MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2407 キャラ文化と発達障害

2023年05月09日 | 社会・経済

 「発達障害」というワードが、(特に若者たちの間で)当たり前のように口にされるようになった日本の現代社会。筑波大学教授で精神科医の斎藤環(さいとう・たまき)氏は、近著『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)において、発達障害の有病率(約2%)が欧米の約2倍に達する現代の日本は、まさに「発達障害バブル」と言ってもよい状況にあると指摘しています。(「発達障害がキャラ化してバブル状態の異様、裏に日本人の“承認依存”文化」2023.3.24DIAMOND ONLINE)

 実際、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如・多動症)など発達障害的な性格が広く知られるようになるにつれ、小説や漫画の世界では、あきらかにそのようなキャラの立った主人公が著しく増えていると、斉藤氏はこの論考で指摘しています。

 例えば、人気作品「デスノート」に登場する「L」という探偵は、知能は異常に高いけれども社会性に乏しく、さまざまな「こだわり」を持つクセの強いキャラとして登場している。他にも多くのエンタテインメント作品の主要人物にこうした人物像が登場するようになり、若者の間である種の「市民権」を得るようになっているということです。

 そうした設定のテンプレートとして、特にアスペルガー人気にはきわめて高いものがあると氏は言います。

 著名人の中にもアスペルガーをカミングアウトする人が多く、メディアの世界ではアスペ的なキャラで受けているとしか思えない人も少なからず活躍している。つまりASDは、日常世界においては協調性に欠けた困った存在として排除される傾向にあるけれども、フィクションや非日常においてはキャラとして人気があるということです。

 そして、こうした(ある意味ねじれた形での)「発達障害バブル」の背景にも、「承認依存」や「キャラ文化」がある(のではないか)というのが、この論考における斉藤氏の見解です。

 どういうことかと言えば、「承認依存」文化のもとでは、コミュニケーションスキルやつながりのありようについての「自明性」の水準が上昇しているということ。つまり、かつてよりも要求される(コミュ力の)水準が上がっている状況があると氏は言います。

 例えば、もしもかつての私(←斉藤氏)が現代の若者集団の中にいたら、「コミュ障」ないし「アスペ」のレッテルを貼られていた可能性が高い。今ならば、そんなレッテルを貼る社会の方がおかしいと思うが、(それはそれとして)私自身、きっとかなり生きづらい経験をしたであろうとことは容易に想像がつくということです。

 現代の若者の間では、要求される人間関係に関するスキルのレベルが上昇した結果、人々の「異常」に対する感受性が上がり、ちょっとした外れ値を見つけては「異常者」のレッテルを貼りやすくなっていると氏はここで話しています。

 昔であれば、空気が読めず、ときどき変な挙動をする孤立しがちな「変わり者」で済んだものが、今は「あの人はアスペだから」ということになってしまう。こうした風潮は明らかに間違っているし、この風潮の背景に「承認(つながり)依存」が確実に存在するというのが氏の指摘するところです。

 反面、発達障害のステレオタイプは、「キャラ」としては立っていると氏は言います。うまく居場所を見つけられ、本人が自意識をこじらせなければ、ASDキャラ、アスペキャラは愛される存在にもなり得る。だからこそ、漫画やアニメなどのフィクションにおいては、こうしたキャラが広く受け容れられるようになったということです。

 ただ、そうした愛なるものが、珍獣扱いのような差別、偏見を強化するタイプの愛である可能性については(改めて)指摘しておく必要があると、氏はこの論考の最後に綴っています。

 自傷的自己愛者(自己否定的な言葉を発しつつも、背景には自分への強い関心があることから、逆説的に自己愛が強いと思われる人々)もまた、このレッテルを自分自身に応用することがある。そこにあるのは、「自分がダメなのは発達障害のせいで、この病気は先天性の脳機能障害だから一生治ることはない。だから状況を変えるための努力はすべて無駄である」という理屈だということです。

 「あいつはアスペだから話しても無駄」「俺はコミュ障だからきっと上手くいかない」…そんな安直な決めつけが人々の生活を生きづらいものにし、人生を不自由にしている様子は容易に想像できます。

 氏の指摘を待つまでもなく、(いずれにしても)昨今のコミュ力偏重主義から生まれるキャラ文化が、多くの人に生き辛さを味あわせていることは恐らく間違いないでしょう。「発達障害」はその無理解ゆえに現在でも多くの偏見を纏っており、何より個人の価値や能力を示すものでもないと考えるこの論考における斉藤氏の視点を、私も興味深く受け止めたところです。

 



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