で多くルールを定めておく必要があるということでしょう。

 いよいよ現実のものとなってきた「生成AI」を巡るこうした状況を踏まえ、5月1日の時事通信が、「企業に広がる生成AI リスクを管理、効率化へ先取り」と題する記事において、件の「生成AI」の潜在的なリスクを整理しているのでこの機会に紹介しておきたいと思います。

 蓄積された多くのデータから、人の手を介さずに高精度な文章や画像を生成する生成AI。インターネット上に公開された情報を学習して生成した人工的な画像やイラスト作成には、(まず)著作権侵害などの可能性が指摘されていると記事はしています。

 また、生成AIはそれ自体、誰でも簡単に使える反面、間違った情報を拡散する危険性や偏見を助長する懸念もあり、(悪意なく)生み出された偽情報が社会に混乱をもたらすといった「脅威論」は相当に根強いということです。

 こうした不安感から、イタリア当局が3月末、データ利用の扱いを問題視して米オープンAIの「ChatGPT(チャットGPT)」の国内利用を一時禁止したのは記憶に新しいところ。また、企業によっては、機密情報を入力しないなどのルールを設けるところも多いということです。

 そうした中、記事は生成AI導入に当たってのリスクについて、以下の5つに整理しています。

 その一つ目は「ハルシネーション」というもの。ハルシネーションとは、AIモデルが事実とは異なる不正確な回答を生成する問題を指す言葉です。

 AIモデルは、意識を持った人間ではなく、あくまで訓練とデータにのみ基づいて回答を提供するためこのような問題が発生する。訓練に使われるデータが、偏った回答や的外れな回答につながる可能性があり、特に生成AI製品が信頼され活用されるようになればなるほど、誤りを発見することは難しくなるというのが記事の指摘するところです。

 二つ目は、(広く知られた)「ディープフェイク」が生まれるリスクです。ディープフェイクとは、生成系AIを使用して、実在する人間の特徴を模倣した偽りの動画や写真、音声を作成すること。ハルシネーションと同様、ディープフェイクは偽のコンテンツや誤った情報の拡散につながり、深刻な社会問題を引き起こす可能性があるというのが記事の見解です。

 そして三つ目のリスクは「データプライバシー」の問題だと記事は指摘しています。 生成系AIでは、大規模言語モデルの訓練のためにしばしばユーザーデータが保存される。このデータプライバシーに対する懸念が、イタリアがChatGPTを禁止した最大の理由であり、同国は、①データ収集についてユーザーに適切な情報提供がなされていないこと、②大規模なデータ収集を正当化する法的根拠がないこと、および③年齢確認がされていないこと…などを懸念材料として挙げているということです。

 そして四つ目に挙げられているのは、「サイバーセキュリティ」に関するリスクです。 生成AIモデルはコーディングなどの高度な能力を備えるが、悪用されて、サイバーセキュリティの懸念を引き起こす可能性がある。より高度なソーシャルエンジニアリングやフィッシング攻撃に利用されたり、攻撃者が悪意あるコード生成を簡単に行うために生成系AIを利用する可能性もあると記事はしています。

 そして五つ目、最後のリスクとして記事は「著作権の問題」を挙げています。生成 AIモデルは、インターネット上にある大量のデータを使用して回答を生成するため、著作権も大きな懸念材料となる。原作者が明示的に共有していない作品も使用して新しいコンテンツを生み出すため、(どこまでが許容されるのか)コピーライトの在り方に関する新たな議論が必要だということです。

 さて、こうしてみてみると、親しみやすく簡単に扱えそうに見える「生成AI」も、(初めてこの技術に出会った)人間の方にはまだまだいろいろな準備が必要だということが判ります。実際、私もお試し版のChatGPTを使ってみましたが、本格的な利用には相当のトレーニングが必要だろうなと強く感じているところです。

 とはいえ、遠い将来、人類のパートナーともなりうべきAIとのおつきあいは、まだまだ始まったばかりです。善意も悪意も持たない彼らに、我々は一体何を教え込んでいくのか。この技術を生かすも殺すも、私たちの心がけ次第と言うことでしょうか。


#2409 かかりつけ医の選び方

2023年05月13日 | うんちく・小ネタ

 いつでも、誰でも、どの医療機関でも、同じ値段で必要な医療サービスを受けられることを建前とする日本の医療制度。普段は(当たり前すぎて)あまり有難いとも感じませんが、こうした制度を有する国は世界の中でもそんなに多くはありません。

 おさらいをすれば、日本の医療制度は、①国民全員に公的医療保険への加入を義務付ける「国民皆保険」、②誰もが保険証1枚さえあれば医療機関を自由に選ぶことができる「フリーアクセス」、そして③窓口負担だけで診療や薬の給付などの必要な医療サービスを平等に受けることができる「現物支給」…の3点に特徴づけられるとされています。

 中でも、患者が望めば、病院でも診療所でも自由に受診医療機関を選べるフリーアクセスを採用している国は案外少なく、多くの先進国では、医療機関受診に関してかなり厳重なアクセス制限をかけている例が多いようです。

 患者が自由に自分の信ずる医療機関を選べるフリーアクセスは、患者にとってはありがたい制度のように感じますが、総合的に見れば良いことばかりではないのも事実です。

 例えば、多くの人が「軽症」であるにもかかわらず大病院を受診したり、軽い病気で救急車を利用したりすれば、結果として医療従事者の疲弊を招くリスクが高まります。また、(需給の偏りによって)限られた医療資源の利用に無駄やロスが増え、それが医療費の高騰につながっているという指摘もしばしばなされているところです。

 しかし、そうはいっても現在の日本の制度が「そういうもの」になっている以上、これを上手く使わない手はありません。人は誰でも(同じお金を払うなら)より良いサービスを受けたいもの。少しでもいいお医者さんを選びたいと考えるのは、(市場原理から見ても)当然のことと言えるでしょう。

 それでは、件の「いいお医者さん」はどのように選んだらよいのか。なかなか素人には判断し難いこの問いに関し、作家で精神科医の和田秀樹氏が4月19日の「PRESIDENT ONLINE」に、『これの有無で「いい医者か」がわかる…医院の待合室で真っ先に確認すべき"備品の種類"』と題する一文を寄せているので、参考までにそのポイントを残しておきたいと思います。

 「かかりつけ医」を選ぶときに、注意したい点の第一。当たり前のことだが、まずは「通いやすい医院」を選ぶことだと氏はこの論考に記しています。

 通院にかかる時間もそうだが、待ち時間や駐車場の様子も重要な要素となる。「評判がいいから」「知人にすすめられたから」といっても、診療を受けるまでに時間がかかる医院は、避けたほうが賢明だというのが氏の最初のアドバイスです。

 そして、さほど苦労をせずに通えそうな医院に目星をつけたら、足を運ぶ前に、まずは電話を一本かけてみること。質問内容は「駐車場の様子」や「何時頃、すいているか」などの無難なものでいいと氏は言います。

 もしも、そんな(簡単な)質問に対して医院側の対応がぞんざいであれば、それはやる気がないか、人手不足で電話をとるのも大変という状態だということ。いずれにしても、避けたほうが賢明だというのが氏の意見です。

 次に、医院に着いたらまず確認してもらいたいことがある。それは、待合室に空気清浄機や加湿器があるかどうかだと氏は話しています。

 それらは、院内感染を防ぐための必需品。見当たらないようなら、感覚が古く、配慮の足らない医院とみてかまわない。清潔で整理整頓が行き届いているか、働いている人がハツラツとしているかなどと併せて観察してみてもらいたいということです。

 次に、肝心の医師について。診察室に入ったら、患者側からも医者をよく「診察」しようと和田氏は提案しています。

 そこでの一番のポイントは、患者の話をよく聞くかどうか、治療方針や薬についてきちんと説明するかどうかという部分。とりわけ、高齢者に対しては、(多少心得のある臨床医なら)「過去の病歴」を詳しく聞くはずだということです。

 そして、それ以上に大切なのが、待合室の患者さんたちの様子だと氏は言います。

 診療を待つ患者さんたちが元気であれば、患者に合わせ適量の薬を出す医者で、そうでなければ薬を出しすぎる医者だと考えられる。これらのことは「歯科医」を選ぶ場合も同様で、歯科医の場合は、「保険治療と自費治療」について詳しく説明をしてくれるかどうかもについても評価のポイントになるというのが氏の見解です。

 患者と話しをする際もパソコンのディスプレイから目を離さず、症状に対処するための薬を出せば自分の仕事はそれで終わり。きちんと服用しているかどうかなどには興味のない医師も多いと聞きます。

 患者の症状だけでなく、既往や日常の食事や暮らしぶりにも関心を示し、個人の状態を意識したうえで生活のアドバイスに乗ってくれること。素人にはなかなか難しい部分はありますが、それでも(良い医者を見極める)ポイントはいくつかあるのだなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。


#2388 「悟り」はどこにあり、何をもたらすのか?

2023年03月29日 | うんちく・小ネタ

 「宗教は人を幸せにするのか?」…こうした問いに対する明確な答えを、少なくとも日本人の多くは未だ持ち合わせていないようです。

 普段は知られることのないオウム真理教などのカルト宗教の実態や、(最近では)統一教会の権力との癒着、(「幸せになりたい」という)人の心の弱さにつけ込んだ布教の様子などがしばしば報道される昨今。不遇にあえぐ人を社会とは隔絶された空間に囲い込み、教団の利益を最優先する「洗脳」によって無抵抗の信者に変えていくその手法に、こうした問いの難しさと闇の深さを感じるばかりです。

 とは言え、「信仰」を持つことが、私たち弱い人間にとって社会の在り方や人生の大きな進路を示すものになっていることは歴史が証明する通りです。

 迷い苦しんだ時に人々の道標となり、どうにもならない不安や苦しみに傷ついた心を救ってくれる存在。また(例え)そうした追い詰められた状況になくても、日々の生活を導き理想と現実のギャップや欠落感を埋めてくれるものとして、信仰は人々を支えていると言えるかもしれません。

 そうした個人による「信仰」(への努力)が、最終的に目指しているもの。それが「悟り」の体験であることは、多くの宗教に共通していると言っても良いでしょう。

「悟り」とは、修行や信心によって神様や仏様の境地に近づくということ。凡俗から逃れ、宇宙の真理たどり着くことで究極の平安を得たいと考えるのは、「生」というものに多くの不安を抱える人間の、まさに「業」のようなものかもしれません。

 人はどうすれば幸せになれるのか。こうした根源的な問いに答えるために研究を進める科学者の話が1月26日の「Forbes JAPAN」に掲載されていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。(『薬物を使わない「自発的な覚醒体験」を探求する最新研究』2023.1.26)

 世界的な評価の高い心理学の学術誌『Frontiers in Psychology』に掲載された新しい研究は、自発的な覚醒(悟り)という曖昧な現象を探求している。英国グリニッジ大学の心理学者ジェシカ・コルネイユはその論文において、「スピリチュアルな覚醒とは、認識された究極の現実、宇宙、宇宙意識、または神との直接的な接触、結合、もしくは完全な一体感の体験を突然感じることを特徴とする主観的な体験」と定義づけていると、記事はその冒頭に記しています。

 実際、スピリチュアルな覚醒(の体験)については、文化圏を跨いだ膨大な逸話的証拠があるにもかかわらず、主流の心理学においてほとんど研究が進んでいない。一方、スピリチュアルな覚醒は双極性障害や統合失調症などの精神障害に見られる特定の症状と重なるため、医学界では通常、病的なものとして扱われていると記事はしています。

 コルネイユによれば、スピリチュアルな覚醒は、例え関連する診断可能な精神的疾患がなくても、「単独の体験」としてしばしば起こることがあるとのこと。さらに、逸話的証拠によれば、スピリチュアルな覚醒は多くの長期的なポジティブな結果をもたらすことが示唆されているということです。

 このような「覚醒」によってもたらされる(ポジティブな)影響には、①精神的・肉体的なウェルビーイングの大幅な改善、②親社会的および親環境的な行動の促進、③精神病理的傾向のリスク軽減などがあるとコルネイユは述べているということです。

 その具体的な心理的・霊的変化には、例えば

  1. 意識が現実の客観的なフィルターにかけられない性質として認識するものについて、内なる深い知見または理解の感覚を経験する。これは通常、宇宙のすべての人、すべてのものとの相互関係の深い感覚をともない、しばしば感謝、エクスタシー、至福、畏敬の深遠な感情を引き起こす
  2. 不安や恐怖、特に死への恐怖が減少する
  3. 超感覚的知覚の強化、例えば、偶然の一致の増加、自分の人生に望むものを引き寄せる能力が亢進する
  4. 精神的・身体的なウェルビーングの増進(慢性的な痛みがなくなったという報告など)や社会性の向上「使命感」または無私の奉仕をしたいという気持ちが高まるとともに、自然の中でより多くの時間を過ごしたいという気持ちなど環境保護的な行動が増加する
  5. 物質主義への関心が薄れ、人間関係や進路の変化などが具体的に変容する

などが(共通する)特徴として挙げられるということです。

 さらに、コルネイユの研究では、スピリチュアルな覚醒は次のような要素と深い関係性が認められることを指摘していると記事はしています。

 それは、①感情的感受性、開放性、創造性、共感性、好奇心の高さ、② 「トランスリミナリティ」と呼ばれる内的外的物質が意識の閾値を越える傾向(トランス状態への親和性)、③催眠術にかかりやすい、空想癖…など。

 そしてコルネイユは、この特性は、「詠唱、祈りなどの共同的反復活動や、向精神薬の摂取などによる恒常性のバランスのくずれ」によって増大することがあるとしていると記事は指摘しています。

 加えて、論文では、側頭葉てんかんに特徴的な症状を示す側頭葉不安定性が、スピリチュアルな覚醒を予測することにも触れているとのこと。側頭葉てんかんは、すでにスピリチュアルな体験と関連づけられており、宇宙的、あるいは神のような存在やエネルギーを強く感じたり、無限とのつながりを深く感じたりするなど、スピリチュアルな覚醒と特徴を共有しているということです。

 一方、記事によれば、このような精神状態は(DMT、LSD、MDMA、大麻などの)薬物による変容状態や(浮遊タンク、無響室暗室、ホロトロピックブレスワークなどを利用した)非薬物による変容状態と一連の感情を共有しているとのことです。

 しかし、ユイネルは研究の成果として、スピリチュアルな覚醒のほうがより深い経験であると報告している。さらに、スピリチュアルな覚醒は、神秘体験を引き起こす強力なサイケデリック物質であるシロシビンやDMTによって生じる変容状態に、最も類似していることも判ったということです。

 さて、記事によれば、コルネイユはこの論文の最後に、スピリチュアルな覚醒に関するこうした研究の意義を「このような経験は、私たちに別の生き方を示している」と話しているということです。

 彼女はそれを「生命に対する畏敬の念と献身、そして愛を育むことへの深い願望に満ちたもの」と説明しているとのこと。で、あれば、もしもこうした(慈愛に満ちた)「悟り」の境地を科学的に解き明かすことができれば、人類は現代社会を突き動かしている「利益」や「合理性」を超えた新しい社会規範を獲得できるかもしれません。

 個人という枠を超えて意識を広げ、宇宙や生命が存在することの「意味」を(ある意味)納得することは、人間として生きるに当たっての価値観や世界観の変容にも繋がっていくはず。(「荒唐無稽」と言ってしまえばそれまでですが)個人の幸福感はもとより、人間社会全体を根底から大きく変える可能性を秘めているのではないかと、記事を読んで私も改めて感じたところです。


#2387 幸せに生きるための(案外お手軽な)方法

2023年03月28日 | うんちく・小ネタ

 1月の前半の日本経済新聞の経済コラム「やさしい経済学」に、京都大学総合人間学部准教授の柴田悠(しばた・はるか)氏が『幸せに生きるために』と題する興味深い連載を残しています。

 幸福を感じることはそれ自体で価値のあるものだが、それぞれの個人に対しても(実際に生きていくうえでの)さらなるメリットをもたらすと氏はこのコラムに綴っています。

 米カリフォルニア大学のソニア・リュボミアスキー教授らの研究などによれば、幸福感がより高い人は、例え生活水準などが同じでも、他人の利益を意識した行動に向かう傾向や仕事の質・満足感・収入がより高く(収入は約20パーセント増加)、人間関係はより豊かだったとされている。さらに、負傷や疾病、死亡のリスクがより低く、寿命が7.5年ほど長いことも分かったということです。

 また、「幸福感」の研究を進める関西福祉科学大学の島井哲志教授は近著において、「各瞬間の幸福感」ではなく、「後で幸福感をもたらすような行動や経験」が人の行動や考え方に大きな影響を及ぼすことを示唆していると柴田氏は語っています。

 人はどうすれば幸福になれるのか。それ自体は人文科学が追い求めている究極の目標なのかもしれませんが、実は日常的な行動の中で試せる案外簡単な方法によって、私たちも(自身の)幸福感を高めることができるというのがこのコラムにおいて氏の指摘するところです。

 その一つ目は、毎日の食事を「味わって食べる」ということ。カナダのブリティッシュコロンビア大学ヤン・コーニル准教授らの調査では、味わって食べる習慣は学歴や所得とは有意な関連はないが、幸福感とは有意な正の相関があることがわかったと氏は言います。

 つまり、学歴や所得にかかわらず、この習慣が顕著な人は幸福感が高い傾向があるということ。もちろん、味わって食べることで幸福感が高まるのか、幸福感が高いから(日々の糧に感謝して)味わって食べるのかは分かりません。しかし、味わって食べていない人からは「幸せ」が逃げて行ってしまうというのは何となくわかるような気もします。

 因みに、この習慣と肥満の程度は(必ずしも)相関していないと氏は話しています。むしろこの習慣が顕著な人は、(有難いと思い噛みしめている分)小食の傾向が強いということです。

 幸福感を高めるための二つ目の方法は、「経験を味わうこと」だと柴田氏はこのコラムに記しています。

 カナダのビクトリア大学のポール・ホセ准教授らのグループの調査では、この傾向が強い人は、ポジティブな出来事が少なくても(つまり「上手くいかないこと」が続いても)、多い人と同程度の高い幸福感を感じていたということ。しかも、「ポジティブな出来事が多くてもそれを味わうことのない人」と比べ、幸福感が有意に高かったということです。

 詳細を見ていくと、「経験を味わう」ことのない人はポジティブな出来事の頻度によって幸福感が影響を受け、一喜一憂していたと氏は説明しています。一方、経験を噛みしめ味わえる人は、(「気持ちいいね」とか「辛いね」などと)他者とその感情を共有することなどによって、自身も救われることが多かったということです。

 そして、幸福感を高める三つ目の方法は、「自然と触れ合うこと」だと氏はしています。

 米アラバマ大学のホセ・ユン教授らの調査によれば、自然の豊かな公園で20分以上の時間を過ごすと、活動量とは無関係に幸福感が高まることが判ったとのこと。また、シンガポール国立大学のリ・二エム氏らの実験では、自然公園で20分以上歩く場合、①より長時間歩く、②自然とのつながりを感じる感性が強い、③公園が混雑していない、④公園の動物多様性が高い…場合ほど幸福感を高めることが示されたということです。

 自然との繋がりや自然の多様性を感じながら自然豊かな場所でできるだけ長い時間を過ごすことが、人間に幸福感をもたらすということでしょうか。人もやはり自然の中から生まれ出でた「生物」のひとつであり、対人ストレスの中で傷ついた心が、多様性の高い自然に触れ合うことで「癒される」というのは一つの道理かもしれません。

 今日からでも実践できるこれら三つの方法で誰もが必ずしも幸せになれるとは思いませんが、人生を「流す」のではなく、経験をきっちりと受け止め、自身の感情をひとつひとつ確認しながら生きることが、(もしかしたら)「幸せ」の近道なのかなとコラムを読んで私も改めて感じたところです。


#2372 あなたも寄生虫に操作されている(かも)

2023年02月28日 | うんちく・小ネタ

 寄生生物が、宿主の行動を自らの都合に合わせて変化させる現象を「宿主操作」と呼ぶそうです。多くの寄生生物は、生活環(ライフステージ)に合わせて宿主を乗り換える必要があり、そのためには宿主の行動を変化させて適切な時期に移動の機会を確保しなければならない。このため、宿主の利害を無視して行動を操り、時には死に至らしめることも厭わないということです。

 例えば、水の中では泳げないはずのカマキリの中に、自ら水に飛び込んで死んでいく個体が多いのは広く知られるところ。その原因は、体中に寄生したハリガネムシにあると言われています。

 子どもの頃、車に轢かれたカマキリの死骸などとともにしばしば見かけたハリガネムシは、昆虫に寄生する類線形動物の一種で、日本でも14種が確認されているそうです。ハリガネムシは水中でのみ交尾と産卵をおこない、宿主を転々と移動しながら成長するという生活史を持っている。このため、カマキリに寄生した個体は、機会を図って水に戻る必要があるということです。

 ではどうするか。ハリガネムシは、本来、陸でしか生活しない宿主昆虫の脳の神経細胞を(特殊なタンパク質で)混乱させ、きらきらとした光を追うように仕向ける。こうして水辺に近づいたカマキリは、次々と水に飛び込んでいくとされています。ウソのような本当の話ですが、こうした寄生虫による宿主のコントロールは、複雑な神経細胞を持つ哺乳類でも確認されているようです。

 12月20日の「Newsweek日本版」への科学ジャーナリストの茜 灯里(あかね・あかり)氏の寄稿『2022年に話題となったイヌにまつわる研究』の中から、日本も含め世界中に分布する寄生性原虫生物のトキソプラズマの生態について(少しだけ)紹介しておきたいと思います。

 ネコからヒトへと感染することがあるトキソプラズマは、胎児に水頭症、視力障害、脳内石灰化、精神運動機能障害を起こす可能性がある先天性トキソプラズマ症の原因になるため、妊婦がとくに気をつけるべき寄生虫として知られている。

 一方、米モンタナ大学のコナー・マイヤー氏らの研究チームは、そんなトキソプラズマに寄生されたオオカミは群れのリーダーになる確率が高く、群れから離れた『一匹オオカミ』になる可能性が高いことを示したと茜氏はこの論考に記しています。

 研究チームは、世界遺産のイエローストーン国立公園にいるハイイロオオカミ229頭(オス116頭、メス112頭、両性具有1頭)の血液を採取して分析。ネコ科大型獣ピューマが生息している同公園での感染率は(雄・雌大きな差はなく)27.1%で、ピューマの排せつ物などを通じて約4分の1が体内にトキソプラズマを宿していることを確認しています。

 そして(ここからが面白いところなのですが)、同チームが「感染している」オオカミの行動を追跡したところ、感染したオオカミが群れのリーダーになる確率は、感染していない個体と比べて46倍高いことが分かったと茜氏はしています。また、感染したオオカミが「一匹オオカミ」になる確率が、そうでないものと比べて11倍高いことも分かってきた。こうした結果から見て、体内に寄生したトキソプラズマが宿主であるオオカミの脳に影響を与え、行動を変容させた可能性が高いということです。

 (ネコ科の動物を最終宿主とする)トキソプラズマに感染すると、ネズミはネコへの嫌悪感や警戒心が薄れて(大胆な行動をとるようになり)、ネコに捕食されやすくなることが知られていると氏は言います。また、感染したネズミは、異性から選ばれやすくなることも研究によって分かっているということです。

 因みに、ヒトがトキソプラズマに感染すると、テストステロンやドーパミンなどのホルモンの分泌量が増加して自信にあふれた態度をとるようになり、異性から魅力的と評価されることが多いという先行研究もあるとのこと。研究チームは、オオカミのケースでも、性格や行動に同様の変化が起きた可能性があると考察しているということです。

 胎児の時は忌避すべきトキソプラズマの感染が、成人では異性にプラスの評価を得るきっかけになり得るというのも奇妙な話だが、寄生虫が個体を増やして繁栄するための戦略と考えれば納得できると氏はこの論考の結びに指摘しています。

 もしかしたら、貴方の隣にいる魅力的な男性は、ただ単にトキソプラズマに操られているだけかもしれない。そして、もしも急に、そして衝動的に(例えば水に飛び込んだり)普段と違ったことをしてみたくなったら、寄生虫の存在を疑ってみる必要があるかもしれないのかと、茜氏の論考を読んで感じたところです。


#2326 「自撮り」をする人、しない人

2022年12月29日 | うんちく・小ネタ

 今年の夏、久々に大学時代からのつきあいの悪友(男性)と旅行に行きました。車で北海道をぐるっと回ったのですが、その時驚いたのは、彼が記念写真に(いつもと言ってよいくらい)自分を写しこんでいること。

 「自撮り」というのでしょうか。昭和新山や小樽の運河、細川たかしの銅像などをバックに、スマホを持った手を思いっきり伸ばしてパチリと一枚。現在中学生と大学生の二人の子供を持つ彼によれば、どうやら世の中ではそれが普通の家族のお作法だということです。

 私も写真は撮る方なのですが、(顔に自信がないせいか)自分が映り込んでいる写真を撮った記憶がほとんどありません。カメラを手にしても、撮るのは風景や花や動物ばかり。以前、家人から「(万が一の時に)遺影に困らないよう、年に1枚くらいは自分の写真を残しておいて」と言われたのを思い出します。

 スマホが普及するようになって既に10年余り。(そう言えば)SNSを覗けば老若男女に関係なく、楽しげな自撮りの写真が何十枚と並んでいます。「習慣」と言ってしまえばそれまでなのでしょうが、日本人はいつから(こんなにも)自分の写真を公衆の面前にさらすことに抵抗がなくなったのか。

 そんなことを感じながらLINEで送られてきた写真を眺めていたところ、(今から少し前の)10月8日のYahoo newsに、コラムニストの荒川和久氏が寄せていた「自己肯定感がない人に多い「自分の写真の顔が嫌い」という現象の正体」と題する一文を思い出しました。

 突然だが、皆さんは自撮りの写真を撮るだろうか?撮る人、撮らない人、様々だと思うが、女性と男性のインスタグラムを比較すると、おもしろい違いが見えると氏はこのコラムに綴っています。

 女性のインスタには、どこに行ったとしても、何を食べたとしても、多くの場合自分が写っている。顔とは限らず手や足だけの場合もあるが、(いずれにしても)どこかに必ず自分をフレームの中に写しこむ傾向があると氏は言います。

 一方、(氏によれば)男性の場合、自分が食べた(大盛ラーメンなどの)写真や自分が行った(秘境などの)場所の写真、スポーツカーやバイクなどの趣味や(希少な)愛用品の写真などが多く、自分の姿はおろか人を写した写真すら少ないのが普通だということです。

 これは、女性は「写真の中にいる自分」を承認してほしいのに対し、男性は、「自分の行動」を認めてほしいから。つまり、女性が承認してほしいのは自分そのものであり、男性が承認してほしいのは自分の成し遂げた仕事だからだと氏は話しています。

 これはある意味、男性が「自己有能感」に支配されていて、「何かを成し遂げていない自分は否定しがち」という自己肯定感とも合致する。何かを成し遂げた自分は誇らしげに自慢したい反面、何も成し遂げていない、単なる日常の自分には価値を置いていないからだということです。

 そのためか、男性の多くは、何か特別な達成でもない限り写真に自分の姿を入れたがらない。また、女性に比べて自撮りもしない。人知れず自撮りをしているかもしれないが、そもそも、自撮りに限らず、自分の写真の顔があまり好きではないというのが氏の指摘するところです。

 それではなぜ、(男性は)自分の顔が嫌いなのか?実は、「自分の写真が嫌い」ということと自己肯定感とは相関があると氏は言います。

 これは別に、男性の容姿の造作の問題ではない。傍から見ると「イケメン」でも、自分の顔が嫌いという人はいるし、逆に「そうでもない」容姿でも自分の顔が嫌いではない人は多い。実は「自分の写真が嫌い」と感じるのは、容姿の良し悪しではなく、「自分の写真の顔にあなたが慣れていない」からだというのが氏の認識です

 さて、人が(見た目の)好き嫌いを決める要素の一つに、「ザイオンス効果(単純接触効果)」というものがあるそうです。ザイオンス効果とは、1968年に、アメリカの心理学者ロバート・ザイオンスが発表した心理現象のこと。同じ人や物に接する回数が増えるほど、その対象に対して好印象を持つようになるということです。

 音楽にもそれは当てはまり、聞かせれば聞かせるほど人はその曲が好きになる。テレビで繰り返し流されるCMとのタイアップでメガヒットが生まれるのは、接触機会が増えることで無意識に好きになってしまうためだと氏は説明しています。

 氏によれば、当然、恋愛感情にもザイオンス効果は影響するということです。最初、なんとも思っていない相手でも職場などで毎日顔を合わせているうちに好きになってしまうのはよくあること。「美人は3日たてば飽きる」などとよく言いますが、それほどの美人でなくても、毎日眺めていればそれなりに好ましく思えてくるのはそういくことでしょうか。

 さて、話は戻って、なぜ男性は自分の顔が嫌いで、なぜ女性はそうでもないのか。一番大きな理由は、男性は自分の顔を見慣れていないからだと氏はしています。一方、女性は日々の化粧やお肌の手入れなどで鏡を見る機会が多く自分の顔を見慣れている。要は、どれだけ自分の顔が身近に感じられているかの差がそこに表れているということであり、毎日じっくり見ていれば「まあ、こんなもんだ」と認められるようになるというのが氏の見解す。

 「自己肯定感」などというと大げさに構えがちだが、その程度のことでも少しは感じられるようになる。(本当に)有能である必要もないし、「俺ってすげえ」「私ってかわいい」などと思わないと得られないものでもないと氏は言います。

 「自己受容」などと難しい概念なんか理解しなくていいし、「自分を愛するようになる」とかいうわけのわからない話をわかったふりする必要もない。自己肯定とは、自分のことを肯定も否定もせずに、ただただそのままの自分に寄り添うことだということです。

 自分を遠ざけるのではなく、自分に親しむこと。そうした毎日の繰り返しの中で、自分を客観視することが可能になるということでしょうか。言われてみれば私自身、自分の顔はイメージでしか捉えていないし、日々の生活の中で鏡を見ることもほとんどありません。もしも、街で自分(もしくは自分とうりふたつの人)に出会っても、きっと気が付かないことでしょう。

 データで見ても、日本の男性の「幸福感」は最低の部類に入るということ(2020年OECD「幸福度白書」)。男性と女性との比較でも、日本は女性の方が幸福感が有意に高い珍しい国だということです。

 幸せになれない日本の男たち。自己肯定感の低い男性諸君は、まずは現実の自分自身に興味と愛着を持つことから始めてはどうか。次回ラーメン二郎に行った際には、麺だけではなく、自分の顔も一緒に撮ってみてはどうだろうとこの論考を結ぶ荒川氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。

 


#2307 女性だってジーンズのポケットにスマホを入れたい

2022年12月04日 | うんちく・小ネタ

 同じ値段なのに、なぜ女性のジャケットには胸ポケットと内ポケットがついていないのか…。「ユニクロ(UNIQLO)」が販売している「感動ジャケット」(のデザイン)に男女で差があることを訴えたツイートをきっかけに、「女性服のポケット問題」というものがSNS上で盛り上がっていたという話を、先日初めて耳にしました。

 仕事を持つ女性がこれだけ増えているにもかかわらず、男性服ほど機能的ではない女性服。7月29日に投稿されたこのツィートには、(8月10日時点で)2,700以上のリツイートと8,400以上の「いいね」が集まり、働く女性を中心に共感の輪が大きく広がったとされています。

 調べてみると、女性服のポケットの在り方が(ジェンダーの視点から)注目されているのは日本だけのことではなく、インスタグラムでは「#MeriPocket」というアカウントにおいて、ポケット問題が「フェミニスト・イシュー」として世界的に論じられているとのこと。

 米国の人気インスタグラマーheb(@hebontheweb)はこのアカウントにインスパイアされ、「私のジーンズにポケットをちょうだい。フェイクのものじゃ意味がない、実際にスマホを入れられるものがほしい」と歌う動画を公開し、70000を超える「いいね」を獲得したということです。

 因みに、男女別のポケットに様々な日用品が収まるかどうかを検証した結果、「iPhone X」の場合ほぼ100%の男性用ジーンズのポケットに収まる一方、女性用にデザインされたものでは40%しかポケットしか収めることができなかったとのこと。平均的な女性の手がポケットに収まる確率に至っては、(たった)10%にすぎなかったということです。

 そういえば、女性が日常的に小さなポーチを持ち歩いているのは、洋服(特にワンピースやスカートなど)にポケットが付いていないことが多いからだと(以前、家人から)聞いたことがありました。その背景には、「機能性よりもシルエットやデザインを重視」「素材が繊細でポケットをつけにくい」など様々な理由があるのでしょうが、実際に使う人でなければわからないこととはあるのだなと、改めて感じたところです。

 さて、そんなことを思い出していた折、11月13日の日本経済新聞が、米国のビジネスコラムニストのピリタ・クラーク氏による「女性の上着に内ポケットを」と題するフィナンシャル・タイムス紙の記事を掲載していたので、参考までにその一部を紹介しておきたいと思います。

 先日、とあるビジネス会議に出席した際、不運な男性が「愚問」を発する光景に出くわしたと、クラーク氏は記事の冒頭に記しています。彼は音響のスタッフで、登壇者にマイクのバッテリーパックを取り付けていた。彼は女性のパネリストに近づくと、彼女に「ジャケットに内ポケットはありますか?」と尋ねたということです。

 もちろん彼に非はない。それは、大半の男性のジャケットには内ポケットがあり、バッテリーパックが難なく収まるのが普通だから。しかし、女性のジャケットに内ポケットがあるかと聞くのは、「貴方は月へのチケットを持っていますか?」と尋ねるようなものだと、氏はこの記事に綴っています。

 理由はわからないが、ファッション業界は女性の上着に内ポケットを付けることに抵抗し、実用的なポケットが一切ない服を作りがちだと氏は話しています。これは世界のハンドバッグ市場にとっては朗報かもしれないが、多くの女性は(男性同様)必要なものを全てポケットに入れられるなら喜んで入れるだろうというのが(当事者でもある)氏の認識です。

 実際、ロンドンのビクトリア・アンド・アルバート博物館の記録によると、女性の衣服には長い間、大きなポケットがあったと氏は言います。しかし19世紀に女性服のラインがほっそりすると、大きなポケットは廃れていった。

 もちろん現代でも、オーダーメードスーツなどには内ポケットを備えた服があるが、金持ちの女性向けのそうした服は最低550ポンド(9万2000円)もしてしまう。なぜ大衆向けのアパレル企業は内ポケットを自社のジャケットに付けられないのだろうかというのが、氏の指摘するところです。

 (世界的な)大手数社に問い合わせてみたところ、ヘネス・アンド・マウリッツ(H&M)と英リースはノーコメント。「ZARA(ザラ)」は少なくとも2種類の「クラシック仕立て」のブレザーに内ポケットが付いていると答えたが、ジャケット全体に占める割合は教えてくれなかったと氏は記事に記しています。

 さて、確かに上着やズボンのどこかにスマホを入れておく場所やペンを刺しておく場所なければ、現場仕事はままなりません。鍵や財布や名刺入れも含めれば、ビジネスの必須アイテムはかなりのボリュームになるでしょう。

 ポケットがもっと平等な世界になれば、男性を含む誰もが満足できはずだと氏は言います。きわめて簡単な話なのに、そうした状況がなかなか実現しないのはなぜなのか。「私のスマホが(あなたのポケットに)入る?」という決まり文句なしに外出できる状況を思い浮かべてほしいとこの論考を結ぶクラーク氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

 


#2296 ミスに厳しい職場ほどミスが多いという皮肉

2022年11月18日 | うんちく・小ネタ

 「石の上にも三年」という言葉はいつのまにか死語になり、新入社員の3割が3年以内に辞めると言われるこの時代。(株)リクルートが今年3月に実施した「就業者の転職や価値観等に関する実態調査2022」によると、アンケートに答えた転職経験者のうち、次の就職先が決まる前に会社を辞めた人が、実に4割以上に上っていたということです。

 この調査は、20~65歳の就業者を対象にインターネットで実施されたもの。回答数1万3240件(男性6617人、女性6623人)という、それなりに大掛かりな調査です。

 実際、転職先が決まっていない状態で会社を辞めると無職の期間が続くことから、次の働き口を決めてから退職するのが賢明な離職というもの。しかし、再就職先を決める前に会社を辞めた人が各年代とも4割を超えていたという調査結果からは、「とりあえず辞めたい」「どうしても辞めたい」と言う思いが先行する退職者の姿が浮かび上がります。

 因みに、退職理由として年代にかかわらず多く挙がったのは、「仕事内容への不満」(29.7%)、「人間関係への不満」(29.2%)というもの。きつい仕事を押し付けられる、職場の人間関係がギスギスしている…こうした不満が「やってられるか」「辞めてやる」という思いに繋がっていくのでしょう。

 正直どんな会社にも、(それなりに)厳しい場面はあり、厳しい上司もいるものです。確かに「仕事」なので多少の緊張感は必要でしょうが、しかし余りにあれやこれやと(口うるさく)言われたのでは、職場の雰囲気は悪くなるし離職者だって増えていく。イマドキに育った(人から注意されるのが嫌いな)若者が辞めたくなるのも、「時代」というものなのかもしれません。

 とは言え、若者の顔色ばかりは窺っていられない。間違いはその都度きちんと指摘しないと、仕事が回らなくなると考える上司もまた多いことでしょう。

 安定した職場運営のためには、業務管理はどこまで厳しくすべきなのか。そんなことをお悩みの中間管理職に向けて、今年1月4日の東洋経済ONLINEに経営学者の斉藤 徹氏が『「ミスに厳しい職場ほどミスが多い」のはなぜか』と題する興味深い論考を寄せていたので、この機会に紹介しておきたいと思います。

 効率的、創造的な仕事をするには、職場の良好な人間関係が大切です。そうした職場の人間関係を改善するために必要なものとして、近年、特に注目されているのが「心理的安全性」だと、氏はこの論考に綴っています。

 他人と自然に話せて、メンバー全員が想定外の事実や異論を冷静に受け入れられる…そんな場づくりが対立のない人間関係には必要だと氏は言います。そして、そうした職場の心理的安全性に最も大きな影響力を持っているのが(その場の)リーダーの存在だということです。

 ここでいうリーダーとは、上司や指導的な立場の人物など、そのチームにおける権威者のこと。しかし多くの場合、彼ら場のリーダーは構成員の心理的安全性に悪影響を及ぼしているというのが氏の認識です。

 氏によれば、経営学者のエイミー・エドモンドソンは、世界の職場において共通した「職場で言ってはいけない暗黙のルール」として以下の4つを挙げているということです。

① 上司が手を貸した可能性のある仕事を批判してはいけない

② 確実なデータがないなら、何も言ってはいけない

③ 上司の上司がいる場では、意見を言ってはいけない

④ 他の社員がいるところで、ネガティブなことは言ってはいけない

 これらの多くは上司の面目を潰さないためのものであり、さらに言えば、良い評価、良い人間関係を維持するための(部下の)防衛本能だと氏はしています。

 多くの職場では、上司と部下には「発言と沈黙の非対称性」が生まれている。上司は「何でも言える」と感じているが、部下はいろんなことを気遣っている。多くの場合上司には、部下の不安が見えていないというのが氏の見解です。

 特に、優秀な成績をあげて、挫折を知らずに高い立場についた上司ほど、部下に厳しい言動を行い無意識に場の安全性を壊しているケースが多いと氏は言います。優秀なリーダーは、自分を律することで成績を上げてきた成功体験を持っている。そこで、「組織も厳しく律すれば成果を出せるはず」と思いがちだからだということです。

 氏はここで、優秀な人材ほど陥りやすい、典型的なリーダーの思考のくせを4つ挙げています。それは、

① 完璧主義:他者のすべての行動に完璧さを求めたい

② コントロール欲求:他者の思考や行動を自分の統制下におきたい

③ 過度の所属欲求:同じ価値観や意見を持ち、一体感ある仲間でいたい

④ 犯人捜しの本能:悪いことが起きると、犯人を捜して非難したい …というもの。

 中でも「犯人捜しの本能」は、場の心理的安全性を激しく毀損する思考だというのがこの論考における氏の見解です。

 実際、問題が生じた際の原因の究明(=犯人捜し)は、ほとんどの組織において「正しい行動」として理解され、定着している。特に、規律を重んじる生真面目な業界、コンプライアンスを過剰に重視する組織において、「犯人を捜し、責任をとらせ、再発を防止すること」こそ問題解決の最善手と考える傾向が強いと氏はしています。

 しかし、現実はそう上手くはいかない。氏によれば、前述のエドモンドソンは、大学病院の看護チームを対象に実験を行い、「犯人捜し」が成果にどのように結びつくかを検証したということです。

 ある看護チームは規律を非常に重視し、ミスが起きるたびに看護師長が看護師を呼び出し、厳しく問いただした。結果、そのチームでは看護師からのミス報告がほぼなかったため、調査開始当初は、この行動は正しいと考えられていたと氏は言います。

 しかし、詳しく調査してみると実態は異なることがわかってきた。ミスの報告は少なくなくても(それは報告が躊躇われていただけで)実際の現場では多くのミスを犯していたということです。

 一方、看護師長が部下にやさしく接したチームは逆だったと氏はしています。細かなミスの報告は多かったが、実際に犯したミスは厳しいチームよりも少なかったということです。

 人には怒りの感情から、問題が起きると犯人を捜してしまう本能があると氏は話しています。責任者になるとその傾向はさらに強まり、問題の経緯や真因を探って学習することよりも、誰の責任かを追及することに気をとられてしまいがちとなる。

 多くの管理職に浸透している「非難や懲罰には規律を正す効果がある」という常識が、場の心理的安全性を大きく毀損させる原因となっているというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 追及され、責任を問われると思えば何も言い出せなくなる。少しのことなら黙っていればいい。つまらぬ波風が立たないよう、新しいこと、余計なこと、人のことには手を出さないでいようと考えても、無理はないかもしれません。

 触らぬ神に祟りなし。恐らく、ミスに(やたら)厳しい組織はミスがさらに増えるばかりでなく、柔軟な対応や創造的な仕事もできないのだろうなと、氏の論考を読んで私も改めて考えたところです。

 


#2295 40歳で人生の8割は終わっている

2022年11月15日 | うんちく・小ネタ

 令和3年の簡易生命表によれば、日本人の平均寿命は男性で81.47歳、女性では実に87.57歳。40歳時点の平均余命を見ても男性40.81年、女性47.17年ということなので、40歳は(現在の)日本人の人生のちょうど折り返し地点と言って良いかもしれません。

 戦国時代の末期、「人生50年…」と好んで謡ったのは織田信長ですが、 「人生100年」と言われるようになって久しい現在、高齢となった渋沢栄一翁がしばしば色紙に残したとされる「40,50は洟垂れ小僧」という金言も、まさに現実のものになっている観があります。

 そうした折、筑波大学大学院教授の平井孝志氏が総合経済サイト「東洋経済ONLINE」(10月12日)に寄せていた『40歳で人生の83%が「終わっている」という衝撃』と題する(ある意味キャッチ―なタイトルの)記事が目に留まったので、ここで紹介しておきたいと思います。

 人生100年時代と言われる中、40~50代になって「残りの半生をどう生きようか」と考える人も多いだろう。しかしその一方で「人生の後半戦は瞬く間に過ぎる」と言われることも多い。(そこで)人生の折り返しを迎える私たちに残された時間は(実際)どのくらいあるのかを考えてみたいと、平井氏はこの論考に綴っています。

 人生100年とすると、50歳の貴方に残された人生はあと50年。普通は、「平均寿命で考えると残り30年か…」などと考えがちだが、その認識は間違いだとこの論考で氏は断じています。

 実際には、貴方にそんなにまとまった時間は残されていない。それは、貴方の脳が認識できる時間の速度が、後半生になるにつれ加速度的に速くなるからだというのが氏の見解です。

 貴方にとって、これまで感じてきた50年分の時間感覚と、これから先の50年の時間感覚はおそらく全く違うものになる。それでは何故、歳を取れば取るほど1年があっという間に感じられるようになるのか。

 「人は歳を取ればとるほど未経験のことが減るので、その分時間を短く感じる」…この論理は「ジャネーの法則」と呼ばれ、19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが唱えたものだということです。

 それは簡単に言えば、生涯のある時期における時間の心理的長さは「年齢に反比例する」というもの。

 この法則に従えば、1歳の時に感じる時間の流れはそのまま1年だが、2歳の時に感じる1年は、2年間の人生のうち半分なので2分の1年。3歳の時の1年は、2歳までに経験したことに対し新しい経験が3分の1になるので、感じる時間は3分の1年になるということです。

 つまり、50歳の人間にとっての1年の長さは、1歳までに感じた長さのおよそ50分の1(ざっと7日と8時間)にしか感じられず、100歳になればその体感時間は100分の1程度にまで縮んでしまうということ。この考え方によれば、その人が100歳まで生きると仮定して、人生全体の体感時間は、1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + …… + 1/99 + 1/100 = (体感時間は)5.2年 …となるということです。

 一方、そうした前提の下、例えば40歳時点までの体感時間を計算すると、4.3年という数字になると氏は言います。

 100歳をゴールにして合計するとその値は5.2年。そして40歳までの合計の数値は4.3年なので、人は40歳の時点で(なんと)人生の約83%(=4.3/5.2)を既に過ごしてしまっている計算になる。しかも、50歳時点ではそれが87%に達してしまい、残りの人生で体感できる時間は、それまでの人生のおよそ1割に過ぎないというのが氏の説明するところです。

 因みに、この計算のスタートを、(自覚のない0歳から始めるのではなく)物心の着く小学校入学時点に変えてみても、50歳時点の結果は80%程度。(それでは、と)1年単位ではなく10年単位で計算してみても、50歳時点で人生の78%が終わっている計算になったと氏は記しています。

 聞けば聞くほど寂しい話ですが、残念ながら確かにその感覚は、実感としても十分に理解できるもの。少なくとも人生の後半戦が、人生の成長過程にあった前半生とイーブンと言うわけにはいかなそうだというのは、誰もが覚悟しておかなければならない現実なのでしょう。

 とはいえ、いつまで(青春時代のような)新鮮な持ちでいられるかは人それぞれに違うはず。人生に残された時間を有意義に過ごすためにも、いつまでも世の中に達観せ、純粋な気持ちで過ごしていきたいものだと、氏の論考を読んで私も意を新たにしたところです。