MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2446 「面倒な案件」はパス

2023年07月26日 | テレビ番組

 政界や芸能界の関係者から「文春砲」と恐れられ、数々の競合誌が廃刊に追い込まれる出版界において一人気を吐いている「週刊文春」誌。

 最近でも、映画界における性加害の告発、安倍元首相の銃撃と統一教会に関する報道、寺田稔総務相の辞任につながった政治資金疑惑、ジャニーズ事務所の性加害問題、さらには岸田内閣の副官房長官木原誠二氏にかかる刑事捜査への圧力疑惑まで、その内容は読者の期待を超えている観があります。

 訴えられても何のその。(いわゆる「大人の事情」などはものともせず)忖度なくズバズバと問題に切り込む取材姿勢への(読者の)リスペクトがあってこそ、次々と新たな情報が舞い込むという好循環が生まれているのでしょう。

 一方、テレビ(番組)自体が「つまらなくなった」と言われて久しい現在、情報媒体自体が(広く大衆向けた)テレビから、よりパーソナルなWEBメディアなどに移りつつあるといわれています。社会の個人主義化や嗜好の多様化が進む中、予定調和的・一面的な情報や大衆向けの娯楽性よりも、個人の欲求に訴求力のある情報が好まれるということの表れなのかもしれません。

 そんな折、テレビのワイドショーなどが総じて飛びついたのがタレントの広末涼子さんの不倫に関するゴシップでした。

 10代の頃からテレビを中心に活躍してきた女優さんということもあって、(当初は)長年のファンを中心に様々に沸き立つ状況は判らないではありませんでしたが、何週間にもわたってそんなことが続いていると「もうお腹一杯」という感じ。ほかにも取り上げるべき問題はあるだろうに、貴重な電波をこうした(つまらない)ゴシップに費やすのには「何か理由があるのではないか」と詮索したくもなろうというものです。

 そうした折、7月10日の『週刊プレイボーイ』誌のコラムに作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が、「女優の不倫ばかりがなぜ大きく報じられるのか?」と題する一文を寄せているのを見かけたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 有名女優と有名シェフのダブル不倫が世間を騒がせて久しい。手書きのラブレターが公開されたり、女優の夫による「謝罪会見」が行なわれるなど次々と話題が提供されているが、(一方で)こうした報道の洪水に違和感を覚える人も多いだろうと橘氏はこのコラムに綴っています。

 リベラリズムの原則は、他者に危害を加えないかぎり、個人の自由な行動は最大限認められるべきだというもの。不倫は(家族には傷を負わせるかもしれないが)その「危害」が第三者に及ぶわけではなく、誰を好きになるかは結局私的な問題なので、そこで生じた紛争は当事者間で解決すればいい話だというのが氏の認識です。

 欧米を中心に同性婚が広まっているのは、誰と誰が結婚しようが第三者に直接の危害が加えられるわけではないから。そこで(日本の)保守派は、この原則を拡張して、「日本の社会(国体)が壊されてしまう」という“間接的な危害”を訴えることになったと氏は言います。

 そうした意味で有名人の不倫も、純潔を否定し社会の風紀を乱すから批判されるのかもしれないが、一概にそうともいえないのは、与党の大物政治家の不倫が報じられても「ああ、またか」という感じで、さしたる話題にもならないから。そこには、男の不倫は「甲斐性」と見なされても、女の不倫は許されないという顕著な不均衡があるというのが氏の指摘するところです。

 さて、(話は戻って)芸能人である以上、恋愛問題や離婚などの私的なことを(一定程度)報じられるのは仕方ない話だし、広告スポンサーが商品イメージに反する行為をしたタレントとの契約を打ち切ることもあるだろう。しかしそれでも、私的なことで映画やテレビドラマを上映・放映中止にするのは明らかに行き過ぎではないかだと氏は話しています。

 ではなぜ、このような「どうでもいいこと」でメディアは大騒ぎするのか。その理由は、ジャニーズ事務所の創設者が多数の少年に性加害を行っていたという、日本の芸能界を揺るがす事件と比べればわかるというのが氏の見解です。

 メディアがジャニーズ関連の報道に及び腰なのは、多くの人気タレントを擁する芸能事務所の「圧力」を恐れているというのもあるのだろうが、これが業界用語でいう「面倒」な案件になっているからだと氏は話しています。

 報道によれば、性加害の実態解明や被害者支援を求めて署名活動を行なう一部のジャニーズファンに対し、SNSでは、「ファンだとうそをついて、ジャニーズを陥れようとしている」「二次加害をして被害者を増やそうとしている」などの誹謗中傷が相次いでいるとのこと。

 ファンかどうかに客観的な基準があるわけではない以上、自分とは主義主張の異なる活動を「ファン」の名の下に行なうことを不快に思うファンも確かにいるだろうし、それに加えて、こうした反発の背後には「ジャニーズの事件を利用して“社会正義”の活動を行なっているのではないか」という疑心暗鬼もある(かもしれない)ということです。

 このような複雑なケースでは、メディアはどのような報道をしても、批判や抗議を避けられない。だとしたら、「そんなのはほかに任せておけばいい」というのは合理的な判断だと氏は言います。

 それに比べて、確かに女優のダブル不倫は、確実に視聴率やアクセス数に貢献し、抗議を受ける心配もありません。面倒な案件には首を突っ込ますに、(倫理的に)攻めやすい所を攻め、あえて火中の栗を拾うような(馬鹿な)ことはしないのが大人の世渡りということなのかもしれません。 

 「つまらなくなった」といわれて久しいテレビのワイドショー。もちろん担当するプロデューサーやディレクターにも様々な苦悩はあるのだろうが、結局のところ最終的に何を大きく報道するかは「善悪」や「正義」では決まらない。面倒な案件は避けたいという(組織内の)単純な力学によって決まるのだろうとこのコラムを結ぶ橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2330 シャアとアムロの勝負の行方

2023年01月03日 | テレビ番組

 10月に放送が始まったガンダムアニメの最新作「機動戦士ガンダム、水星の魔女」が話題を呼んでいるようです。

 舞台となったのは、数多の企業の宇宙進出が進み巨大な経済圏を構築している時代。宇宙空間で生まれ育ったスペーシアンと地球居住者アーシアンの対立が激化する中、モビルスーツ産業の最大手「ベネリットグループ」が運営する「アスティカシア高等専門学園」に、辺境の星・水星から編入してきた一人の少女の物語です。

 思えば、オタクの間で「ファースト・ガンダム」と呼ばれるアニメ『機動戦士ガンダム』が初めて放送されたのは昭和54年(1979年)のこと。私もリアルタイムで見ていたのですが、放送当時は特に話題に上ることもなく、評価もそれなりだった記憶もあります。

 さて時は移り、玩具メーカバンダイが発売したプラモデル「ガンプラ」人気に加え、続編、続々編、劇場版、スピンオフ作品などなどが次々と発表されたこともあって、ガンダムは(いわゆる)アニメオタクのシンボルの一つとなっていきます。

 しかし、中年世代のマニアックなアイテムに変化してしまった(半世紀近い歴史を持つ)ガンダムに、もはや若者たちがついていけなくなっているのも事実です。そこで、シンプルに面白い(ブランニューの)新番組を作ることで、ターゲットをガンダム初心者である若い世代に拡大しようという視点で企画されたのが、今回の「…水星の魔女」だという話です。

 物語の主人公は女子高生。学園の最強パイロットの証である「ホルダー」の称号を賭けてのモビルスーツの対戦など、ストーリーはもはや学園ドラマであり、確かに昔ながらのガンダムファンにはかえって敷居が高いかもしれないかもしれません。

 我々の世代で言えば、ガンダムパイロットと言えばやはりアムロ・レイとシャア・アズナブル。繊細であるがゆえにそれぞれに過去を引きずる二人の戦いに、それなりの悲壮感とすがすがしさ、友情、リスペクトなどを感じていたのは私だけではないでしょう。

 己の才能を信じ犠牲を厭わない独善的な英雄と、傷つきやすいやさしい天才の織りなす葛藤の物語。実際、この二人に感じる「共感」の度合いは人によって大きく異なるようで、その後に人気を呼んだ(1988年にOVAで公開されたアニメ)「銀河英雄伝説」などにも通じる普遍性を持っていると言えるかもしれません。

 さて、そんなことを感じていた折、12月6日のアニメ・ゲームの情報サイト「ふたまん」に『アムロとシャア…現実世界の女性が選ぶのはどっち?』と題する記事が掲載されていたので、(二人の主人公に敬意を表し)この機会に紹介しておきたいと思います。

 『機動戦士ガンダム』の放送開始から43年。時代は平成、令和と移り、それに伴ってジェンダーの捉え方も変化してきた。当時は深く考えもしなかった“男とは”“女とは”という固定的な概念を語ることも、今ではタブー視される風潮にあると筆者は記しています。

 ガンダムにおける永遠のライバル、アムロ・レイとシャア・アズナブルに関してもまたしかり。なにかと比較されることの多い二人ではあるが、現実的な目線で見た際に、現代女性の眼にはどちらのほうが魅力的に映るのかというのが、この記事で筆者の問いかけるところです。

 経験を重ねながら徐々に大人になくアムロとは対照的に、シャアは早くから成熟している男として描かれている。ザビ家への復讐を果たし、人類を次のステージに導くという高い理想と信念を貫き続けているのがシャア・アズナブルだと記事は言います。

 もちろんそこに魅力を感じる人も多いだろうが、それは一方で柔軟性に欠けるということでもある。振り返ってみると、シャアはかなり早い段階で“アースノイドかスペースノイドか”といった二元論的な考え方をしていた。有能すぎて自分の考えに固執してしまい、視野が狭くなっていたという見方もできるかもしれないということです。

 そうやって、万能の秀才が万能感を拗らせに拗らせた結末思いついたのが、“もういっそ地球にコロニー落として全部ぶっ壊しちゃおう!”という、実に短絡的な方法。表向き大義名分を謳ってはいるが、これは子どもが癇癪を起こして物を壊すようなものだ筆者はしています。

 ただ純粋に母の愛を求め、それゆえにララァの死を乗り越えられなかったシャア。彼の純粋さの陰に、抜け切らない幼児性を感じる女性も多いだろうというのが筆者の指摘するところです。

 パイロットの才能ではアムロに負け部下にはロリコンと揶揄され、さらにマザコンを拗らせて自滅したシャア。しかし彼にはアムロにはないものを持っている。それは、顔と身長と家柄だと筆者はここで指摘しています。

 顔は見てのとおり。身長は公式データによるとアムロは168m、シャアは当初175cmとされていたが『機動戦士Zガンダム』以降は180cmとなっている。家柄もジオン公国創始者の息子と申し分ないということです。

 2021年の「第16回出生動向基本調査」によると、結婚相手に求める条件に関する調査で、相手の「容姿」を「重視する」あるいは「考慮する」と答えた女性は過去最高の81.3%。同じ項目で男性は81.2%と(わずかながらではあるが)女性を下回っており、つまり現代女性の多くが美男を求める傾向にあると氏はしています。

 拗らせた幼児的万能感も、イケメンにかかれば「純粋すぎる人」になる。それが有能で育ちの良いイケメンならなおのこと。「彼の苦悩や弱い部分を支えてあげたい」と思う女性も多いだろうし、内に抱えた葛藤に苦悩する姿が一段と映えるのは、やはり彼の恵まれた容姿に負うところが多いということでしょう。

 ところで、因みに先に挙げたデータでは、女性が結婚相手に求める条件で最も高いのは「人柄」(98.0%)で、次点が「家事・育児の能力や姿勢」(96.5%)とのこと。この点はシャアにはあまり望めないので、結婚相手としては、シャアよりもアムロを選ぶ女性も多いのではないかと筆者はこの論考の最後に綴っています。

 人の好みというのは、目的と条件によって変わるもの。ある女性に言わせると(彼女の眼から見れば)「所詮ガンダムはシャアの物語」ということですが、アムロだってシャアの引き立て役では終わらない。アムロあってのシャアであり、シャアあってのアムロだったのだろうなと、記事を読んで改めて感じた次第です。

 


#2329 良い子は真似しないように…

2023年01月01日 | テレビ番組

 「アニメソング界の帝王」と称された歌手でタレントの水木一郎氏が12月6日に亡くなられたとの訃報に、(50代以上の男性を中心に)多くのアニメファンが哀悼の思いをネット上に捧げています。

 水木一郎氏と言えば、「超人バロムワン」「バビル2世」「仮面ライダー」「がんばれロボコン」「キャプテンハーロック」などなど、カラーテレビが導入されて間もない1970年代の少年たちをテレビの前に釘付けにした(ヒーローや戦隊ものの)番組の主題歌の歌い手として広く知られた存在でした。

 中でも「マジンガーZ」は、「ハレンチ学園」の永井豪原作の本格派スーパーロボットアニメとして当時の少年たちの人気を博し、その主題歌は(「飛ばせ鉄拳、ロケットパンチ♪」などと)半世紀を過ぎた今でも口ずさむことができるほどです。

 思えばこの「マジンガーZ」は、巨大な人型ロボットに主人公が乗り込み操縦するという、(その後に続く)「巨大ロボットアニメ」と呼ばれる分野を切り開いた初めての作品でした。

 それまで、「ロボット」と言えば鉄腕アトムのような自律型の等身大のものや、鉄人28号のようなリモコン操縦型のものがメインでしたが、パイロットが乗り込んで戦う「搭乗型」のスタイルは、その後のガンダムなどのモビルスーツやエヴァンゲリオンなどに引き継がれていくことになります。

 そういう意味で言えば、兜甲児が操縦する「マジンガーZ」は、最高資料率30%超えの実績とともに少年アニメの新機軸を打ち立てた歴史的な存在ということができるのでしょう。

 しかし、よく考えれば、ロボットに乗り込んで(目の前の)巨大な相手と殺し合うというのは結構怖いことのはず。それなのに、何故に少年たちは戦うスーパーロボットに乗りたがるのか。

 12月13日のYahoo newsに空想科学研究所主任研究員(を標榜する)柳田理科雄氏が「マジンガーZの操縦者はロボット酔いしないの?」と題する面白いレポートを寄せているので、この機会に紹介しておきたいと思います。

 アニメに登場するロボットの多くは、人間が乗って操縦する「搭乗型ロボット」だが、その元祖は、なんといってもマジンガーZ。「超合金Z」という特殊金属で作られたロボットで、身長は18m、体重は20tに達するまさにスーパーロボットだと柳田氏はこのレポートに綴っています。

 主人公・兜甲児がホバーパイルダーに乗って、マジンガーZの上空まで飛んでいき、「パイルダー・オン!」と叫んで頭部に合体する。いま考えれば、ちょっとムダの多い搭乗方法では……という気もするが、これが実にカッコよかったと氏は言います。

 しかし、同時に複雑な気持ちにもさせられる。人間がロボットに乗り組んで戦うのは、あまりに危険な行為ではないか。人が出向いては危険だからロボットに任せようという(ある意味あって当然の)発想が、そこには一切感じられないというのが氏の指摘するところです。

 マジンガーZの性能は細かく設定されているから、乗り込んだ兜甲児がどういう状況に置かれるかについては数字を使って具体的にシミュレーションできると氏はしています。

 まずは普通に歩くとどうなるか。人間の10倍も大きいこのロボットは歩幅6.8m、時速50kmで歩くという。時速50kmとは秒速14mだから、歩幅が6.8mなら1秒間におよそ2歩。もちろんこんな歩き方をしたら、パイロットの乗る頭部は大きく揺れるということです。

 実際にアニメの画面で測定すると、マジンガーZが歩くとき、頭は25cmほど上下運動している。これすなわち、頭部の操縦席に乗った兜甲児も、1秒に2回というハイペースで上下に25cm揺さぶられているということで、車酔い、いやロボット酔いは必至だというのが氏の見解です。

 歩くだけでもツラいが、走るとなると苦痛どころか危険となる。マジンガーZは時速360km=秒速100mで走るという設定になっているが、これは新幹線よりも速いスピードだと氏は言います。

 アニメの画面で計ると、走っているマジンガーZの1歩は平均0.24秒。1秒あたりの歩数は4.2歩で、(つまり)甲児は1秒間に4.2回も大きく揺さぶられていることになる。

 その間のマジンガーZの頭部の動きを測定すると、左右に60cmほど動いているので、つまり兜甲児は、左右60cmの幅で1秒に4.2回も揺れる新幹線に乗っているようなもの。乗り物酔いどころの騒ぎではなく、甲児の体重が65kgなら、折り返す瞬間、全身に1.4tの力がかかっている状態だということです。

 因みに、マジンガーZのジャンプ力は20mとされている。18mの身長よりやや高く跳ぶわけでまことに躍動感あふれるが、乗っている甲児も同じ動きをしていることを忘れてはいけないと氏は話しています。

 計算すると、飛び上がったはいいものの、着地の瞬間、甲児は20mの高さから落ちたのと同じ衝撃を受ける。着地の速度は時速71kmに達しており、も操縦席に座っていても命の保証はまったくできないということです。

 さて、もしも本当にマジンガーZに乗り込んだら、パイロットはその他いろいろな悲惨の状況に陥ることになるのですが、そこはそれアニメの世界のこと。兜甲児が巨大ロボットなどを相手に平然と戦えるのは彼がまさに「ヒーロー」としての資質を備えているからということでしょう。これがもしも現代であれば、コンプライアンスの視点から、「良い子は決して真似をしないでください」との注意書きが入っているかもしれません。

 思えば、ガンダムだってエヴァンゲリヲンだって同じこと。人間の体力や能力にはおのずと限界があり、努力と根性で地球が守れる時代は、そろそろ終わりを迎えているようです。

 少なくとも、わざわざ子供をロボットに乗せて危険に晒さなくても、(どうせ外の様子はモニターでしか分からないのだから)遠隔で操縦させればよさそうなもの。これだけテレワークが普及している昨今であれば、ヒーローにももっと違った活躍の仕方があるのではなかと、柳田氏のレポートを読んで私も改めて感じた次第です。

 


♯1795 ワイドショーの仕事は不安を煽ること?

2021年01月29日 | テレビ番組


 新型コロナウイルスの感染者数の拡大などを受けた新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく「緊急事態宣言」も、2月7日とされた当面の期限まであとわずかとなりました。

 新規感染者数の状況は(一時よりも収まってきたとはいえ)いまだ一進一退を繰り返しており、死者数や重症者数、専用病床の使用率などといったその他の指標も、なかなか改善に向けた動きに繋がっていないのが現状です。

 そうした中、新聞やテレビなどの様々なメディアなどからは、「もう1か月」「少なくとも2月いっぱいは」といった期間延長への声が聞こえてきますが、(政府も正直、神様ではないのですから)すぐに判断しろと言われてもなかなか難しい状況にあるのは想像に難くありません。

 一方、折しも始まった国会における議論を見る限り、野党からは「政府の対応は甘すぎる」「(自粛などといった甘っちょろいものではなく)強い態度で国民の行動を規制すべきだ」など、(行動規制に対し)政府により厳しい態度で臨むよう求める主張が相次いでいます。

 議論の中には、「総理が原稿を見ながら答弁しているから国民に気持ちが伝わらない」「国民が自粛要請に協力しないのは総理の話しぶりのせい」といった乱暴なものもあるようですが、普段はリベラルな政策を主張する人たちが、公共の福祉のためなら「国民の自由を奪っても構わない」と、なんの衒いもなく声高に主張していることには(ある意味)驚きを禁じえません。

 さらに言えば、野党各党は(それにもかかわらず)改正特措法の政府案に明記された「時短要請に応じない事業者や入院拒否を続ける感染者に対する刑事罰の適用」には強く反対しているというのですから、与党から「ご都合主義」と言われても(それはそれで)仕方がないことのような気もします。

 いずれにしても、なぜこうした(感情的にまかせた)議論が国民を代表する国会で延々と繰り返されているのか。

 先日(本当に久しぶりに)、平日の昼間に放送されているテレビ各局のワイドショーを並べて眺める機会がありました。そして、そこで繰り広げられている代り映えのしないやりとりを見て、「なるほどな」と合点がいったところがありました。

 「専門家」という立場から、医師や大学教授などを1~2人。論客といった立場から元政治家や弁護士などを招き、議論をたきつけるジャーナリストをもう一人。さらに、お笑い界や芸能界から(世論を代表させる)素人キャラをキャスティングしてコメンテーター陣は完成です。

 まずは、自粛下にもかかわらず賑わう繁華街などを現地リポートし、新橋の酔っ払いサラリーマンなどにインタビュー。次に多くの方が亡くなっている欧米の状況や国内の医療現場の混乱などを専門家に報告させ、スタジオは一気に深刻モードに変わります。

 そこに、はっきりした物言いで名を挙げたタレント上がりの看板MCが登場。フリップなどを使って、現状がいかに困った状況か、このまま行ったらどうなるのかと視聴者の危機感を煽り、(常識的な中高年を代表して)感染拡大に理解のない若者世代を糾弾していく。

 そして、返す刀で、国民に厳しい姿勢を示すことに躊躇したり、飲食店などへの営業補償をけちる政府の無能さを(一方的に)あげつらうというのが彼らのやり方です。

 視聴者は、時に笑いや切り取られたインタビューを取り混ぜる進行の巧さに乗せられて、(情報番組というより)エンターテイメントのノリとは知りながらも、ついつい引き込まれてしまいます。気が付けば、悪いのはコロナではなくて、政治家や政府の無能さなのだと刷り込まれてしまっているのは私だけではないでしょう。

 国会論争も、結局のところそうした流れの中で、テレビの情報番組の枠組みから離れられない小さな議論を続けている。新規感染者の拡大という毎日の数字の中で見落とされている社会正義や利害の対立、さらには財源や効率の問題など、もう少し複雑で入り組んだ現状に対する議論を深めるべきと感じるところです。

 実のところ、(もちろん)そのような印象を持っているのは私ばかりではなくて、コロナウイルスに対する国民の不安を煽り、それを商売の材料として消費していくメディアの態度を苦々しく感じている人も多いようです。

 落語家の立川談慶氏は1月27日のPRESIDENT Onlineに寄せたコラムにおいて、「不安をあおるだけのマスコミ報道は、一体何がしたいのか?」と話しています。(2021.1.27「なぜ、日本の政治家はバカばかりで、あなたの妻の性格は悪いのか?」)

 前回とは異なり今回は緩やかな措置が多い緊急事態宣言下において、どうにも解せないのがマスコミ各社の報道姿勢だと、立川氏はこの一文に綴っています。

 前回ほど厳しくないのだから前回より人出は多くなるのは当然で、子どもでも想像できる。なのに、「以前に比べたら人出が増えている」→「気の緩み」という結論を躍起になって導き出そうとしているメディアの姿勢に、氏はとても違和感を覚えるということです。

 これから先、逆に人出が少なくなったら、今度は飲食店関係者に「景気はますます悪くなる」という答えありきのインタビューでもするに違いない。テレビ局の人たちは一体何をどうしたいのかと、首をかしげたくなるというのが氏の見解です。

 人出が多くても、少なくても、結局のところ視聴者の「不安」をあおることが彼らの目的だとしか考えられない。そもそも「人手が多い=気が緩んでいる」という考え方にしても、とても短絡的ではないかというのがこのコラムで立川氏の指摘するところです。

 夜の繁華街や休日の行楽地に向かう人の中には、遊ぶのではなく働くためにコロナ対策を万全にして向かう人だっているはず。エッセンシャルワーカーを含めて、リモート化できない職種の人たちのことを思い浮かべてみるべきだと氏は言います。

 テレビ番組では、「ターミナル駅に向かう人の流れの映像」を流した後に、コメンテーターは当然のように「気が緩んでいる」というコメントを重ねていくが、自身を乗せて自宅と局とを往復するタクシーの運転手さんもその中の一人なのかもしれないことに思いを致すべきだということです。

 兎にも角にも、新型コロナウイルスは確かに肉体的に怖い疫病であることは間違いないが、精神的にも、かような形で社会を分断させてしまっているという意味において、彼らは非常に厄介で罪深い存在だと氏は指摘しています。

 さて、そうは言っても長引く自粛生活を考えれば、世の中を正義と悪という単純な構造に二分して、だれかを攻撃することをネタに商売をする手法もボチボチ飽きられてくる頃合いです。

 そして、飽きられてきてしまっているからこそ、人々の緊張感は失われ、自粛に向けた気持ちも萎えているのかもしれません。

 日本国内で新型コロナ感染症が流行の兆しを見せてから、早1年の月日が経とうとしています。ウイルスの特性や必要な対応などについても、この1年でいろいろなことがわかってきました。

 もうすぐ接種が始まるワクチンの試験結果は上々とのことであり、(私自身も)今やるべきことは悪者探しや分断ではなく、混乱が少しでも少なくなるよう協力して対策に取り組むことではないかと考えるところです。

 主に高齢者の方々や女性層を対象としたワイドショーなどの情報番組作りに心血を注ぐ多くのメディアの皆さんには、そうした現状をよく理解していただいて、そろそろ違ったパターンの番組作りを考えていただく時期が来ていると思うのですがいかがでしょうか。


♯1747 やられてもやり返えさない

2020年10月23日 | テレビ番組


 9月27日に放送されたTBSドラマ「半沢直樹」の最終回が、平均世帯視聴率32・7%を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と報じられています。

 7年前の前作と同様、最終回で最高数字を叩き出し、3人に1人が見た勘定となる視聴率30%超えはNHK、民放を通じて前作以来で、令和のドラマでは断トツだということです。

 「10%を超えれば成功」といわれる昨今の連続ドラマ界ですが、同局によるとこの数字は、単純計算で(少なくとも)3300万人が視聴した計算になるとのこと。

 新型コロナウイルスの影響で(このドラマも含め)各局の連続ドラマの放送開始が遅れたり、途中で放送が取りやめになったりする中、最終回で果たされた快挙に「見事な“倍返し”だ」との声も上がっているようです。

 さて、物語の主人公、堺雅人演じる銀行員の半沢直樹の(押しも押されもしない)「決め台詞」が、悪徳の限りを尽くす敵役に対して切る「やられたらやり返す、倍返しだ!」という啖呵です。

 (水戸黄門の印籠ではありませんが)このシーンこそが、約1時間のドラマの最大の見せ場となっており、大向こうから「待ってました!」の声がかかる瞬間と言えるでしょう。

 理不尽なことが多いこの世の中で、正義はどこにあるのか。売られた喧嘩は買わなければ男じゃない。間違った奴らに正義の鉄槌を下さなくては…。現実社会ではなかなか実現できない巨悪への「仕返し」に、留飲を下げたオジサンたちもきっと多かったのではないでしょうか。

 しかし、少し落ち着いて考えてみると、「自分は純粋な被害者で、非は相手のみにある」…そんな状況は(実は)あまりないような気がするし、「だから相手も辛い思いをするべきだ」という反応は、なんとも単純で子供じみているような気もします。

 やられたらやり返したくなるのは人の常とは言え、とことんやってしまえば関係性の修復は不可能になるばかりか、周囲からも(すぐ熱くなる)感情的な人間とみなされることでしょう。

 さらに言えば、そこには再びやり返される可能性が生まれることになり、いつまでたっても悪い循環から抜け出せない「負のループ」によって、事態はますます悪化していくかもしれません。

 そう考えれば、「やられてもやり返さない」という選択もあるのではないか。

 総合情報サイト「DIAMOND ONLINE」では、「お寺の掲示板の深~いお言葉」という連載において「半沢直樹の逆を行くのが仏教」(2020.10.12)と題する一文を掲載しています。

 東京の築地本願寺の掲示板に掲げられたこの言葉(「やられてもやり返さない」)を見て、「半沢直樹」を思い浮かべない人は少ないはず。彼の「やられたらやり返したい」という気持ちはわかるけれど、ここはひとつ「怨みの絆」の恐ろしさを踏まえ、「やられてもやり返さない」ということの意味を考えてみようというものです。

 「倍返し」が達成されれば、確かにその時点で一時的な快感が得られるかもしれない。しかし、やられた相手もその怨みを決して忘れることはない。『法句経』の中にも、「他人を苦しめることによって、自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、怨みから免れることができない。」という言葉があると筆者は記しています。(『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫)

 やられた相手が遺恨を持つことによって、そこに「怨みの絆」が結ばれる。怨みの絆は本当に厄介なもので、一度結ばれてしまうと、これが後に大きな悲劇を引き起こすことがあるというのが筆者の認識です。

 今から100年少し前のこと。第一次世界大戦が終結し、戦勝国のイギリスとフランスは莫大な賠償金要求を敗戦国ドイツに突きつけようとしていた。特に国土を蹂躙された隣国フランスはドイツに対する怨みが非常に大きく、この機会にたたきつぶしてやろうと目論んでいたということです。

 それに対して、アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンは、過酷な要求は怨みを残し次の戦争の火種になると考え、パリでの講和会議でその賠償要求に強く反対していた。しかし、イギリスやフランスは一歩も譲らず、話し合いが平行線をたどる中、ウィルソンは当時世界中で猛威を振るっていたスペイン風邪に罹患してしまったということです。

 第一次世界大戦を終結に導いたことで知られるこのスペイン風邪は、結局その後の会議の流れを大きく変えてしまった。病で完全に気力を失ったウィルソンは、イギリスやフランスに押し切られ、当時の国家予算の約20年分に相当する1320億マルクを賠償金としてドイツに科すことが決定したと筆者は綴っています。

 さて、その後、莫大な賠償金を払わなければならなくなったドイツでは、ハイパーインフレでマルクの価値は暴落し国民の不満が爆発することになります。

 さらに、それがきっかけでナチスドイツが台頭し、ドイツのポーランド侵攻を発端として第二次世界大戦が勃発。フランスやイギリスだけでなく、ヨーロッパ全体にさらに大きな災禍がもたらされることになったのは周知の事実です。

 (そう考えれば)もしも、パリでウィルソンがスペイン風邪にかからず、巨額の賠償金を請求しない形で合意がなされれば、ひょっとするとヒトラーの台頭も第二次世界大戦もなかったかもしれないというのが筆者の見解です。

 これは怨みが連鎖した典型的な例といえる。「倍返し」という復讐行為には誰しもカタルシスを感じるかもしれないが、それでは怨みの連鎖が永遠に続いてしまうと筆者は指摘しています。

 さて、イエス・キリストの有名な言葉に「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」(「マタイによる福音書」)というものがあることは広く知られています。報復は何も生み出さない、「汝の敵を許せ」というのが、キリスト教の基本理念だということでしょう。

 一方、古代バビロニアのハンムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」という言葉が残され、イスラム法では同害報復の原則が中心的な位置を占めていると聞きます。ジハード(聖戦)を行とするイスラム原理主義とテロとの関係にも、そうした影響があるのでしょうか。

 いずれにしても、仏教では(こうしたことから)「やられたらやり返さない」のが基本的なスタンスになっているというのが筆者の指摘するところです。

 『法句経』には「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」と記されているということです。

 人生を暮らす中で、「幸福」の二文字をどれだけ長い目で見られるか。

 安息は恨む心を捨てたところにあると考えるこの言葉をしっかり心に留めて日々の生活を送りたいものだと私たちを戒めるこの一文における筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。


♯1703 ドラマ「半沢直樹」と時代性

2020年08月17日 | テレビ番組


 今から7年前、放送が始まるや否や「倍返しだ」の決め台詞と共に話題が話題を呼び、最終的には視聴率が40%を超えたTBSの(化け物)ドラマ「半沢直樹」。

 (コロナの影響で放映が先延ばしされていましたが)7月に始まった新シリーズも好調で、8月9日に放送された第4話の平均視聴率は22・9%、初回から連続で22%を上回ったということです。

 新シリーズでは、前作同様、第1回から主演の堺雅人が演じる銀行マン(前半は出向先の証券マンでした)半沢直樹が出身銀行を始めとした企業の不正を次々と暴いていく展開が続き、コロナで自粛生活を続ける視聴者の留飲を下げさせています。

 相変わらず、登場人物たちの人間関係は極めて濃密で、(こんなことをしていたらあっという間にコロナのクラスターができてしまうだろうなというくらい)大声で怒鳴り合い、時には胸ぐらをつかむような熱い演技が続いています。

 特に今回は、香川照之演じる大和田取締役、片岡愛之助演じる金融庁の黒崎検査官という超個性的な面々に加え、市川猿之助演じる伊佐山部長という新ヒールキャラが登場し、舞台はヒートアップするばかり。歌舞伎役者ならではの(目を剥く)大見栄え顔のアップが、正に板についているという感じです。

 もはや、これは「ドラマ」といよりも、台詞で戦うプロレスのようなもの。四角いテレビ画面をリングに見立て、鍛え抜かれた顔力と言葉の殴り合いが続くひとつの格闘技と言っても良いかもしれません。

 7年ぶりに「日曜劇場」に戻って来た今回のシリーズのこのような過激な展開については、「ショーになりすぎて、人間ドラマが損なわれているのではないかという疑問の声もちらほら…」といった声も聞かれます。(東洋経済ONLINE「半沢直樹 続編も快進撃の裏に潜む1つの不安」2020.8.16)

 「相手を叩きのめすことばかりが主になり、言葉が暴力的でキツイなどという意見から、いやもはや笑ってしまうという意見まで。7年前は、銀行業界のリアリティーも含めて働く日本人を活写していた「半沢直樹」も、やや時代からズレているのではないか」と東洋経済の記事は指摘しています。

 確かに、ドラマ中に出てくる台詞の多くはハラスメントぎりぎり(と言うよりもハラスメントそのもの)の内容で、労基署に訴え出れば「完全アウト」のものばかり。今どきの企業で上司や得意先からこんな扱いを受ければ、上司としての能力を疑われるばかりか企業の信用すら危うくなって来るでしょう。

 ま、そこはあくまでドラマですので心配はいらないのでしょうが、こうした場面ばかりを見せられていると、(例え15分ごとにCMが入るとしても)見ている方の視聴者も少し疲れてしまいます。

 そこで、中年男性の怒鳴り合いで熱くなった場をクールダウンさせるような存在として登場するのが、井川遥演じる小料理屋の若女将や上戸彩演じる半沢直樹の妻「花」ということになるでしょう。

 実のところ、前回の半沢直樹シリーズでは、主要な役柄・キャストには女性がほとんど充てられておらす、それは「むさくるしい」ドラマだと評されていました。

 しかし、それから7年もの歳月を経た現在では、例え企業ドラマとは言え女性が出てこないというのは不自然ということで、若手社員や政治家役にも女性が配置されるようになっています。

 それはそれで少し落ち着きがよくなった観はあるのですが、直樹の妻、「花」の描かれ方は相変わらず不変で、直樹を支えるもの分かりの良い優しい専業主婦の役柄に徹しています。

 銀行の「奥様会」で上司の奥様に嫌味を言われたり、結婚記念日の食事会を直樹にすっぽかされたりしても、直樹の仕事のためならと笑顔で振舞う良妻賢母(子供はいない設定ですが)が花の役どころです。

 なぜ、これだけ濃密なドラマの中で、上戸彩は前シリーズに引き続き(まるで「おみそ」のように)直接ストーリーに関係のない存在として半沢直樹のバックアップに徹し続けているのか。

 8月16日の「AERA dot.」は、そんな花の役割を『武士の妻』に見立てています。(「半沢直樹の妻、花の描かれ方に賛否」)

 (外で戦う夫に対し)理屈抜きで夫の味方となり、言うべき事は言っても最後は夫の行動を見守って支援をする。そこに視聴者は安心感を覚えるし、よりドラマに感情移入しやすくなる効果も狙っているのではないかということです。

 確かに、男たちには、そうした(自分を認めてくれる)存在がいつもそばにいて欲しいという願望があるのでしょう。また、そういう存在があってこそ頑張れるという、半沢直樹の強さの源泉(のひとつ)として描かれているのかもしれません。

 一方、この記事によれば、直樹の妻「花」は、原作では広告代理店で働くキャリアウーマンで、上戸彩が演じている専業主婦の花はいわばドラマのオリジナル版なのだということです。

 しかし、前作の視聴者の中には専業主婦の花(上戸彩)に感情移入しながらドラマを見ているファンも多く、視聴者からの支持が現在の「花」の姿を作り上げているようです。一本気の(武士のような)経済戦士の妻ならば、夫に尽くす専業主婦の方が市場のニーズに合っていたということでしょうか。

 その一方で、「花の人物描写に違和感を覚える人がいないわけではない。激務の夫を支える専業主婦という設定ゆえ、ジェンダー的な観点から疑問を持つ視聴者の声はツイッターでも散見される」とAERAの記事は指摘しています。

 ドラマ自体には好意的であっても、まるで「昭和妻」のような花の振る舞いには批判的な声もある。しかし、このような「花」の設定にジェンダー的な批判の声が上がるのも、制作陣は既に織り込み済みだったのではないかというのが記事の見解です。

 様々な意見が出るのは国民的ドラマの宿命とも言える。物語を安定させ、緩急をつけるためにも、花の(安定感のある)人物像を貫いたのは、制作陣の“覚悟”の表れでではないかということです。

 さて、そうは言っても、自分が半沢直樹の妻だったとしたら、夫のこうした扱いには(多分に)考えるところもあるような気がします。

 これだけ近くで毎日顔を合わせているにもかかわらず、夫が何に苦労しているのかとか、どれだけの瀬戸際に立たされているのかなどを知らされてもいなかった。

 窮地に立つ夫に対し、自分はただ毎日食事を作りテレビなどを見ながら平穏に過ごしていたという事実を後で知ったら、何も教えてくれない夫はパートナーとしての自分をどう見ているのかと不信の目を向けていることでしょう。

 たかがテレビドラマとは言え、見方は人や時代によって変わるもの。「専業主婦」という位置づけの如何は(この際)脇に置いておいても、ドラマ「半沢直樹」は、あくまで昭和の男たちのノスタルジックな(ある意味「独りよがり」とも言える)生き様を象徴しているのではないかと、改めて感じているところです。


♯1523 「竹内まりや」という存在

2020年01月03日 | テレビ番組


 昨年の暮れ、何かの拍子にテレビを付けたところ、NHKの特集番組として女性シンガーソングライターの竹内まりやさん(以下、敬称略)の40年間の活動の軌跡をたどるドキュメンタリー番組の再放送が始まったところでした。

 恐らくは、大晦日の紅白歌合戦の特別ゲストとして彼女が出演するので、話題を盛り上げるために企画されたものなのでしょう。

 ちょうど時間もあったのて、見るともなく見始めたら止まらなくなり、結局1時間半余りの時間を最期までテレビの前から離れることができなくなってしまいました。

 白状すれば、それ今まで「竹内まりや」という人のミュージシャンとしての活動について、そんなに注目したことはありませんでした。

 しかし、確かに世代が近いこともあって、番組中に流れたデビュー曲から他の歌手に提供した曲まで、私自身ほとんどすべての楽曲を知っていることに今さらながら驚かされたところです。

 竹内まりやと言えば、(多くのオジサンたちにとっては)デビュー当初の「化粧品のコマーシャルソングを歌っている上品なお姉さん」という印象が強いのではないでしょうか。

 実際、当時の芸能界には珍しかった「慶応大学英文科の女子大生」「アメリカへの留学経験」などというブランド力もあって、デビュー当初からコマーシャリズムというか、マーケットに上手く乗った人というイメージが強かったのも事実です。

 思えば、若者文化の中から学生運動や四畳半フォーク的な情緒が次第に失われ、車やレジャー、ファッションなどの「消費」に若者の目が向けられるようになった1970年代の終わり頃。いかにも「苦労知らずのお嬢様」といった屈託のなさを携えてブラウン管(当時)に登場した彼女の姿は、同世代の私たちにはそれなりに新鮮なものでした。

 一方、当時の多くの男性たちにはただただ眩しい「高嶺の花」のように見えた彼女も、(今から思えば)特に同世代(あるいはそれより少しだけ年下の)の若い女性たちには、当時流行っていたan・anやnon-noなどのファッション雑誌から抜け出たような、もっと身近でリアルなロールモデルに映っていたようです。

 確かに、高度経済成長の果実としての豊かさの中を育ってきた、(何を考えているかわからないという意味で)「新人類」などと揶揄されていた「団塊の世代」の次の世代にとって、彼女はさらに「本物の豊かさ」を体現する貴重な存在でした。

 コンサバティブで品のあるお洒落なファッションに長い髪。恐らくは小さなころから習ってきたであろうピアノを器用に弾きこなし、ポップなメロディに合わせて極めて正しい標準語で恋の歌を唄う。

 これが男であれば、(当時であっても)「なんだあのお坊ちゃまは」とか「正義の見方みたいなフリしやがって」などと、その徹底した「正統派」ぶりに散々な言われようだったかもしれません。

 しかし、彼女が次々とリーリースしていった「ドリーム・オブ・ユー」とか「不思議なピーチパイ」といった(よくよく聞くと意味不明な)曲たちは、「アンノン族」に代表される消費時代の気分に上手く乗って、多くの女性から(ある種の憧れとともに)支持されていきました。

 竹内まりやという存在が纏う世界観は、(カテゴリー的に言えば)彼女よりひとつ前の世代に当たるユーミンこと荒井(松任谷)由実が持つイメージに近いものがあったのかもしれません。

 しかし、ユーミンが一歩先の時代を颯爽と駆け抜けていく(飛びぬけた)「先達」であったのに対し、竹内まりやというアイコンはもう少し身近な、半歩先を行く存在として(ある種の)親しみを持って若い女性たちに受け入れられていたような気がします。

 さらにそればかりでなく、その後の(自ら選んだ)活動休止や(実力派として知られた)ミュージシャンの山下達郎氏との結婚、子育ての中での様々なジャンルの歌手への楽曲提供などにより、「竹内まりや」という存在が、現代を生きる女性のひとつの確立したロールモデルとしてリスペクトされていったことは、恐らく間違いありません。

 そして今、シンガーとして、ソングライターとして、また母として、さらに一人の女性として歳を重ねた彼女が生み出す楽曲の数々は、確かに地に足の着いた「大人の女」として安定感のある魅力を放っています。

 かなり昔に作られた曲であっても(今、聴いても)全く「古臭さ」のようなものを感じさせない、非常に普遍性の高いものであるといえるでしょう。

 夫の山下達郎氏は番組中、彼女の作り続けている楽曲の魅力を、「誰にでも受け入れられるミドル・オブ・ザ・ロード(王道)」を歩んでいるところにあると分析しています。

 そして、「何よりも全ての作品に通底している人間存在に対する強い肯定感が、人々に長く受け入れられている大きな要素ではないか」と話しています。

 確かに、竹内まりやの生み出してきた「詩」の数々が、曲中の女性が抱いた感情を大切にし、彼女たちの様々に揺れる気持ちに「寄り添う」ものであることを、山下氏の言葉から改めて確認させられます。

 例えば、同じ時代を多くの人々に支持されて自分の世界観を作って来たシンガー・ソングライターに「中島みゆき」という人がいます。

 彼女の音楽も(同じように)多くの人に「寄り添う」ものではありますが、それは決して社会や人間関係、そして何より自分という存在に対する「肯定感」に満ちたものではありません。

 けれども、理不尽さに直面したり、呵責や葛藤に苛まれたりして傷ついた人たちをまとめて「受け止めて」あげることで、(竹内まりやのそれとは違った形で)ファンの心をわしづかみにし普遍性を放っていると言えるでしょう。

 さて、誤解を恐れずに言えば、一方の「竹内まりや」というカリスマが放つ存在感は、「今、この時」を一生懸命、自己肯定感を持って真面目に努力することができる(ある意味まっとうに育った)女性たちの「共感」によって裏打ちされているのではないかと改めて感じるところです。

 また、そういう意味で「竹内まりや」という女性はまさに「王道を行く人」であり、逆に言えばそのように生きていくことを宿命づけられた、優しく、何より強い人と言えるのかもしれません。


♯1255 日本が抱える問題とは

2018年12月26日 | テレビ番組


 2018年もあと数日を残すのみとなり、師走の風も一段と厳しさを増しています。

 新聞の紙面を覗けば、経済面を中心に「幻と化す新世界秩序」とか「米中協議、合意は困難」とか、「世界市場動揺続く」などといった厳しい論調の見出しが目につきます。

 日本漢字能力検定協会は今年の漢字に「災」の一字を充てました。この字の「く」の字が三つ並んだような上部は川をせき止める様子を指しており、火によって道が塞がれ動きがとれない様子を表しているということです。

 周囲りからいろいろな困難が押し寄せてくるが逃げ道はない。目前に広がる濁流を前に、自ら火中に飛び込むしかないという状況でしょうか。

 今年相次いだ台風や地震なとの自然災害ばかりでなく、米国のトランプ大統領を台風の眼として、アメリカばかりでなくヨーロッパや東アジアなどでも国際協調に大きな混乱が生まれ、大きな「災い」を呼ぶ気配が感じられます。

 好調な世界経済に支えられ、平成の時代をあれこれと迷いながらも何とか持ちこたえてきた島国日本も、いよいよ衰えた体に鞭打って新しい環境に立ち向かって行かなければならない時を迎えているのかもしれません。

 そんな折、あるテレビの情報番組(BS11「寺島実郎の未来先見塾」12月21日放送)で、「現在の日本が抱えている大きな問題」に関するファーストリテイリング会長兼社長の柳井正氏と評論家の寺島実郎氏の対談を目にしました。

 この対談において寺島氏は、最近、海外から帰ってくると、海外の緊張感と日本国内の感覚のギャップに驚かされると話しています。

 それは、激動の荒れた状況に突き進んでいこうとしている世界の状況に対し、日本の社会が(いつまでも)「まったり」した常温に浸っているような空気を纏っていることだということです。

 振り返れば1929年に大恐慌が起こり、1930年代には世界は自国利害中心のナショナリズムの時代に入ってヒトラーやムッソリーニのような怪物を生み出した。そして、日本もそうしたエネルギーの中で迷走していってしまったという経験を持つと寺島氏はしています。

 現在の国際社会は、既に分断の空気に覆われ始めている。我々は、よほど気を付けないと80年前と同じ轍を踏むことになりかねないということです。

 一方、柳井氏は、日本の社会は今も(昔も)同調圧力が極めて強く、何よりも安心や安定を選ぶという決まり切ったストーリーがあって、そのストーリー通りでないと満足しないという風潮が強まっていると指摘しています。

 そうした状況に「飛躍」が生まれることはなく、クリエイティブなものも生まれない。そういう社会になっていることは非常に危険な兆候である。何故なら「安定」は「衰退」の前兆だからだというのが、現在の日本の置かれた状況に対する柳井氏の認識です。

 確かに、世界中を歩いても、日本以外に(国を挙げて)「働き方改革」などと言っている国はないと、寺島氏はここで指摘しています。

 日本人は、何かと理由を付けて(あたかも)なるべく働かないで済む「安全安心」な社会を作ろうとしているかのように見える。しかし、(氏によれば)日本の様な技術と人間の英知で生きていかなければいけない島国では、生き延びるために自分の職業に対する生真面目さを持つのは当たり前の話だということです。

 若い世代が自分の人生や知識・経験の蓄積ために死に物狂いで生きていく時間を持つのはいつの時代にも必要なことで、それを否定するのは「一生成長するな」と言っているのと同じことだと寺島氏は言います。

 柳井氏もまた、人生はいろいろな知識・体験の蓄積や様々な人との交わりの連続であり、そうした積み重ねが人を成長させると話しています。企業も同じで、様々な環境に出て行って、見知らぬ人たちとタフな交渉を繰り返す中で成長するということです。

 寺島氏によれば、最近のトランプイズムに対して、国内ではなるべく穏便に、ここを凌げばやがて春の日が来るかのようなムードがあるということです。

 しかし、現実を直視すれば、トランプなるものが登場してきたこと自体がアメリカや世界の変質を象徴している。それに対して向き合っていくには、日本自身も眦(まなじり)を決して、世界に自国のアイデンティティを示していく必要があると寺島氏は説明しています。

 気が付けば、世界には現在の日本をアメリカの「周辺国」や「属国」として見る向きが増えている、世界の人々の(日本や日本人に対する)敬意が失われているというのが氏の強く懸念するところです。

 日本人が戦後なる時代を生き抜き、その中から知恵と努力で一つのビジネスモデルを作り上げてきたという誇りに立って、国際社会へのきちんとしたメッセージを打ち出すべきだと寺島氏は主張しています。

 米中冷戦時代の到来とも言われる大きな変化が予想される来年という年は、日本の真価が問われる年になるのではないかというのが氏の考えるところです。

 一方、こうした状況に臨む日本人に対し、柳井氏は「日本だけが違う」という幻想を(そろそろいい加減に)捨てる必要があるのではないいかと話しています。

 日本人や日本の企業はもっと海外に出て、海外の事情や日本の立ち位置をもっとよく知らなければならない。「グローバル化」と言われるが、実際のところ日本人はどんどん「内向き」になっているのではないかということです。

 このまま放っておけば、日本は多くの人がパスポートを持たない(トランプの支持層が集まる)アメリカ中西部のラストベルトのような国になってしまうのではないかというのが柳井氏の指摘するところです。

 さて、柳井氏の考える「グローバル化」の本質は、まさに「行動」にあるということでしょう。

 実際に自分が出かけて行って現地の人と商売をし、ものの考え方を知り、生活を体験すれば、(そうしたことでしか得られない)様々な貴重なプレゼントを受け取ることができる。リスクのないところにチャンスはないし、成長もない。

 そう信じて突き進み、わずが20年ほどの間に海外に1000本もの旗を立て、企画、生産から販売まで一貫して海外の人と一緒に働いているのが柳井正という稀有な経営者だということでしょう。

 「世界のユニクロ」を率いるトップリーダーであればこそ、その言葉の重みを私も改めて感じたところです。


♯1188 ポツンと一軒家

2018年10月11日 | テレビ番組


 広く使われている行政用語に「限界集落」というものがあるそうです。

 過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者となり、冠婚葬祭などを含む社会的共同生活や集落の維持が困難になりつつある(つまり維持できる限界を迎えた)集落を指す言葉だということです。

 実は、限界集落には段階が存在していて、(1)55歳以上の割合が半数を超えている段階を「準限界集落」、(2)65歳以上の割合が半数を超えている段階を「限界集落」、そして、(3)65歳以上の割合が70%を超えている集落は「危機的集落」と呼ぶ場合があるということです。

 政府・与党の「地方創生」の掛け声のもと、国土交通省と総務省では5年ごとに限界集落の集計を行っています。2016年の調査によると、現在の日本の限界集落の数は1万4375に及び、2010年~2015年の5年間で190の集落が消滅したとされています。

 また、2011年時点の限界集落数は1万91集落だったことから、同じ5年間で4000を超える集落が新たに限界集落となったことが判ります。(恐ろしいことに)実はこれは割合で言えば全国の市町村の22%を占めており、さらに今後増える見込みとだということです。

 因みに、現在、限界集落の割合が最も多い地域は四国で、集落全体の3.8%にあたる2426集落が限界集落とされています。また、中国地方でも3829集落、九州地方では3045集落の限界集落を数えるなど、特に西日本を中心に限界集落の問題が顕在化している状況が見て取れます。

 限界集落が生まれる最大の理由は、もちろん人口の流出です。若い世代が就学や就職、結婚などで集落を離れ戻ってこない。生活を維持することへの負担が大きく限られた仕事しかない故郷を後にして、都市部での生活を選択する若者が増えているということでしょう。

 また一方で、こうした限界集落の空き家などに新しく移住しようと考える人がいても、実際はそう簡単にはいかないようです。

 集落には集落の共同体があり、家々のつながりや協力関係の下で集落の様々な仕組みが維持されています。特に限界集落では人と人との結びつきが強く、外部の人を警戒する人が少なからずいるため、外から移り住んだ人はコミュニケーションに苦労し、受け入れる側も馴染んでいくのに時間がかかるケースが多いということです。

 さて、近年のテレビでは(制作費があまりかからない)のバラエティ・情報番組が増えていると聞きますが、地方創生のムーブメントもあってか、ここのところ(一時はあまり見かけなかった)田舎暮らしを紹介するような番組が改めて増えてきているような気がします。

 ゴールデンタイムのNHKから深夜のテレビ東京まで、有名無名のタレントやディレクターがカメラを片手にいきなり田舎の町を訪問し、そこに暮らす人々との出会いや(少しズレた)やりとりを楽しむという企画です。

 中には(田舎を馬鹿にしたような)趣味の悪い番組もあるのですが、そうしたものの中でもたまに見かけるとつい(最後まで)見てしまう番組に「ポツンと一軒家」というものがあります。

 全国各地の人里離れた場所にある(ポツンと離れた)一軒家を衛星写真から探し出し、スタッフがそこを訪ねてその家に暮らす人や家族の生活を取材するという、(タイトル通りの)かなりストレートでシンプルな内容です。

 実は、先日時事通信社の行政誌「地方行政」(10月4日号)に目を通していたところ記事の中でこの番組に触れられており、私と同じ問題意識からこの番組に注目していた人がいたことに少し嬉しくなりました。

 山奥だったり離島だったり、いずれにしても生活するには相当不便な人里離れた場所で住民がポツンと一軒家で暮らし続ける理由は、結局そこが好きだからという一点に尽きるとこの記事は説明しています。

 多大なる不便があっても「好き」という背景にはその人や家族の人生があって、どれも聞くに値するストーリだという点も共通しているということです。

 ポツンと一軒家は、いわゆる「限界集落」の概念を超える究極の過疎の姿と言える。現行の地方自治制度では中心市街地からどれだけ離れていようと、人が住んでいれば行政サービスを提供しなければならない。

 そして、これから人口減少が進んでいけばポツンと一軒家は各地で増え、行政サービスのコストはさらに膨らんでいくだろうという指摘がそこにはあります。

 そういえば、番組で紹介される(相当孤立した)ポツンと一軒家でも、そのほとんどに道は通じているし、電気や水道も通っています。たった1軒の家のために、何百万円、何千万円もかけてこうしたインフラを維持していくのは本当に大変なことでしょう。

 一方、人口が減れば、市役所や町村役場の職員も今までの体制は維持できなくなる。マンパワーの不足が行政コストの増大に追い打ちをかけることになりかねないと記事はしています。

 高齢者にはできるだけ便利な中心市街地に移住してもらおうと考えても、(「ポツンと一軒家」に出てくる住民ではありませんが)住み慣れた土地への「思い」を押しのけて移住を強制するわけにもいかず、現実的な選択とはなりえていないのが現状だということです。

 本格的な人口減少社会の到来に備え、国はすべての市町村が同じ水準の行政サービスを提供する「フルセット主義」から脱却する必要があると訴えています。

 そこで想定されているのは、できないものはできないと降参して身の丈に合った行政サービスに縮小していくとともに、どうしても足りない部分は「圏域」の市町村や都道府県に委ねようという仕組みです。

 しかし、もしも市町村がフルセットの丁寧な行政サービスを提供できなくなった場合、一体誰が、最も手間のかかるポツンと一軒家まで生活に必要なサービスを届けるのか。

 町村役場には、あそこの家には〇〇さんのご夫婦が住んでいて、こちらの林道の突き当りには足の悪い〇〇さんのおじいちゃんが一人暮らししているなどと、一人一人の顔が見える地域のリアルがあるわけです。

 コンパクトシティ化など、方法論としての地方行政の効率化が叫ばれて久しい昨今ですが、そこからはもはや過疎地域や限界集落を社会や行政の「お荷物」として扱う発想しか見えてこないのも事実です。

 その一方で、 「ポツンと一軒家」がこうして人を惹きつけるのが、日本人が失いかけている故郷への郷愁や自然と暮らすことへの憧れからであるとすれば、地域との「交流」や「理解」によって何か違う方策が生まれてくる可能性があるかもしれません。

 (少なくとも現在の議論からは)自然と折り合いながら過疎の農山村が守ってきた生活や文化の価値が置き去りになっているように思えてならない…そう結ばれた記事の指摘を、私も共感とともに受け止めたところです。


♯1167 池上彰×子供×ニュース

2018年09月17日 | テレビ番組


 9月7日に放送された、ジャーナリストの池上彰氏をパーソナリティとするフジテレビ系列のテレビ番組で、スタジオにゲストとして招かれていた小中学生約70人のうち少なくとも20人以上が芸能プロダクションから派遣された子役タレントだったことが分かり、ネット上が「炎上」の様相を呈しているということです。

 番組では「大人は決して口に出せない...奇想天外なギモン」とのテロップを掲げ、子供から募った疑問として(例えば)「日本はアメリカのご機嫌取りばかりに見えるのはなぜ?」というテーマを取り上げていました。

 私も(たまたま)リアルタイムでこの番組を見ていたのですが、この質問を行った小6の出演者は、「トランプさんが校長先生で、安倍さんがなんか担任の先生みたい」と述べ、日本も「忖度ばっかりしているんじゃなくて、なんかちゃんと意見を言った方がアメリカも気持ちが分かる」と意見を述べていました。

 その後、スタジオに集められた多くの小中学生らから「ハイ、ハイ、ハイ」とたくさんの手が上がり、池上氏に当てられた子供たちは皆マイクを持つと(言われてみれば、確かに原稿があるかのように)随分としっかりと答えていたのが印象的でした。

 報道によれば、番組の制作陣に対しツイッター上などでは「一般の小中学生に思わせる印象操作にならないのか」「台本的な仕込みのヤラセがあるようにも思えて不快だ」といった内容の意見が相次いでいるということです。

 さらにこの問題をきっかけとして、ネットを中心に「有識者に対する池上彰さんの番組取材姿勢に非常に問題がある」という指摘が繰り返し掲載されるようになり、こちらも大きな話題となっています。

 番組スタッフとされる人物が有識者から取材を行った際に、取材内容を池上本人の意見として紹介することに同意を求められたというものです

 さて、事の真相はわかりませんが、私もこの番組を見ていて(「なんとなく」ですが)テレビを消してしまいたくなるような「居心地の悪さ」(のような違和感)を感じていたのは事実です。

 もちろんスタジオに集められているのは普通の小中学生だと思っていましたから、最近の子供はこんなに「大人びた」(言い方を変えれば「斜に構えた」)ものの考え方をするんだとか、(もしかしたら「尺」を意識していたのかもしれませんが)随分と端的に要点を抑えて話ができるんだと驚かされていました。

 しかし何より気になったのは、司会者の前にバラエティ番組の「ひな壇芸人」のように並べられた彼らが、まさに大人が(そして番組制作者が)期待するような質問や意見を「どうだ」という感じで開陳し、池上氏に「いい質問ですね」などと褒められると得意げに周りを睥睨する様なスタジオの独特な「空気感」でした。

 なんか「大人が喜びそうなこと」を言っている、「大人の期待」に応えている…彼らの立ち振る舞いにそうした悪びれなさを感じて、どうにもいたたまれない気分になったのは事実です。

 そうした印象のままこの番組を見ていた私でしたが、子供たちから池上氏への最後の「疑問」やそのやり取りの中に、(少し安心したというか)記憶に残るものがありましたので、ここに敢えて記しておきたいと思います。

 それは、中学2年生の女子から発せられた「なぜ大人になったら働かなきゃいけないの?」という素朴な疑問でした。

 スタジオの子供たちの間からは、「働かないとちゃんと食べていけないと思う」という真面目な意見が出る一方で、「ニートでも生きていける」とか「(無理やり働かされるような)『社畜』にはなりたくない」などといった素直な主張もなされていました。

 池上氏はこの問いに対し、そもそも「働く」意味とは「働いて自分は社会のために役に立っているんだ、自分はこの社会で必要とされている人間なんだと思えること。」だと答えています。

 給料がもらえるというのも勿論だけれど、「自分が働くことで世の中の誰かが喜んでくれている、あるいは人の命を助けることができている、それが「生きがい」になるんじゃないかと思う。」ということです。

 果たして、これが「大人になったら働かなければいけない理由」の答えになっているかどうかは微妙なところですが、氏の主張するのは「お金のためだけに働いても人は幸せになれない」、つまり「幸せに生きるために生きがいを持って働くのが大人だ」ということでしょう。

 さて、そこで、私ならどのように答えるだろうかと(このやり取りを聞いて)改めて考えてしまったわけです。なぜ、大人は働かなくてはならないのか?

 まず、そもそも「大人」というのはただ「齢を重ねる」だけでなるものではないということが挙げられるでしょう。

 年をとっても、犯罪を重ねるばかりの人もいれば、何もせずただぶらぶらしているだけで人生を費やす人も大勢いる。いわゆる「高等遊民」のように、お金持ちの中には消費だけして過ごす「大人になる必要のない人」もいるかもしれません。

 一般に「子供じみた」人とは、自分のことだけを考え、当面の利害だけでしか物事を判断できない人を指すことが多いようです。イメージで言えば、他者を慮ったりすることができず、感情の赴くままに癇癪を起こしたり人を傷つけたりするタイプでしょうか。

 そう考えると、大人のひとつの形は、自分の立場を(いわゆる「メタ認知」として)俯瞰的に認識し、求められる役割を演じることができる人と言えるかもしれません。

 そしてさらに言えば、大人とは、自分の周囲の人々に「価値」を生み出すことができる人ということもできるかもしれません。

 それは、(言い方を変えれば)自分の立場をわきまえ、自分のためばかりでなく社会や他者の役に立つ人のこと。

 勿論、その(「役に立つ」方法の)在り様は、給料をもらえるような「仕事」ばかりではないでしょう。子育てだったり、家事だったり、芸術だったり、人の話を聞いてあげることだったり、そこにいるだけで周りを安心させるという人というのもいるかもしれません。

 いずれにしても、詰まるところ「大人になったら仕事をしなくてはいけない」のではなく、「仕事をして社会に価値を生み出し、貢献することで初めて大人になれる」のではないかということです。

 だから、(大人にならなくても辛くなければ)一生子供のままでいてもいいわけで、実際にそういう人はたくさんいる。でも、多くの人は他者に評価されないことがしんどくて、人の役に立てないことが辛くて、幸せになるために何か仕事をして「価値」を生み出したいと思うのではないでしょうか。

 さて、そこでですが、敢えて言えば、子供でなければできない発想を楽しみに(番組の視聴者である)大人たちはこの番組にチャンネルを合わせていたはずです。

 で、あればこそ、(君たちは)大人の期待などを気にせず素直に自分の感想や疑問をぶつければよいのではないかと、池上氏の番組を見て感じたところです。


♯842 「ナスD」タフであることの魅力

2017年07月29日 | テレビ番組


 神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏は、7月に発行された近著「直観はわりと正しい」(朝日文庫)の中で、「何でも食えることの大切さ」を説いています。

 内田氏はここで、「何でも食える」「どこでも寝られる」「誰とでも友達になれる」は、生存戦略上の三大原則だと説明しています。氏によれば、その中でも特に「何でも食える」は生き延びる上での大変有用な資質だということです。

 例えば、多少の毒や腐敗物なら「食べても平気」というタフな消化器を私たちはもう持っていない(祖先たちはごく最近までそのような能力を備えていた)。賞味期限を見なくても、においや舌触りで「食べられないもの」を検知できる能力を、現代人はあらかた失ってしまっているのではないかと氏は指摘しています。

 現代人のひ弱でデリケートな消化器でも耐えられる無菌で安全な食品を製造するために要するコストと、「食べられるもの」と「食べられないもの」を自力で選別できる(無理すれば「食べられないもの」でも食べてしまえる)身体を養成するコスト。両者を比較すれば、どちらが費用対効果に優れているかは考えるまでもないということです

 さて、(話題は変わりますが)テレビ朝日系列の深夜枠でこの4月から始まったバラエティ番組「陸海空こんな時間に地球征服するなんて」が話題になっています。

 7月2日に放送された2時間半の特番の視聴率が9.8%と好調だったこともあって、10月からはプライムタイムの放送への昇格が決まったということです。

 ご覧になったことのある方ならお判りでしょうが、この番組は、「部族」「豪華客船」「ドローン」「釣り」「ミステリー」の5つのテーマで、ミッションを与えられたタレントや芸人5組が、それぞれ世界の各地での突撃体験取材を敢行する内容です。

 中でも特に人気なのが「部族アース」のコーナーで、お笑いタレントの「U字工事」の二人がペルーに渡り、アマゾン川流域の未開部族を巡ってその生活ぶりを紹介していくという企画です。地元の人たちの小船やクルーズ船で村々を回り生活を共にしながら、流域に暮らす部族の人たちと漁をしたり狩りをしたりと、様々な冒険を重ねていきます。

「素晴らしい世界旅行」とか「世界ふしぎ発見」など、テレビの世界では海外の珍しい文物や人々の暮らしぶりを紹介するドキュメンタリー番組はこれまでもたくさんありましたが、この番組の特徴はその準備の程よいいい加減さ。戦闘部族から銃を向けられたり、だまされてまんまとお土産を買わされたりと、「これからどうなるんだ?」とハラハラするリアリティが売り物です。

 「深夜枠」ということもあり、それだけであればこれほどまでに話題にはならなかったのかもしれませんが、実は人気の理由は、顔がナス色に変色したことで「ナスD」と呼ばれる同行ディレクターの破天荒な行動にあります。

 この「ナスD」こと友寄隆英ディレクターは、実は「黄金伝説」などの人気番組を数多く手がけてきたテレビ朝日のゼネラルプロデューサー。テレビ番組の制作の世界ではそれなりに偉い方の様なのですが、ウィトという入れ墨に使う果実を(村人に騙されて)塗ってしまい全身がナスのように青黒くなってしまったり、言われたことは(実に素直に)何でも引き受けてしまったりと、まさに無茶苦茶な突撃取材を敢行します。

 何しろ、勧められたものは(昆虫だろうが泥水だろうが)何でも目の前で「うまい、うまい」と食べたり飲んだりし、部族の人にも呆れられる。現地の人が困っていれば作業は何でも手伝い、人懐っこい笑顔ですぐに溶け込み、気が付いたら人気者になっている。

 (例えば)アマゾン川を行くジャングル船「ヘンリー号」に乗船した「U字工事」は、船中にハンモックが吊るされた猥雑な状況に「大変な旅になりそうだ」と思わずつぶやきますが、ナスDの反応は「ワクワクする。この旅が面白くならないはずはない」というものでした。

 こうして、本来主役であるはずの「U字工事」が完全に食われてしまうような彼の人間的な魅力が、この番組の高視聴率を支える最大の「売り」と言ってもよいでしょう。

 彼自身からは、決して「屈強」という印象は受けません。むしろ「頼りない」印象の方が強いタイプの青年と言えるでしょう。しかし、その並外れた好奇心と、何よりも現代人が失ってしまった「タフ」な身体が、(私を含め)脆弱化した日本の視聴者に大変な魅力として映るのだろうと、内田氏の指摘から私も改めて感じているところです。


♯500 ハーメルンの笛吹き男

2016年03月29日 | テレビ番組


 3月14日の日本経済新聞の「春秋」に、「ハーメルンの笛吹き男」にまつわる逸話が掲載されていました。

 ハーメルンの笛吹き男は、中世の街にまだら模様の服を着た不思議な男が現れ、彼の吹く笛の音につられて街中の子供たちが山の洞窟の中に消えていったという、ドイツに伝わる古い言い伝えです。

 この物語は、明治20年代に「グリム童話」のひとつとして日本国内にも紹介され、絵本や紙芝居などによって市井の人々にも広く知られるようになりました。

 また、その後ドイツで行われた様々な調査の結果から、ハーメルンで起きたこの事件が(一定の信憑性が担保できる)歴史的な事実であることも次第に明らかにされてきています。

 1284年、ハーメルンではネズミが大繁殖し、(病気を媒介するなど)人々を大いに悩ませていました。そんなある日、色とりどりの布で作った派手な衣装を着て笛を手にした一人の男が街に現れ、報酬をくれるなら巷を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけたということです。

 ハーメルンの人々は(「どうせできっこない」と高をくくって)男に高額な報酬を約束しネズミ退治を依頼しました。ところが、男が笛を吹くと町中のネズミが男のところに集まってきて、彼の導くままに残らずヴェーザー川に飛び込み死んでいったということです。

 一方、こうして男のネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男と約束したお金が急に惜しくなり、(なんだかんだと難癖をつけて)約束を破り報酬を払わなかったということです。

 怒った笛吹き男は、いったんハーメルンの街から姿を消しました。しかし、ある日再び街に現れ笛を吹きながら通りを歩くと、家々から子供たちが出てきて男の後をついていったということです。

 男に導かれるままに街を出て、山腹にあるほら穴の中に入っていった130人の少年少女たちは、結局、二度と街の親たちの元には戻ってこなかった。街には、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた2人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残されたというのが、この物語が伝えるストーリーです。

 異様な姿の男が吹く笛の音に踊らされ、自ら進んで破滅に導かれるネズミの群れ。そして、その後に続いて楽しげに踊り狂う子供たち。700年にもわたり語り継がれてきた物語や絵本のイメージに、私たちが言いようもないリアリティや恐ろしさを感じるのは一体何故なのでしょうか。

 閑話休題。

 3月11日のテレビ朝日「報道ステーション」の震災特集で放送された、福島県で行われている子供たちへの甲状腺がん調査の結果に関する報道を、先日たまたま目にする機会がありました。

 チェルノブイリの原発事故後に明らかになった健康被害として、放射性ヨウ素の内部被ばくによる小児の甲状腺がんがあることは広く知られています。

 このため福島県では、東京電力福島第一原発事故を踏まえ、子どもたちの健康を長期に見守るため事故当時0~18歳であった福島県民を対象に、世界的にもこれまでに例のない規模で甲状腺(超音波)の検査を実施しているところです。

 そうした中、放射線やがん治療の専門家等で構成される県の検討委員会は、2月15日に4年間にわたる調査の「中間とりまとめ案」を発表しました。

 報告書によると、事故直後に開始した甲状腺がんの先行検査を受けた約30万人のうち、1巡目となる2011年10月~2014年3月の調査で113人に、2巡目の調査(2014年4月~)では51人(2015年末現在)に甲状腺の異常が見つかり、「悪性または悪性の疑い」と判定されたということです。

 この結果について報告書は、わが国の地域がん登録で把握されている甲状腺がんの罹患統計などから推定される有病数に比べ、「数十倍」のオーダで多い甲状腺がんが発見されていると説明しています。そしてその理由として、将来的に臨床診断されたり死に結びついたりすることがないがんを多数診断しているという、いわゆる「過剰診療」の可能性を指摘しているところです。

 発見された甲状腺がんと放射線との因果関係について報告書は、
(1) これまでに発見された甲状腺がんついては、被ばく線量がチェルノブイリ事故と比べてはるかに少ないこと、
(2) 被ばくからがん発見までの期間が概ね1年から4年と短いこと、
(3) 事故当時 5歳以下の者からの発見がないこと
(4) 地域別の発見率に大きな差がないこと(放射線量の多寡との関係性が見られないこと)
などから、現時点では(福島第一原発事故に伴う)放射線の影響とは考えにくいと評価しています。

 但し、報告書では、放射線の影響可能性は小さいとはいえ現段階でまだ完全に否定できず影響評価のためには長期にわたる情報集積が不可欠であること、さらに子供たちへの配慮として、検査を受けることによる不利益(例えば緊急の必要がない「がん」が見つかることなど)についても丁寧説明しながら、今後甲状腺検査を継続していくべきことなどを併せて指摘しているところです。

 一方、こうした検討委員会の慎重な姿勢を全く考慮せず、3月11日の報道ステーションでは、(「現時点では放射線の影響とは考えにくい」とした)中間報告の評価に強く疑問を投げかけ、「甲状腺がんが多発している」として検査結果をセンセーショナルに伝えていました。

 番組では、甲状腺に異常が見つかった子供(本人)や親たちの姿をカメラの前に映し出し、「どうして私が(私の子どもが)がんにならなければならなかったのか?」と、テレビの前の視聴者の感情に直接訴えかけます。

 辛い状況にある人々の(誰かのせいでないなんて「納得がいかない」という)やり場のない声を梃にして、古館キャスターは番組中で「この子たちはこれから先、結婚して幸せな家庭を築けるのでしょうか…」と福島の子供たちの将来への強い同情の念を語っていました。

 この番組を貫いている視点が、原発事故による放射線の影響と甲状腺がんの診断には「因果関係がある」という予断であることは言うまでもありません。少しでも疑わしいのならば「誰か」に責任があるはずで、責任のある者を断罪するのがジャーナリズムの責務であるという、邪悪と正義の論理がそこにあるのは言うまでもありません。

 子供たちの甲状腺の手術を行った医師が、「甲状腺異常の発症例が多いことについては、過剰診療により炙り出された疑いがある」と説明すると、番組のレポーターは「それでは手術を受けた子供は、する必要のない手術をさせられたということか?」と(当然、彼が答えられないような、きわどい)質問を投げかけます。

 さらに、医師が「手術は必要だった」と回答すれば、それでは「手術が必要な甲状腺がん患者が、日本中に現在の何十倍もいると理解してよいのか」と、さらにインタビューを畳み掛けていきます。

 こうした一方的な追求型の報道姿勢は、一見、権力や専門家の不正を許さないという強い立ち位置のように見えます。しかし実際は、視聴者の感情的な動きを助長するための意識的な誘導であり、科学的なものの見方を否定しようとするある種の作為に満ちていると言わざるを得ません。

 福島県で多く見つかっている子供たちの甲状腺の異常については、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の先例から、原発事故との因果関係を疑う見方と、被曝状況の違いなどから可能性は低いとする見方が対立しているのは事実です。

 しかし、細かな実証は他の文献や検討委員会の報告書に委ねるとして、「多発とは考えにくい」と考える専門家もいれば「多発であるから早く手を打つべきだ」とする専門家もいて、結局、放射線の低線量被ばくによる影響は現時点では「よく分からない」というのが真実だということでしょう。

 そうした状況の中、影響力が大きな在京キー局が、自局の看板報道番組において、あたかも福島県内で放射線の影響による子供のがんの発生が(それも数十倍の勢いで)増加しているかのような主張を強くにおわすことは、子供や親たちの不安を募らせるばかりでなく、福島県の子供に対する差別を助長する危険性を強くはらんでいるとの懸念を表さざるを得ません。

 実際、放射線の人体への影響については良く分かっていない部分がまだまだたくさんあって、番組内で古館キャスターも指摘しているように、良く分からないからこそ、報道も含めた取扱いには細心の注意を払う必要があると考えられます。

 さて、冒頭に触れた日本経済新聞の「春秋」では、世界的に知られている「ハーメルンの笛吹き男」は、世の中の(漠然とした)不満や不安を吸い上げ「怒り」の行動へと導く「扇動者」(アジテーター)のシンボルだと解説しています。

 人々の不安を煽れるだけ煽り、「敵」を定めて国民を扇動するアジテーターは、歴史上も後を絶たちません。(今回のアメリカ大統領選におけるトランプ氏躍進の例からも分かるように)正体も知らず、どこへ行くのかも分からないまま、人々はただただ「怒り」に駆られ踊りながら彼についていくことになるということです。

 人々は笛の音につられ、これまでもたびたびに非合理的で不条理な行動をとってきました。結局のところ、私たち人類は「ハーメルンの笛吹き男」の教訓を、なかなか活かせていないということなのでしょか。

 科学的な根拠のないままに福島の人々の不安をいたずらに煽り、復興に向けた地域社会の分断や人々の間の緊張関係を助長し続けるテレビ朝日の報道マンは、福島の人々や子供たちを一体どこに連れて行こうとしているのか。

 いつか機会があれば関係者からぜひ直接話を聞いてみたいと、テレビを見ていて感じたところです。


♯50 半沢直樹

2013年08月26日 | テレビ番組

 TBS系列で放送されているテレビドラマ「日曜劇場 半沢直樹」が人気です。

 「やられたらやり返す。倍返しだ!」の決め台詞とともに、話題が話題を呼び、視聴率も回を重ねるごとにうなぎ登りのようです。第一部「大阪編」が完結した8月12日放送の第5話では、平均視聴率29%、最大瞬間視聴率31.9%に及び、日本の家庭の約3分の一がテレビに釘付けになっていた計算です。

 このドラマの影響を受けて、(当然ここのところの景気の持ち直しの影響も大きいのでしょうが)大学新卒者の就職活動では、メガバンクの人気ランキングが急上昇しているという報道もありました。

 さて、この「半沢直樹」ですが、今の時代、なぜこれほどの人気となっているのでしょうか。制作サイドですら予想していなかったこの「倍返し」ブームに関しては、ネット上などにおいても様々なコメントを見ることができます。

 代表的なものとしては、ストレスの多い現代社会において、主人公の半沢直樹に自らの姿を重ね合わせる(同一化する)ことによって一種のカタルシス(抑圧からの解放・浄化)を得ることが出来るからではないか。堺雅人演じる心やさしい一見気弱そうな愛妻家が、憎々しい上司を一転恫喝しやっつける爽快感がサラリーマンの共感を呼んでいるのではないか。悪徳銀行員に鉄槌を下す貧乏人の味方半沢直樹は「現代の水戸黄門」だ…との意見もありました。

 会社員を主人公にしたドラマと言うのは、サラリーマンとして働く多くのお父さんにとって確かに感情移入がしやすいものです。つらい中にもぐっと耐え抜き、最後の最後に「やられたからには、やり返す」というストーリー展開には日本人の心を捉える一種の美学に通じるものがあって、「さあ、土下座して謝ってもらいましょう」という啖呵に拍手を送るお茶の間の姿が目に浮かびます。

 社会の矛盾や得体の知れない理不尽さに対し「正論」を武器に戦うことがなかなか難しくなった現代社会において、このドラマは、敵味方がはっきりしたわかりやすいストーリーとこの後の展開が見逃せないというスリリングな展開という、いわゆる「受ける」ための二大要素を併せ持つ手堅い作りになっています。

 当然、実際の銀行(特にメガバンクなど)には、融資先の企業と裏でつながって不正な融資を進めるほどの悪い支店長やその腰巾着の副支店長などというのは(そんなには)いないと思いますし、その親玉の常務が実は自殺した父親の仇…という設定も、(ふつうは)あり得ない設定だと思います。

 現実の社会では、たとえ意地悪な上司がいたとしても本人は部下のためを思って指導しているつもりだったり、大声で怒鳴る得意先だって貴方の失敗で大変な迷惑を被って泣きそうなのかも知れません。

 おおかたの視聴者はそんなことは分かっています。それでも視聴者はこうした虚構の中に「自分がこんなにつらい目に遭うのは、どこかに原因となる悪者が居るはずだ」「そいつさえ居なければ全て上手くいくはずなのに」という諸悪の根源を求めてしまいます。

 ドラマを見る私たちは「自分は被害者だ」という居心地の良い無謬性の幻想の中に生かされています。自らは常に半沢直樹の側にいて、鉄槌を下される側の人間ではない…というのが、このドラマを見る上でのお約束です。

 それでもたまには「もしかしたら」と、我が身を振り返るお父さんもいるかも知れません。実は、私にはこれがとても大切な事のような気がします。少しでも心配な方は、気がついたら身に覚えのない恨みを買っていて「10倍返し!」とかされないように、組織の人間関係には十分気をつけておいたほうがいいかもしれません。

 さて、15年ほど前に人気を博したテレビドラマに、「踊る大捜査線(フジテレビ系列)」というものがありました。それまでの刑事ドラマのように、犯罪捜査に挑む刑事たちの正義感に泣くものでも事件を解決に導く過程で推理を楽しむものでもない、警察組織に着目した新しいタイプのドラマでした。

 警察という、当時最も頑強なものとされた組織の中にある矛盾を滑稽に描き、そこに生きる警察官の悲哀を一種のパロディとして扱うという試みが新鮮に受け止められ、「警察ドラマ」ともいうべき新ジャンルを獲得したドラマです。「事件は会議室でおきてるんじゃない。現場でおきてるんだ!」の名台詞とともに、織田裕二扮する青島刑事が官僚組織に負けずに刑事仲間と奮闘する姿が共感を呼び高視聴率を獲得しました。

 「半沢直樹」も、基本的にこの「踊る大捜査線」の延長線上にあるドラマではないかと私は思っています。敵は外部にいるのではなく、実は組織の中にいる。

 組織の中だけで通じる利害や派閥争いにより、アウトプットたる権力(警察もメガバンクも、そう言った意味では大変な権力者ですね)が大きくゆがめられ、そこに泣かされる多くの人々(弱者)が生まれてくる。こうした構造に反発する組織内の一部の人間と権力構造との対立がドラマの最大の見せ場になります。

 しかし、ただひとつ違って見えるのは、「踊る大捜査線」では「所轄」の全員が現場の人間として「本店」との対立軸上に置かれているのに対し、「半沢直樹」にはそういった「組織」対「組織」(置かれた立場同士)の対立軸というものはあまり見られません。

 半沢はあくまで個人対個人の枠組みの中で動いているのであり、そこにはもう「同じ立場の者はまとまる」というある種の「幻想」は見られません。虐げる側と虐げられる側の「集団闘争」「組合闘争」の時代はいよいよ終わりを告げました。個人同士が血で血を洗う競争社会が、ドラマの中にもついにやって来ていると言えるのかもしれません。