最近のニュースから。
学校法人森友学園への国有地売却をめぐる文書の改ざんを命じられた近畿財務局職員が自殺した問題で、財務省は5月9日、4月に開示した関連文書の一部が欠落していることについて、欠落部分の大半は「廃棄されたと考えられる」と回答したと伝えられています。
財務省によれば、同省(本省)理財局の指示で、政治家関係者との応接録として存在が確認された文書を、(担当者が)紙媒体・電子ファイルともに廃棄したと考えられるのこと。結果、「ないのだから仕方がありませんね…」というまるで他人事のような回答に、呆れた人も多かったことでしょう。
ネット上には、「これは犯罪、しかもそれを隠蔽してきたということ。必要なのは捜査」(立憲民主党小沢一郎衆院議員)、「佐川宣寿理財局長(当時)を国会で証人喚問すべき。今回は、『刑事訴追を受けるおそれ』で答弁拒否はできない」(東京地検特捜部元検事:郷原信郎弁護士)、「『廃棄した』では済まされない。公文書廃棄は法律違反、第三者委員会を作って調査すべき」…など、多くの批判の声が上がっています。
それにしても、日本でも指折りのエリート集団であるはずの財務省のキャリア官僚たちが、こんな子供だましのようなことをやっていて本当に恥ずかしくないのか。これほどカッコ悪い姿を(子どもたちの前に)平気で晒していれば、官僚志望の若者が減っていくのも当たり前だと思うのは私だけではないでしょう。
安倍政権への忖度が生んだ、今回の文書廃棄問題はなぜ起きたかのか。5月14日のビジネス情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に、神戸大学大学院医教授の岩田健太郎氏が『霞が関の席を埋める「ずる賢い大人」に言いたいこと』と題する一文を寄せているので、参考までに指摘を小欄に残しておきたいと思います。
官僚が仕える先は、所属省庁でも内閣でも大臣でもない、国民である。国民が税金を払い、それが官僚の給与の原資である。その出資者に対して情報開示を怠り、上司の命令で非道な情報隠し、文書改ざん、さらには破棄までやらかした。「廃棄されたと考えられる」と回答した財務省には、(改めて)「恥を知れ」と言いたい…と岩田氏はこの論考に綴っています。
官僚は二言目には「省益」というが、これは嘘である。本当に大事なのは「省」ではなくて、「自分」なのだと氏は厳しく指摘しています。省益を最優先させ、あるいは内閣のやんごとなき人々におもねって、国民をだまくらかさないと立身出世はおぼつかない。どんな非道なことでもバレなければいいわけで、結局自分のためにやっているだけ…ということなのでしょう。
岩田氏はここで、「プロフェッショナリズム」とは、誰も見ていないところであっても同じ行動が取れることだと話しています。誰かが見ている時とそうでない時で、行動原理が変わってしまう輩はプロとは言えない。そういう意味で、日本の官僚はプロと言えないというのが氏の認識です。
氏によれば、この傾向は近年拍車がかかっていて、正義感があって優秀な官僚は辞めたり、自殺を強いられたりしているとのこと。若くて優秀で正義感あふれる若者が日本の官僚にはなりたがらなくなっているのも、大きな国益上の損失ではないかということです。
そうして、小汚くて、ずる賢くて、上司にへいこら、目下においこらして、出世のためなら事実を平気で隠したり捻じ曲げたりするようなつまらない連中が(日本を動かす)霞が関の席を埋めていくのだろうと氏はしています。
そこで、(ここからが面白いのですが)「そういう連中のために」…ということで、氏があえて取り上げているのが、「ハードボイルド」と呼ばれるスタイル(生き方)の存在です。
ハードボイルドを理解するには、(米国作家レイモンド・チャンドラーが生み出した私立探偵)フィリップ・マーロウのようなハードボイルドな人物を理解するのがよいだろう。ハードボイルドな人物がカッコいいのは、自分自身に課したルールを徹底的に貫き通すからだと氏は言います。
多くの人は、他人が課したルールに従って生きている。なぜ、ルールに従うかというと、従わないと処罰されたり、非難されたり、出世コースから外されたりといった「不都合なこと」が多々起きるから。一方、自分自身に課したルールを守る義務はない。守らなくても誰にも文句は言われない。もちろん、処罰もされない。自分自身に課したルールを守るのは、しばしばしんどいが、それを貫くのがハードボイルドだということです。
自分に課したルールは遵守が難しい。それでも、己が信じる根拠に基づき、誰に強制されるわけでもなく、メリットも特にないまま自分のルールを守るマーロウのこうした態度は、ハードボイルドで(そして何より)「自由」だというのが氏の指摘するところです。
他方、他人に課せられたルールを守らざるを得ない者は不自由だ。そして、自分に課したルールを守っている人間は、一見逆説的な印象すらあるが、自由なのだと氏は言います。その「真なる自由」のためであれば、「留置所に入れられることすら辞さない」というのが、(ある意味)彼の信念であり美学だということです。
身体の拘束よりも大事な不自由さがあることをマーロウは知っていると、氏は話しています。マーロウが(カネが好きなのにもかかわらず)金が無いのも、金銭を根拠に自分の魂を売り渡したりしないから。金銭の授受によって、批判すべき人や団体の批判の切っ先が鈍(なま)るのを嫌うからだと氏はしています。
だから、マーロウは組織におもねったりもしない。警察にヨイショしておけば探偵家業も恙無(つつがな)く行えるのだろうが、決して商売繁盛のために魂を売ったりはしないということです。
もちろん、組織におもねったりしないからといって、単なる「反組織」者というワケではない。反組織という立場に所属することは、その逆の立場におもねっているだけのことだと氏は言います。そうではなくて、淡々と自分が決めた自分の進むべき道を、自分のスタイルで武骨に進んでいくからこそ、人はそこにひとりの自立した大人の魅力を感じるのでしょう。
端から見てどんなに要領が悪くても、またカッコ悪く見えても、自分自身に課した最終的な「矜持」は曲げられない。「恥を知る」というのは結局そういうことではないかと、岩田氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。