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MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2166 マンガがくれた力

2022年05月26日 | アート・文化

 5月に入り、日本経済新聞の連載コラム「私の履歴書」では、漫画家の里中満智子氏が、その生い立ち、来歴、作品への思いなどを様々に綴っています。

 里中氏と言えば、代表作の「アリエスの乙女たち」「あした輝く」などで知られる、押しも押されもせぬ少女漫画界の大御所です。1960年代に高校生漫画家としてデビューして以来、半世紀以上にわたって漫画界の第一線で活躍し、漫画ばかりでなく様々な分野でその才能を発揮されています。

 氏には漫画史に残る様々な作品がありますが、中でも私にとっては1968年に発表された「ナナとリリ」で記憶に残る存在です。同じ人を愛してしまった双子の姉妹、ベトナム戦争で引き裂かれる二人、そして戦場から戻った恋人の記憶喪失…と、まるで(今でいう)韓ドラのような怒涛の展開に、小学生だった私もすっかり引き込まれてしまいました。

 思えば高度成長期の小学生(の男の子)にとって、少女漫画を読むというのは、なかなか勇気の要る(ちょっと恥ずかしい)経験でした。私も、姉の本棚にあった「少女フレンド」や「別冊マーガレット」などを、雨の土曜日の午後などに自分の部屋でこっそり読んでいたような記憶があります。

 当時、少年誌と少女誌には大きく違うところがあったと、里中氏もこのコラムの中で話しています。少女誌は、読者の年代別にたくさんの種類があったのに対し、男性は(今も昔も)小学生から30代のサラリーマンまで同じ雑誌を楽しんでいる。「少年マガジン」(今で言えば「少年ジャンプ」)などは、当時からほとんど全世代に共通して受け入れられる存在だったということです。

 実際、里中氏はそんな少年誌の編集者に、男性の世代別の好みの違いを尋ねたことがあるそうです。すると、その答えは「違いはありません」「男子にウケるシーンは全世代で同じです」というもの。それはどんなシーンかと聞けば、その答えは「闘って勝つ場面」だというものだったと氏はこのコラムに記しています。

 確かに、その後世界的な人気を博した「ドラゴンボール」も「ワンピース」も、「鬼滅の刃」も「呪術廻戦」も、結局のところそのキモは血沸き肉躍るバトルシーンにあったと言っても過言ではありません。

 思わず笑ってしまった。性別によって性格を決めつけたりはしたくないが、男女の精神構造にはやはり無視できない違いもあるのかもしれないと、氏はこのコラムに記しています。簡単に言えば、男はいつまでもロマンチストだということ。一方、女はリアリストで、気が付けば(歳とともに)目の前の現実に関心が向くようにできているということです。

 さて、今でこそ「ジャパンクール」などといって日本を代表するカルチャーの一つとして受け入れられているマンガも、以前からそのように評価されていたわけではない。マンガは昔から、(大人たちの)様々な批判にさらされ続けてきたと里中氏はこのコラムで指摘しています。

 大学生がマンガを読んでいると、大人たちが眉をひそめた時代は長く続いた。教育委員会や学校現場への持ち込みが禁じられたり、PTAから児童生徒が読むことを禁じられたりしたマンガも多かったということです。

 漫画世界にあまたある作品の中には、批判されても仕方のない作品もあるかもしれない。けれど、マンガが持つ無限の可能性を信じている私としては、表現の自由は何としても守りたいと氏はこのコラムの中で語っています。

 日本の状況は、しばしば海外のマンガ家から「うらやましい」と言われる。マンガを巡る日本の表現の自由は世界でもトップレベルにある。こうした状況は(いったん手放せば)再び容易に手に入るものではないというのが氏の認識です。

 世界には今でも、政権批判につながる作品を描くと投獄されるような国は多い。氏によれば、子供のスカートがめくれてパンツが見えるという絵が許されない国や地域も少なくないということです。

 1990年代の初め、一部の自治体で、青少年保護育成条例を強化するなど、漫画表現を規制しようとする動きがあった。近いところでは、東京五輪を控えた2010年代末には、一部の大手コンビニの店頭から成年誌が消えるという事態も生まれたと氏は振り返っています。

 マンガをウェッブで提供することが普通になってきた現在では、差別や人権問題など、さらに幅広い指摘が国内外からされるようになった。漫画家も編集者も誰かを傷つけることがないように、コンプライアンスにとても気を使っているということです。

 様々な問題があるが歴史が語っているように、何か一つの規制が始まると、あれも駄目、これも駄目ということになるのはものの常。なので、私のような年寄りは、後輩たちの表現の自由のためなら、いつでも矢面に立つ覚悟でいると氏は言います。日本のマンガの創成期から第一線で活躍し、社会に向き合ってきた里中氏の、それが創作者としての矜持だということでしょう。

 さて、氏も指摘しているように、(確かに)発表された当時は、くだらない、ためにならない、道徳的でないなどと評価された作品の中にも、後から考えると時代や社会や人生の大きなエポックになっていたというものはたくさんあるような気がします。

 「カムイ外伝」「あしたのジョー」「デビルマン」などの青年向けのものから、「巨人の星」「エースを狙え」などのスポ根もの、「おそ松くん」「天才バカボン」そして「クレヨンしんちゃん」などのギャグマンガに至るまで、一世を風靡したマンガには、社会に向けてのメッセージ、そして世の中への多少の毒が込められていたのは(おそらく)事実でしょう。

 因みに、私にとってのそれは、小学生の時に出会った「ハレンチ学園」(永井豪1968-1972)でした。「スカートめくり」という荒業を全国の小学校に流行らせたこの作品は、一時期メディアやPTAに猛烈に敵視され、悪書追放の標的になりました。そのおかげで「少年ジャンプ」や単行本を学校に持ち込むことができなくなり、先生に隠れて友達どうしで回し読みしていたのを懐かしく思い出します。

 ご存じのように、その内容はエロ、グロ、ナンセンスに尽きるうえ、ストーリーは、(主人公たちが教師たちと抗争を続ける)「ハレンチ学園」を教育委員会が軍隊を使ってせん滅にかかるといった残酷さに溢れています。

 それでも、当時の男の子たちはその理不尽さから目が離せなくなった。私自身、戦場となった学園で壮絶な爆死を遂げる「アユちゃん」(←主人公のグループの一人)の姿に戦慄を禁じえなかったのを覚えています。

 時代は、70年安保の学生運動が大きな曲がり角を迎え、高度成長にも限界が見えてきた時期に重なります。1970年の大阪万博、そしてそれに続くオイルショック、狂乱物価と、日本の社会や経済は混乱の時代に差し掛かろうとしていました。

 「マンガなんか読んでいないで、早く宿題しなさい!」というのは、古今の母親が最もよく口にしてきた言葉でしょう。それでも負けずに子どもたちは、そうしてマンガを読むことで(学校や親からは教えてもらえない)得難い情操を培ってきたということでしょう。

 マンガは同世代をつなぎ時代を紬ぎ、友情の大切さや努力の尊さばかりでなく、世の中の理不尽さや残酷も教えてくれた。そしてそれこそが、私が今、我々の世代を育ててくれたマンガ文化に感謝したいと感じている所以です。

 


♯1838 うっせぇわ!

2021年05月01日 | アート・文化


 昨年10月23日にYouTubeに初めて投稿されてから半年、4月27日には1億2千万回の再生を数え、「子供に歌わせたくない歌第1位」など大きな話題となっている『うっせぇわ』。作詞作曲は米津玄師などと同様ボーカロイドシーンで活躍するボカロPの syudou氏で、歌っているのは同曲の発表日が「17歳最後の日」だったという2002年生まれのAdoという名の現役女子高生とされています。

 ちなみに、ボーカロイド(VOCALOID)とは、ヤマハが開発した音声合成ソフトのことで、この技術を駆使してネット上で音楽作品を発表するクリエーターを「ボーカロイドプロデューサー」(略してボカロP)と呼ぶそうです。彼らの作品の創作やプロデュースの仕方は従来の音楽業界のそれとは大きく異なり、才能とデータが直結し、カスタマーがそれを直接選択するというスキームでビジネスにつながっていくのもののようです。

 実際、1年ほど前まで元サラリーマンだったという syudou氏は、4月30日に放送されたテレビ朝日系音楽番組「ミュージックステーション」の取材にリモートで応じ、歌っているAdoとは一度も会ったことがないと話しています。

 さて、自分を抑圧する大人たちへの「うるさいなぁ」という思いは、(きっと)社会に生きる誰もがある種のいらだちとともに経験したことがある感覚でしょう。それを(女子高生の強烈なアニメキャラクターとともに)ここまでストレートに表現したこの楽曲には、還暦を過ぎようとしている世代としては「参りました」と言うほかありません。

 「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と(ちょうどオクターヴの跳躍を反復する)メロディに圧倒され、「あなたが思うより健康です」と断言されれば次の言葉はなかなか出てこないのも事実です。

 「ちっちゃなころから優等生、気づいたら大人になっていた」私。でも、遊び足りないし何か足りない。実際は「社会人の当然のルール」なんて本当は知ったこっちゃない。(「そんなの当り前だろ」と)何を偉そうに説教してんだよ…そういった気持ちは今も昔も変わらないものなのでしょう。

 しかし、その一方で、「社会の常識やあり方なんてどうでもいいと」反抗したり実際に行動に移したりすることもなく、「うっせぇわ」とただ心の中で繰り返し反発を募らせているようにも聞こえるこの楽曲の世界観を、なんとなく(器用で立ち回りのうまい)「イマドキ」の20代を重ね合わせてしまうのは私だけではないでしょう。

 話題が話題を呼んでひとつの「ブーム」を巻き起こしているこの『うっせぇわ』に関し、東京大学教養学部の非常勤講師で音楽評論家の鮎川ぱて氏が 3月5日の総合情報サイト「現代ビジネス」に、「『うっせぇわ』を聞いた30代以上が犯している致命的な勘違い」と題する興味深い一文を寄せているのでここで紹介しておきます。

 鮎川氏はこの寄稿において、「この曲は「大人への抗議」を歌ってはいない」と指摘しています。

 抗議とは、コミュニケーションだと氏は言います。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経った。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的に過ぎると氏は話しています。

 現代の若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」でいるだろう。一方、「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念(と大人との断絶)であり、実際には語られることのない本音だというのが氏の見解です。

 言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面のようなもの。事が起こったときにはそれは終わっているし、そこにはコミュニケーションは必要とされないということです。

 現代の日本社会において、若者はマイノリティだというのが鮎川氏の指摘するところです。例えば、国内外の様々な調査によれば、日本の人口の8〜10%がLGBTQなどのセクシュアル・マイノリティに該当すると言われる。対して、現在の日本の10代(10〜19歳)の人口は約1100万人。日本の総人口(約1億3000万人)に占める割合は8%程度でセクシュアル・マイノリティの割合と同じくらいだと氏は説明しています。

 社会がセクシュアル・マイノリティを存在しないもののように扱うことは、そうした10代全員を存在しないもののように扱うことと等しい。それがどれだけ暴力的なことかを想像してみる必要があるということです。

 若者は自分たちもまた、自身がマイノリティであることをすでに直感的に知っているのではないかと、鮎川氏はこの論考に綴っています。団塊ジュニア世代が10代だったころと、いまの10代とでは、世界の見え方があまりにも隔たっているというのが氏の認識です。

 もちろん、マイノリティが声を潜めなければいけないということはいっさいないと氏は言います。しかし、多数決の論理のもとでつねに強者となるマジョリティ=大人に対し、そしてその「強者性」への無自覚さに対して、若者たちが世代全体として諦念を共有していたとしても何の不思議もない。もうずっと前から若者は、盗んだバイクで走り出したりできない状況に置かれているということです。

 本音は音楽に託して、マジョリティである年長者には期待しない。一方で、若者が上の世代を「一切合切凡庸な」と指差してしまうのは、数が多すぎて顔が見えないからだと氏はしています。マジョリティは強者であり、マジョリティであるだけで加害者となり得る。「うっせぇわ」は、その被害者たちの声だというのが、この論考で鮎川氏が指摘するところです。

 そういえば、元気に頑張っていたと思っていたのに、年度末になって(急に)退職を申し出てきた20代が、私のオフィスにも何人かいたと聞いています。穏やかで器用で回転が速く、上の世代ともうまく付き合っているように見えても、(鮎川氏も言うように)もしかしたら世代間の分断はすでに大きく進んでいるのかもしれません。 

 彼らには抗議するつもりも、反抗するつもりもない。そもそも「分かってもらえる」とも思っていないのか。上の世代が思っているよりもずっと「健康」な彼らに、「クソだりぃな」と思われるのはまだしも、「丸々と肉付いたその顔面に×」を付けられないようしっかり向き合っていく必要があるのだろうと改めて感じたところです。


♯1800 鈴木大拙の世界観

2021年02月06日 | アート・文化


 1月17日の朝刊を眺めていて、日本の禅文化を海外に広く知らしめたことで知られる仏教学者の鈴木大拙(すずき・だいせつ:貞太郎〈ていたろう〉)を記念して出身地である金沢市が開設した「鈴木大拙館」が、入館者50万人を突破したとの記事に目が留まりました。

 地方版にあったこの小さな記事を読んで、私も以前仕事で金沢を訪れた際に訪問し、その独特な雰囲気を心地よく味わった記憶が懐かしく蘇ったところです。

 大拙が追及した「禅」や「瞑想」への理解をテーマの一つとしたこの施設は、規模も小さく決して派手さはないものの、来訪者の多くが外国人であることなどからも、海外に向け広く日本の精神世界を紹介した大拙の功績がしのばれるところです。

 鈴木大拙は1870年(明治3年)に旧金沢藩医の四男として生まれ、第四高等中学校を退学後英語教師をしていたものの、再び学問を志して上京し東京専門学校を経て帝国大学選科に学んだ苦労人です。

 帝大在学中から鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に師事・参禅するようになり、1897年、27歳の時に釈宗演の選を受け米国に渡ります。米国では、東洋学関係の書籍の出版に当たると共に英訳『大乗起信論』や『大乗仏教概論』などの禅に関する著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外の知識人に広く伝えたことで知られています。

 1909年に帰国した後は、鎌倉円覚寺の正伝庵に暮らし学習院で英語を講じる傍ら欧米諸国への禅思想の発信に努め、晩年は北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を送りました。

 中でも、日本が太平洋戦争に敗れて間もない1950年から1958年にかけての時期に、大拙は最も積極的に海外での講演活動を行なっています。

 大拙はこの頃、敗戦国から来たひとりの老宗教家としてアメリカ各地の大学の大学を回り、仏教思想の講義を行いました。1952年から1957年かけてはコロンビア大学に客員教授として招かれ、ニューヨークを拠点に特に禅の思想を米国のインテリの間に広める取り組みに力を尽くしています。

 この時期、カール・グスタフ・ユングやハイデッガーなどとも精力的に親交を重ね、海外の知識階級において日本人の精神構造への理解を人文学的な意味で高めており、生前の1963年にはノーベル平和賞の候補にも挙がったという逸話も残されています。

 また、大拙は同郷の哲学者西田幾多郎や国文学者の藤岡作太郎と石川県立専門学校以来の友人で、鈴木、西田、藤岡の三人は(国内の文化人の間で)「加賀の三太郎」と称される間柄だったということです。

 そうした大拙に対し、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援したと伝えられています。

 このような話を聞けば聞くほど、人間味のあふれる魅力が伝わってくるこの鈴木大拙という人物ですが、彼の理念の根底には一体どのような考え方があったのかについては、正直、国内ではあまり知られていません。

 そうした折、昨年11月22日の日本経済新聞の日曜版(コラム「The STYLE / Culture」)に文芸評論家の安藤礼二氏が「精神と物質の対立を超え、融和と総合の理念示す」と題する一文を寄せ、大拙の思想の集大成とも言える著作「日本的霊性」に示された彼の理念を紹介しているので、(多少難度が高い部分はありますが)この機会にその概要を残してておきたいと思います。

 アジア・太平洋戦争が最も激しさを増した1944年、(当時すでに)満74歳を迎えていた鈴木大拙が渾身の力を込めて刊行したのが「日本的霊性」という書物。彼はその「緒言」において「霊性」の存在を説き、その定義を「精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質との奥に、今ひとつ何かを観なければならならぬのである」と著していると安藤氏はこの一文に記しています。

 その意味するところは、精神と物質を対立させている限り、あるいは精神によって物質を支配しようと思っている限り、(世界は)闘争や相克を免れることはできないということ。

 大拙がここで「精神」という言葉で指し示しているのは、自然の破壊を必然的にもたらすヨーロッパ的な科学万能主義であり、同時に極東の列島を生きる民族に全面的な破滅をもたらしつつあった日本的な精神万能主義だったということです。

 世界のすべての地域を巻き込んだ戦争によって人類滅亡の危機を迎えている時代であったからこそ、それを乗り越えていくための新たな理念としての「霊性」が必要だったというのが安藤氏の見解です。

 霊性は、世界のあらゆる宗教によって育まれてきた、精神と物質の対立を一つに結び合わせる働きだと安藤氏は説明しています。

 この日本列島においては、そうした霊性が一部の知的特権階級だけでなく、大地を生きるすべての人々に行き渡ったのが鎌倉時代だった。禅の瞑想、浄土の念仏によって、有限を生きる如く普通の人々の心の中にも、無限の存在である如来へと至る道が開かれたということです。

 禅の瞑想は、天地がいまだ分かれる以前、父と母がいまだ生まれる以前の根本的な場に人を立たせてくれる。(大拙によれば)そこで人は、有限で個的な自己の存在の中に個を超えた無限の存在が宿されていることを知るということです。

 そうした環境の中、妙好人と呼ばれるような多くの無名の人々が、その事実を理論的に知るのではなく、日々の生活を通して浄土の念仏とともに実践的に体得していったと氏は続けます。

 翻って、我々も個として自立しながらも超個人として繋がりあうことで、「遊戯三昧の衆生済度」(遊ぶようにして働き、遊ぶようにして人々を救う)へと転換させていかなければならい。それが、大拙が「日本的霊性」に示した理念に対する安藤氏の認識です。

 精神と物質という二元的な対立と矛盾ではなく、霊性という一元的な融和と総合へ高めていくこと。それが、明治の始まりから昭和の半ば過ぎまで一世紀近くを生き抜き、文字通り近代日本を体現した優れた宗教家であり思想家でもあった大拙が下した結論だったと安藤氏はこの一文に綴っています。

 大拙がこの世に生を受けてから、今年でちょうど150年。ウイルスという精神と物質の境界を越えているような存在によって世界が新しい危機に陥っている今こそ(自覚的に)読み直されなけさればならない、それがこの「日本的霊性」という書物ではないかとこの論考を結ぶ安藤氏の指摘を、私も大変興味深く受け止めたところです。


♯1739 僕たちの青春に、ある日突然サザンオールスターズはやって来た(その2)

2020年10月08日 | アート・文化


 さて、思い出話をしていたら、ずいぶん前置きが長くなってしまいました。

 そんなサザンオールスターズの活躍に関し、9月15日のウェッブメディア「CITRUS」に、ライターでイラストレーターの山田ゴメス氏が「デビュー時のサザンオールスターズの“あの頃”を振り返ってみる」と題する一文を寄せています。

 サザンオールスターズが初めて世に出た(先に述べた)1978年の「ザ・ベストテン(TBS系)」における生中継について、何語かわからない歌詞を早口でまくしたて、「僕らはただの目立ちたがり屋の芸人です!」と自己紹介する桑田の姿は衝撃的だった(らしい)と、山田氏はこの記事に記しています。

 当時16歳だった氏は、実際にはこの歴史的な生中継を見ていなかったことを、今では大変後悔しているということです。

 氏は、サザンオールスターズという(当時の感覚で言えばかなりマニアックな)ロックバンドが「ザ、・ベストテン」という歌謡番組に出演した背景には、「ロックを歌謡曲と同じ目線で売り出す」というプロデュース側の思惑があったと指摘しています。

 その斬新さが、まだロックの「ロ」の字あたりでウロチョロしていた(自分たちのような)いたって平均的でミーハーな日本の青少年たちに、大きなインパクトを与えたというのが氏の回想するところです。

 「日本語ロック」のはしりと言えば、一般的には細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂らによって結成された『はっぴいえんど』などが有名です。

 しかし、最近ではもうスタンダードとなった「ロックを英語っぽく日本語で歌う手法」を音楽界へと広く浸透させたのはサザンオールスターズではないかと、山田氏はこの記事で指摘しています。

 小節内に可能なかぎりの文字数をブチ込み、タンキングを多用しながら、あえて「一度聴いただけでは、なにを言っているのかよくわからない」スタイルを前面に押し出す。

 さらに(サザンオールスターズにいたっては)その「なにを言っているのかよくわからない」を逆手に取り、歌詞中に“エロワード”をも巧みに取り入れて大人たちの顰蹙をあえて買い、若い世代の話題を誘ったということです。

 高校3年生の(熱い)夏を過ごしていた私にとっても、サザンオールスターズの登場とその後の活躍はインパクトの大きいものでした。

 ハイテンポの曲が醸し出すラテン系のノリとエロティックな疾走感。その一方で、スローバラードとも相性の良い桑田佳祐の音楽性と(演歌のような)節回しに、私たちの世代の多くが魅了されたのは、40年以上続くその人気が証明しています。

 この間、高度成長期の終わりにあった日本は、バブル経済の絶頂を迎え、その崩壊を経て失われた20年、30年へと向かいます。

 地味でダサく理屈っぽかった若者たちも、バブルのおかげもあって次第に洗練されるようになり、それと同時に人々はものを考えなくなりました。

 しかし、時代はそれほど甘くなく、携帯やスマホの普及と同時に、世界経済から落ちこぼれていく日本の姿があったのも事実です。

 そして現在、サザンのデビュー当時に10代だった若者たちも今ではもうアラ還を迎え、(人の波も消えた)「砂混じりの茅ヶ崎」は初老を迎えた夫婦が散歩する「思い出の場所」となっていることでしょう。

 それでもサザンのメンバーが、変わらず気取らないアロハシャツ一枚の姿のままJ-POPの先頭を走り続けているのは、まさに奇跡としか言いようがありません。

 20世紀の世紀末を若者として日本に生きた世代の、少し投げやりな「豊かさ」や「自由さ」を体現した彼らの楽曲たち。私たちの世代の青春時代に(学生運動や)プレスリーやビートルズはいなかったけれど、サザンオールスターズがそこでキラキラと輝いていたことは間違いありません。

 そうした想いを胸に、「日本ロック界の潮流が劇的に変わった瞬間を目の当たりにできた私(ら世代)は、もしかすると結構幸せ者なのかもしれない」とこの記事を結ぶ山田氏の指摘を、私も(少し遠い目をしながら)しっかり受け止めたところです。


♯1738 僕たちの青春に、ある日突然サザンオールスターズはやって来た(その1)

2020年10月07日 | アート・文化


 新型コロナウイルスの感染拡大に伴う非常事態宣言が解除されて1カ月余りの6月25日。数ある日本のミュージシャンの中でも抜群の集客力を誇るサザンオールスターズが、横浜アリーナを会場に無観客ライブを開催しました。

 3600円のチケットを購入したファンは約18万人に上り、推定視聴者数は50万人という驚きの規模となりました。

 自粛生活の影響で困難を極めるエンターテイメント業界ですが、自らが続けてきたライブ活動によって日本を元気にし、(併せて)コンサートスタッフの生活を支えようとする彼らの取り組みは、大勢のファンたちに共感を持って受け入れられたようです。

 そんなサザンオールスターズのデビューから、気が付けばこの夏で既に42年。浮き沈みの激しい日本の音楽シーンの第一線で息の長い活動を続けているこのバンドとは、私も(彼らのデビュー以前から)ほんの少しだけ関わりがありました。

 「EastWest(イーストウェスト)」は、1976年から1986年にかけての約10年間にわたって続けられていたヤマハ東京支店の主催による関東ローカルのアマチュアバンドコンテストです。

 時代が、歌謡曲からフォークソング、フォークソングから(いわゆる)ニューミュージックへと移っていく中、このイベントは新人バンドのメジャーデビューへの登竜門として、後にプロデビューして活躍する多くのバンドを輩出しました。

 中でも1977年の東京大会は、その後フュージョンバンドとして一世を風靡したカシオペアや、コーラスバンドとして一時代を風靡したシャネルズ、そして何よりも、以降の日本の音楽シーンに大きな影響を与えることになるサザンオールスターズを世に出したことで知られています。

 実は、この大会に(同じ高校に通う)友人のアマチュアバンドが出場していた関係で、私もスタッフの一員として(この歴史的なイベントの会場となった)中野サンプラザに偶然居合わせていました。

 今でこそ、昭和の終わりから平成にかけてのJ-POPをリードしたバンドとして歴史に名を遺すサザンオールスターズも、当時は皆、青山学院大学の大学生。ラフなアロハシャツ姿の所在なさげなメンバーの姿に、会場の誰もがそれほどインパクトは感じていませんでした。

 しかし、ひとたびステージに上がると、(よく聞き取れない)例の巻き舌のしゃがれ声で「女呼んでブギ」を歌う桑田佳祐の姿には他のどのグループとも違う独特の世界観があって、私自身、大きな衝撃を受けたのを昨日のことのように覚えています。

 彼らはその約1年後の1978年6月にビクターからメジャーデビューを果たし、同年8月31日のTBSテレビの人気番組『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」のコーナーに初出演しました。

 高校3年生だった私も(当時は「ビデオデッキ」などというものは一般家庭には普及していなかったので)本当にたまたまこの番組を見ていて、「あぁ、あの時のバンドがいよいよテレビに出るようになったのか」と感慨深いものがありました。

 その時、初めて聞いたのがデビュー曲となった「勝手にシンドバット」。黒柳さんや久米さんの楽曲紹介のノリとして「コミックバンドが歌うコミックソング」的な扱いがあり、私もそういうつもりで聞いたのですが、この曲には「歌謡番組」の枠を壊す破壊力がありました。

 翌日の2学期の始業式、「昨日のあれはいったい何だったんだ?」と、久しぶりの教室で友人たちと笑いながら話したことが今でも思い出されます。

 そして、それから既に42年。サザンのメンバーたちが数々の名曲や珍曲を世に送り出している間に、アロハシャツを着たお兄ちゃんやニキビ面の高校生も、今ではどこら見ても立派な中年の「おじさん」「おばさん」となっています。

 しかし、(例え「非常事態」が宣言されたとしても)また暑い夏がやって来て、ひとたび(耳慣れた)彼らの音楽を耳にすれば、あっという間に気分は10代の当時に戻ってしまうのはどうしたことでしょう。

 彼らが(いつもとかわらず)元気に活動しているうちは、自分たちもきっと歳をとらない。そう感じさせるパワーを持つサザンオールスターズの活動に、私も強くエールを送る一人です。
(「♯1738 私たちの青春に、ある日突然サザンオールスターズはやって来た(その2)」につづく)


♯1501 日本人の宗教観

2019年11月29日 | アート・文化


 10月5日、NHKドラマ「聖☆おにいさん 第II紀」の放送が始まりました。

 俳優の松山ケンイチと染谷将太がそれぞれイエス・キリストとブッダに扮し、東京の下町で共同生活を始めるという極めてユニークなストーリーです。

 この作品の原作は、累計発行部数1,600万部を超える中村光の大人気コミックです。これを実写化したドラマの続編として俳優の山田孝之が製作総指揮をとり、「聖人」ならではの少しとぼけた暮らしぶりをユーモラスに描いたのが今回の作品ということになります。

 前回のクールでこのドラマを初めて見た際、キリスト教や仏教を真面目に信仰している人も多いのに「これって(NHK的に)アリなの?」と随分びっくりしたものです。しかし、こうして続編が作られるくらいですから、「話題」にはなってもあまり「問題」にはならなかったということなのでしょう。

 もちろん、主人公がイエスやブッダではなくモハメッドであったりすれば、相当ヤバイことになっていたかもしれませんが、それにしても日本の社会における宗教や信仰への寛容さ(というか「緩さ」)には改めてびっくりさせられるところです。

 6月29日の総合情報サイトPRESIDENT Onlineでは、北海道大学准教授の岡本亮輔氏が、宗教に対するこうした日本人の「ゆるい」感覚について、「なぜ日本はブッダとイエスをイジれるのか」と題する(ある意味少し真面目な視点からの)論考を寄せています。

 文化庁の発行する『宗教年鑑(2018)』によれば、日本の神道系の信者総数は約8616万人、仏教系は約8533万人であり、合わせて1億7000万人を超えると岡本氏はこの論考に記しています。

 神道と仏教の信者だけで総人口を超えてしまっているのは、各宗教団体による報告数をそのまま掲載しているから。しかし、仮に信者数を半分に割り引いたとしても日本人の2人に1人以上がなんらかの宗教の信者であるというのは、あまりに実感とかけ離れているのではないかというのがこの論考における岡本氏の見解です。

 こうした状況がなぜ起こるのか。氏は、「イエスを救世主と信じる」というのと同じような意味での信仰は日本の宗教文化にはなじまない。日本の伝統宗教である仏教と神道では、そもそも「信じる」ことはそれほど重要ではないからだと説明しています。

 たとえば神道国際学会のウェブサイトによれば、「神道は古代から現代まで続く土着の民族宗教であり、アニミズム的な自然崇拝の性格が強い」とある。「宗教的体系はなく教祖もおらず、聖書のような教典もない」「神道に神学はなく、氏子は信者ではない」と書いてあるということです。

 これはどういうことかと言えば、神道は信じるか信じないかという以前に、そもそも信じるべき明確な内容を有していないということ。だからこそ、明治維新以降の王政復古では、「神道は宗教ではない」というレトリックが可能になったと氏は言います。

 一方、仏教の場合は、神道よりも確固とした教学の伝統があるのは事実でしょう。しかし、高い抽象度と論理性を備えた仏教の教義が一般民衆に浸透しているかというと、それはまた別の話だというのが岡本氏の見解です。

 そもそも、現在でも日本人の多くがどこかの寺の檀家になっているのは、江戸時代、幕府によって寺が民衆統制の出先機関に指定されたため。どこかの寺に所属することで、当時禁止されていたキリシタンでないことを証明し、寺はそれによって檀家という比較的安定した経済基盤を獲得したということです。

 このように、神道も仏教も、大半の日本人はその教えに共鳴して選択したわけではない。神道は(祭礼などを通じて)地域というコミュニティ単位で、仏教は(先祖供養などを通じて)家単位で関わるものであり、個々人が神仏や極楽浄土についていかなる信念を持っているかとはあまり関係ないものだと岡本氏はこの論考で指摘しています。

 一方、キリスト教の場合は、神道仏教とは事情が異なります。カトリックであれ、プロテスタントであれ、キリスト教には精緻に組み上げられた信仰体系が存在する。世界はいかにして始まり終わるのか、人の命はどのようなものであり、また人と自然がどのような関係にあるかも語られると氏は言います。

 しかし、(そのためかどうか)キリスト教の国内の信者数はふるわない。日本のカトリック中央協議会によれば2017年の信者数は約44万人で、さまざまなプロテスタント教会の信者数を合計しても、日本の総人口の1%前後と見積もられるということです。

 日本のキリスト教は、文化や芸術、あるいはクリスマスのようなイベントとしてはなじみがある。井上ひさし、遠藤周作、曽野綾子といったクリスチャンの作家も親しまれてきたし、国内外を問わず、旅先で高名な教会を訪れる日本人観光客は多いと氏はしています。

 しかし、「信じるか?」となると話は別で、信仰という形でキリスト教に接する人は常に少数であり、神道仏教とは異なる意味で信者なき宗教だというのが岡本氏の見解です。

 つまり、「信じないが知っている」という独特の(軽い)関係でキリスト教と仏教に接してきた日本独特の宗教風土が、このドラマの「面白さ」を成立させていると氏は言います。

 それでは、日本人の心根にある信仰心とは、一体どこにあるのか。

 少なくともそれは、教義や禁忌、預言者への崇拝などと強く結びついた(世界的に一般的な)宗教観とは基本的に異なるものだと考える岡本氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


♯1086 そこのお醤油とって…

2018年06月07日 | アート・文化


 キッコーマンから販売されている「しょうゆ卓上びん」が、3月30日付で「立体商標」に登録されたとの報道がありました。

 立体商標制度は、立体的な形状を「商標」として登録し保護する制度です。日本では1996年に導入され、これまでに「アディダスの運動靴(三本のライン入り)」やケンタッキー・フライドチキンの「カーネル・サンダース人形」などが登録されてきたということです。

 なで肩で赤い注ぎ口を被ったその形だけで(醤油の)香りまで伝わってきそうなこの醤油刺しは、1961年(昭和36年)に世に出て以降、実に半世紀以上にわたってお茶の間の(さりげない)必須アイテムとして親しまれ、認知されてきました。

 この瓶を見て、お刺身や焼き魚などの並んだ食卓を思い出さない日本人はほとんどいないと言ってもよいかもしれません。「ちょっと、そこのお醤油とって…」と言われれば、誰もがこの瓶を手に取るはずです。

 大きさや重さと言い、手に取った際の感じと言いまさに絶妙で、どのくらい傾ければどのくらいの量が注がれるかを、日本人の多くが身体で理解していると言っても過言ではないでしょう。

 キッコーマンによれば、開発当時、しょうゆ差しは液切れが悪く垂れてしまうものが多くあったそうです。そこで当時の開発担当者が、新進の若手デザイナーであった榮久庵憲司(えくあん・けんじ)氏に依頼。「持ちやすく、液だれしにくく、倒れにくい」三拍子そろった卓上びんのデザインに取り組み、試行錯誤の上誕生したのがこの醤油刺しだったとされています。

 また、その一方で、デザインにあたっては(機能面ばかりでなく)当然ながら「美しさ」も重要な要素であったということです。

 卓上に置いたときにデザインとして美しいものであること、容器はできるだけ透明にし醤油の色を美しく見せると同時に残量が一目でわかるようにすること。さらには、女性が卓上びんの首を持って注ぐ際、手がきれいに見えるようにすることなどをデザインのコンセプトにしたということです。

 これまで、立体商標に認められてきたものの多くは、「文字」や「ロゴ」などの図形が印刷されていたということですが、今回の「しょうゆ卓上びん」については、文字などがなくても“キッコーマンの卓上びん”と認識できることが認められた数少ない事例だとされています。

 4月23日のYahoo newsに掲載されていた弁理士で金沢工業大学客員教授の栗原潔氏の解説(「キッコーマン醤油容器が高いハードルを越えて立体商標登録」)によれば、立体商標として商品または容器形状そのものを立体商標とする場合、商標登録へのハードルは非常に高くなるということです。

 商標権は更新料さえ払えば永遠に権利を存続できる強力な権利であり、一般的な形状を特定の企業に独占させてしまうと弊害が大きい。なので、長年の使用により消費者(需要者)に対して強い識別性を発揮している形状でなければ、一般に立体商標としては登録されないということです

 このため、これまで(こうしたハードルを乗り越えて)形状のみで立体商標登録されたのは、「コカコーラのボトル形状」や「ヤクルトの容器形状」などのいくつかの例しかないと栗原氏は説明しています。

 ちなみに、形状のみでは立体商標登録できなかった例としては、福岡のひよこ饅頭やサントリーのウィスキーの角瓶などがあるということです。「ひよこ」はいったん登録され無効審判もクリアーしたものの知財高裁で逆転、角瓶は結局商品名を入れた状態で立体商標登録したとされています。

 デザインを見ただけで商品イメージが浮かぶものとしては、例えばBicのライターやボールペン、ジッポのライター、レイバンのサングラス、ジープやフォルクスワーゲンなどの車たちなどの(いわゆる)工業製品がまず思い浮かびます。

 もっとシンプルなものでは、手持ち棒の付いたチュッパチャプスやチョコレートのキットカットの意匠などを思い浮かべる人もいるかもしれません。

 一目で「それ」とわかるアイテムが生活や文化に溶け込み、(場合によっては)時代背景や生活水準、使う人の性格やものの考え方までをも示すアイコンとして機能する。

 優れたデザインというものには、単なる機能や美しさを超えたそうした不思議な力がこもるものだということを、慣れ親しんだ醤油の瓶の姿から改めて感じさせられたところです。



♯1080 母語を引き継ぐ

2018年05月31日 | アート・文化


 神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏のブログ(「内田樹の研究室」3月28日)に、氏が2年前に大阪府の国語科教員たちに向けて行った「母語の生成と機能」に関する講演録が掲載されていました。

 内田氏はこの講演の中で、古語辞典が一冊あれば誰でも古典文学(などの先人の残した記録)に容易にアクセスできる言語環境にある国は、東アジアの中でも日本だけだと指摘しています。

 氏は、多くの東アジアの国では、特殊な専門教育を受けたわけでもない一般人が古典を理解することは既に困難になっていると説明しています。

 例えばベトナムでは、それまで使われていた(漢字とベトナム語の万葉仮名的な表記法である)「チュノム」のハイブリッド言語が、17世紀以降の西洋文化の流入とともにアルファベット表記の「クオック・グー(國語)」に表記法を変えてしまった。

 その結果、欧米の言語と同じ表記となって便利にはなった一方で、市井の人々は漢字・チュノム混じりで書かれたテクストを読むことができなくなったということです。

 古典どころか、祖父母が書いた日記も手紙も読めないし寺院の扁額も何を書いてあるのかがわからない。利便性の代償として、ベトナム人は世代として2代前以前の自国文化のアーカイブへのアクセス権をほぼ失ったと氏はしています。

 果たして、それは間尺に合う取引だったのかどうか。ベトナムばかりでなく、フィリピンやマレーシア、シンガポール、インドネシアなど多くの東南アジアの国々で(国民のアイデンティティに関わる)同様の問題を抱えているということです。
 
 隣国、韓国でも事情は似ていると内田氏はこの講演で述べています。

 韓国では1970年代に漢字廃止政策が採択されたことは日本でも広く知られています。

 その理由の一つには日本の植民地時代に日本語使用を強制されたことに対する反発があり、さらに漢字は習得が難しいので、漢字の読み書きができる階層とできない階層の間で文化的格差が生じるリスクがあるということで、ハングルに一元化されたということです。

 確かに私の記憶でも、70年代までの韓国の新聞や街の看板などには「漢字」が多用されており、日本人にも(何が書いてあるのかが)何となくわかりました。しかし、現在のソウルの街は、アルファベットと(韓国人以外には記号にしか見えない)ハングルの〇や□に溢れていると言っても過言ではないでしょう。

 ハングルへの一元化によって、韓国の教育の平準化は確かに進んだと内田氏は評価しています。しかし、ベトナムの場合と同様、そこに先行世代と使用言語が違うという事態が生じたのもまた事実だということです。

 一世代前の人が書いたものが読めない。今の韓国の若者たちは、漢字は(本来は漢字に由来するはずの)自分の名前くらいしか書けないのが普通だと氏は言います。

 例えば、氏が韓国の学生と(韓国江原道に)五台山月精寺という名刹を訪ねた時、扁額の「五台山月精寺」という文字を読めた学生は一行の中にひとりもいなかった。中高年ならまだしも、40代くらいになると、それくらいの漢字でも読むことが難しくなっているのが韓国の実情だということです。

 日本では、「韓国の英語教育はすごい」とよく言われますが、確かにそこには「必然性」があると内田氏はしています。

 韓国は、表意文字である漢字を捨てて表音文字であるハングルしかない。日本で言えば、ひらがなだけで暮らしているようなものだということです。

 そうした状況で学術論文を全部ひらがなで書くという手間を考えたら、外来のテクニカルタームなどはそのまま原綴りで表記した方が圧倒的に効率的に決まっている。だから、漢字が使えない以上、英語への切り替えは必然的だったというのが韓国の言語環境に関する内田氏の認識です。

 しかし、一方で氏は、母語では学問的な文章を書くことができないというのは、やはり大きなハンディになるのではないかと考えています。

 自然科学なら英語で(そこそこは)行けるかも知れませんが、英語でやったのでは、韓国オリジナルな社会科学や人文科学は出てこない。というのも、文系の学問は母語のアーカイブの中で熟成するものだからだということです。

 今の韓国の学術的環境では、1970年以前になされた知的営為へのアクセスが日々困難なものになっていると内田氏は指摘しています。

 韓国では、先行世代がその言語的能力を振り絞って書いたテクストを読むことが難しくなっている。このことはいずれある時点で、韓国の次世代の知的生産性、知的創造性にとっての大きなハンディになるだろうと氏は予想しています。

 内田氏によれば、今、韓国の大学で一番人気のない学科は、韓国文学科と韓国語学科と韓国史学科だということです。

 多くの優秀な学生が、実学的な専門を修めてアメリカに留学して学位を取ろうとする。それは、そういう人たちが韓国のこれからのリーダーになることを意味していると氏は言います。

 しかし、自国の言語にも文学にも歴史にも、特段の関心がないという人たちに韓国のこれからの国のかたちを決めさせるというので本当に大丈夫なのか。有史以来、東アジアに花開いた朝鮮民族の素晴らしい文化アイデンティティが、ここ数年で過去のものとなり、やがて失われてしまうのではないかという懸念がそこにはあります。

 翻って、日本でも、文系の学問に対する風当たりが強くなっているのは事実でしょう。古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちが多くなっていると内田氏も指摘しています。

 それでも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるというのが、この講演における氏の主張の要諦です。

 二千年前からこの言葉を使ってきた全ての先人たちと、私たちは文化的に「地続き」の場所にいる。そして、日本の場合は、ありがたいことに、言語を政治的な理由で大きくいじらなかったので、700年前の人が書いた文章を辞書一冊あれば、誰でもすらすらと読むことができるということです。

 内田氏は、それがどれほど例外的で、どれほど特権的な言語状況であるのか、日本人は知らな過ぎると指摘しています。

 グローバリストたちは、もう古文や漢文なんかいいから、英語をやれと言う。でも、それは自国語で書かれた古典のアーカイブへのアクセスの機会を失うということを意味していることを、私たちは忘れてはいけないということです。

 「言葉」なんてシンプルなストックフレーズを使い回せばいいと思っている人間が、日本の場合、政官財メディアの指導層のほとんどを占めていると内田氏は言います。なので、(日本のリーダーたちの間に)「生きた言葉」を使える人がほとんどいなくなってしまったという、痛ましい現実があるというのが、日本の現状に関する氏の認識です。

 母語を受け継ぎ、子どもたちを生きた日本語の使い手にしていくことは、次の世代に自分たちの歴史や文化を預けるということだと内田氏は考えています。

 東アジアが地政学的に大きく動いている現在、子供たちに、日本の文化や日本人のものの考え方、そして社会そのものを引き受けてもらえるように支援していことこそ、親世代の責任なのではないかと指摘する内田井の視点を、私も大変興味深く受け止めたところです。



♯1072 洞窟壁画の芸術性

2018年05月21日 | アート・文化


 NPO法人オール・アバウト・サイエンスジャパン代表理事の西川伸一氏が5月19日のYahoo newsに「自閉症の考古学」と題する興味深い論考を寄せています。

 西川氏はこの論評において、英国のヨーク大学で考古学教室の講師を務める女性研究者Penny Spikinsさんの、石器時代の遺物を通して現代の自閉症スペクトラム(ASD)の人たちを考察する最近の研究論文を紹介しています。

 氏によれば、Spikinsさんは自閉症をNeurodiversity(神経の多様性)と捉える最新の視点をさらに進め、自閉症傾向こそ人類の進化に欠かせない重要な性質として積極的に捉えるべきだという主張を展開しているということです。

 なぜ社会性に問題があるとされる自閉症が、今も淘汰されず1-2%という高い頻度で存在しているのか?

 この問いに対してSpikinsさんは、「自閉症的傾向を持つ人材は、一つのタイプとして社会に必要とされ尊敬されてきたことで、淘汰されることはなかった」という結論を導いていると西川氏はしています。

 Spikinsさんが今年オープンアクセスの雑誌Open Archeologyに発表した論文「ヨーロッパの旧石器時代の美術に見られる自閉症的特徴をどう説明すればいいのか」(262-279, 2018)では、アスペルガー症候群などの多くの自閉症スペクトラム(ASD)の子供達には、ASDではない子供たちと違う目で世界を見る能力があるとしています。

 ASDの人たちが示す特殊な視覚認知能力の背景には、llocal processing bias (部分的情報処理バイアス:LPB)と呼ばれる全体にとらわれることなく細部を表現する能力がある。なので、ASDの人が描いた絵には、一般人にはない高い空間認識能力に基づくリアリズムが表現されているということです。

 Spikinsさんはこの論文で、フランスのショーヴェ洞窟で発見された世界最古の壁画や、ドイツ・シュターデル洞窟で発見されたライオンマンのフィギャーのように、現代から見てもリアリズムの粋と言える作品群は、一体誰に作成し得たのかと問いかけています。

 そして、彼女にとってその答えは明白で、これらの壁画などに見られる先鋭的なリアリズムは決して旧石器時代の人類一般の特徴ではなく、(描くことができたのは)特殊な能力を支える遺伝子プールを持っていた一部の人に限られていたに違いないということです。

 確かに、現代のASDと3万年以上前の石器時代のアートを比べるというのはとてつもない発想ですが、言われてみると(この指摘には)高い説得力があるのではないかと西川氏はこの論評で述べています。

 常人の域を超えたASDの人たちが持つ(研ぎ澄まされた)能力は、石器時代の人々の生存と進化を支えてきた。そして、(人類が保ってきた)進化の早い時期から脳に生まれたneurodiversity(多様性)を大事に育む思いやりこそが、人類を成功に導くひとつのカギだったのではないかということです。

 ASDが持つ能力を理解しつつも、社会への適応性の欠如を理由に、合理性を重んじる現代社会は自閉症やアスペルガーの子供たちを排除してきました。

 それに対しSpikinsさんは、ASDの持つ可能性をもっと発掘し、石器時代の人類が行ったように、ASDの能力を活かせる社会を作ることこそ、21世紀の目指すべき社会だと主張しているということです。

 さて、今年の2月22日に学術誌『サイエンス』に発表された論文によると、スペインの3カ所の洞窟で見つかった10点以上の洞窟壁画は6万5000年以上前のものだということです。

 実は、ショーヴェ洞窟の壁画も3万6000年以上以前に描かれたものとされ、ともに現生人類であるホモ・サピエンスが最初にヨーロッパに到達する以前の最古のアート作品であるとする研究者も多いということです。

 つまり、もしもこれが事実なら、これらの壁画の作者はホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人だということ。ネアンデルタール人は毛むくじゃらで粗野で知能も低いイメージがありますが、実はホモ・サピエンスと同等の認知能力をもっていたということでしょうか。

 実際、彼らは同じヒト属でもホモサイエンスより脳容量が大きく、人類史上最大の脳を持っていたことで知られています。このため、彼らが私たちホモ・サピエンスとは違う何かを考えたり、想像もつかない能力とか、現代人の物差しでは測れないものを持っていた可能性があると考える研究者も多いようです。

 さて、ネアンデルタール人とホモサピエンスの間には、過去のいずれかの時代において一定の交雑があったことが最近のDNA解析から明らかにされています。

 私たちの閃きや芸術的センス、そしてASD的な多様性は一体どこから来たものなのか?壮大な時間の流れの中に妄想は膨らみ、興味は絶えないというものです。



♯994 Daydream Believer

2018年02月14日 | アート・文化


 今日は St. Valentine's Day。

 テレビの画面からは、愛を告白する二人の映像とともに、聴きなれたラブソングが様々に流れてきます。

7-A…What number is this to?(え、(Take)7-Aだっけ?)
Okay, don't get excited man, it's 'cause I'm short, I know
(わかってるよ、あんまり大声出すなって。背が低くてよくわからなかったんだ。)

 収録スタジオでの(ジョークを交えた)こんなやり取りに続く軽妙なピアノのイントロフレーズから始まる楽曲は、アメリカのアイドルグループ「モンキーズ」が1967年にシングルリリースし、同年12月に週間ランキング第1位を獲得した「Daydream Believer」。

 2009年に惜しまれて亡くなった忌野清志郎(に「よく似た人」が)率いる「タイマーズ」が1989年に発表したカバー曲で、国内でも広く知られるようになりました。コンビニチェーンのセブン・イレブンが2011年から実に8年近くCMに使い続けているので、日本人には既にこちらの方が有名かもしれません。

 モンキーズは、デビュー当初からテレビを中心に活躍する商業ベースのバンドとして知られていたため、音楽業界では評価が低かったということです。確かに私の記憶でも、テレビでよく見かけた『ザ・モンキーズ・ショー』は、音楽番組というよりは(子供心にも)ドタバタのショートフィルムを組み合わせたアイドル番組という印象が強く残っています。

 1964年の結成当初はそれぞれ楽器も演奏できなかったと言われる彼らですが、1967年には音楽プロデューサーを変え、音楽性の高い楽曲をいくつも残すようになりました。その中でも、ワールドワイドで最も広く歌い継がれているのが、この「Daydream Believer」かもしれません。

 タイトルを直訳すれば「白昼夢を信じる人」となりますが、メロディはそんなに重いものではありません。歌詞の中身はずっと親しみやすい、自分を「白馬の騎士」と讃えてくれる女性のことを、朝のまどろみの中で想う「僕」の日常を描いた作品です。

 一般には、幸せな彼女との生活を夢見心地に暮らしている青年の姿を描いたものとされているこの曲ですが、当然ながらそこで彼が見ているのは(あくまで)「Daydream」なので、その日常は実は「現実」ではないと捉えることもできます。

 彼女は最初からいなかったのか、既にわかれてしまったのか、亡くなってしまっているのか。(いずれにしても)既に「そこにはいない」彼女を想う曲とも考えられているところです。

 そんなこともあって、実際、かなりシンプルなはずのこの曲の歌詞は、(半世紀もの歳月を経た今でも)様々な解釈がなされています。


「Daydream believer」

Oh, I could hide 'neath the wings
Of the bluebird as she sings
(あの囀っている青い鳥の翼の下(=彼女との夢の中)にずっと隠れていられたらいいのに)

The six-o'clock alarm would never ring
But six rings and I rise
(6時の目覚ましが鳴らなければいいのに。それでも鳴るから仕方なく起き出すのさ)

Wipe the sleep out of my eyes
The shaving razor's cold and it stings
(眠たい目をこすり、髭を剃っても冷たくてヒリヒリするだけ)

Cheer up sleepy Jean 
Oh, what can it mean to a Daydream believer and a Homecoming queen?
(起き出して現実に戻れ、寝ぼけたジーン(=僕)。学園祭の花形だった彼女の白昼夢を見ることに、一体、何の意味があるというんだい)

You once thought of me as a white knight on his steed
Now you know how happy I can be
(君は僕のことを「白馬の騎士」だと思ってくれたけど、そのことで、僕が今どれくらい幸せな気持ちでいられるかは分かるよね)

Oh, our good time starts and ends without all I want to spend
But how much, baby, do we really need?
(お金なんか全然使わなくたって、僕たちの楽しい時間は始まるし、終わってしまいもする。でも、僕たちがそうした時間を続けるには、本当のところいくらお金があればいいんだろう)

 さて、作詞・作曲を手掛けたジョン・スチュワートのこの歌詞を、忌野清志郎は次のように邦訳しました。


「デイドリーム・ビリーバー」

もう今は 彼女はどこにもいない 朝早く目覚ましが鳴っても
そういつも 彼女と暮らしてきたよ ケンカしたり仲直りしたり

ずっと夢を見て 安心してた
僕はDay Dream Beiliever そんで彼女はqueen

でもそれは 遠い遠い思い出 日が暮れてテーブルに座っても
Ah今は彼女 写真の中で やさしい目で僕に微笑む

ずっと夢を見て 幸せだったな
僕はDay Dream Beiliever そんで彼女はqueen

ずっと夢を見て 今も見てる
僕はDay Dream Beiliever そんで彼女はqueen

ずっと夢見させてくれてありがとう
Day Dream Beiliever そんで彼女はqueen

 彼が描いたのは、今はもう写真でしか微笑みかけてくれない、(恐らくは)亡くなった女性への思慕を綴ったものでしょう。

 (今から思えば)この生活がずっと続くと安心しきっていた二人の日常。そこに描かれているのは、もう決して戻ることができないそんなの夢のような「彼女」との時間を、今もDay Dreamのように心に浮かび上がらせる(ことしかできない)残された者の哀しみです。

 目覚しのベルが鳴っても、(彼女のいない今は)自力で起き上がるしかない。現実にたった一人で引き戻される孤独な朝の寂しさを、(彼女への)感謝の気持ちで振り払って「Cheer up(元気出せ)」と自らに言い聞かせる孤独な男の姿がそこにはあります。

 忌野清志郎は、そうした人生の切なさの様なものを(いつもの軽妙な節回しとともに)ラブソングに載せて唄うことのできる、(本当に)稀有なミュージシャンだったということでしょう。

 因みに(ある意味「謎解き」のようになりますが)、この歌詞は、清志郎が今は亡き二人の母への想いを綴ったものだと言われています。

 清志郎が「実の母」だと思って(ずっと暮らして)きた女性と死別した際、彼女が本当は「母の姉」(つまり継母)であり、実の母は清志郎が3歳のときに亡くなっていたことを知らされます。

 生前、清志郎が寂しさを感じないよう、(おそらくは妹に頼まれ)本当のことを隠して「実の母」として常に優しく接し続けてくれた。そんな彼女への「感謝」や、一度も会うことなく亡くなっていた生母に対する恋慕の気持ちを込めたのが、この「デイドリーム・ビリーバー」だったということです。

 「ずっと夢を見て安心してた」「ずっと夢を見させてくれてありがとう」…そう感謝の気持ちを込める彼の個性的なボーカルが、また違って聞こえる瞬間です。

 さりげない歌の一つ一つに人々が惹きつけられるのには、やはり(それなりの)理由があるのでしょう。そうした清志郎や(や彼が愛した彼女たち)の人生に思いを馳せながら、バレンタインデーの巷に流れる少しハスキーな歌声に改めて耳を傾けたところです。


♯969 トーベ・ヤンソンとムーミントロール

2018年01月16日 | アート・文化


 今年行われた大学センター入試の「地理B」の問題に、『ムーミン(Moomin)』の舞台に関する問題が出題され話題になっています。

 ムーミンは、スウェーデン系フィンランド人の女流作家トーベ・ヤンソン(Tove Jansson、1914~2001)が創作したキャラクターで、一般にはスウェーデン語で書かれたフィンランドの作品として知られています。

 しかし、ヤンソン自身はこの物語について「フィンランドが舞台」かどうかは明らかにしておらず、実際、スウェーデン大使館のフェイスブックには「ムーミン谷のモデルになったのはスウェーデン群島にあるブリード島です」との記述もあるということです。

 ツイッターでは「ムーミンの舞台はフィンランドじゃなくて(あくまで)ムーミン谷」といった書きもみも多くなされているようですが、確かに物語に描かれたムーミン谷は(「おさびし山」のふもとに広がる)無国籍で少しアナーキーなワンダーランドの印象です。

 そこにヤンソンが生み出したのが、架空の主人公「ムーミントロール」。トロールは北欧の民間伝承に登場する広い意味での妖精の一種で、(人間の目には見えないものの)人間によく似ていながら耳や鼻が大きく醜い外見を持つとされています。

 ムーミン谷には、彼らムーミントロールの外にも、人に似たミムラ一族の「ミー」やツチブタのような見た目の「スニフ」、孤独を愛する旅人「スナフキン」、大きな群れで永遠にさまよい続ける物言わぬ生き物「ニョロニョロ」など様々な妖精が仲良く暮らしているということです。

 トーベ・ヤンソンが描いた、このような(ある意味淡々とした)独自の世界観は一体どこから生まれたのか?

 1月14日のYahoo newsでは、ライターで編集者の石田雅彦氏が「パイプタバコとムーミンのパパ」と題する記事においてその背景に触れているので、備忘の意味でここにその内容を書き留めておきたいと思います。

 ムーミンと作者のヤンソンを理解するためには、まずフィンランドという国を知らなければならないと石田氏はしています。

 そもそもフィンランドとは、「フィン人」の国を指す言葉。モンゴロイドのDNAを色濃く残す彼らはヨーロッパの中でも特異な言語を持ち、その特徴は「恥ずかしがりや」にあると言われています。

 石田氏によれば、フィンランドは(そもそも)ナポレオン戦争のころまで国としては存在しておらず、独自の文化を保ったまま約650年にわたってスウェーデンの属領だった地域だということです。

 その後、帝政ロシアの属国として形ばかりの独立を勝ち取りますが、フィンランド大公はロシア皇帝であり、実質的にはロシアの植民地だったという過去を持っています。

 しかし、帝政ロシアが革命で滅亡すると、フィンランド国内の保守派はフィンランドの赤化を恐れたドイツ帝国とスウェーデン王国の支援を受け「フィンランド王国」として独立。その後、左右両派を巻き込んだ内戦を経て第一次世界大戦後の1919年に王政を廃し、フィンランドは共和国として現在まで続いているということです。

 フィンランドは、独立後も隣接する強大な旧ソ連から圧力をかけられ続けたことから1939~40年には旧ソ連と戦争を行い、続く第二次世界大戦でもナチス・ドイツ側について旧ソ連と戦った歴史を持っています。

 しかし、1944年には休戦して反転、対独戦争の火ぶたを切るなど、東西両陣営から一定の距離を置く絶妙な外交戦略を駆使して冷戦時代や旧ソ連崩壊後を乗り切ってきたと石田氏は説明しています。

 こうした歴史から、フィンランド国内には(現在まで)、社会民主的な穏健左翼主義が一貫して流れていると石田氏は言います。ムーミンの原作者トーベ・ヤンソンは、こうした歴史にもまれながら、母国語ではなくスウェーデン語を話す彫刻家の父とイラストレーターの母の間にヘルシンキに生まれたということです。

 フィンランドは北欧の中では保守的で伝統的な価値観を重んじる国ですが、ムーミンパパやムーミンママの生活ぶりに見るように、ヤンソンの中にもそうした伝統的・保守的な傾向が垣間見えるというのが石田氏の認識です。

 ヤンソンの表現は、当時のフィンランドで主流だった左派的な思想とは一定の距離を置いた穏やかなものだった。そして、こうした(地域性に根付いた)保守性が故に、彼女の作風はフィンランド国内の左派から批判され、その表現芸術は長く正当に評価されなかったということです。

 実際、スウェーデン語で書かれたムーミンなどの文字表現はフィンランド国内でなかなか受け入れられず、(また子ども向けではないと批評され)彼女の作品は長くヘルシンキ美術館への収蔵を断られたりしてきたと氏は指摘しています。

 一方、石田氏によれば、ムーミンに描かれる世界観はどこか非現実的で、ミシェル・フーコーが唱えた「ヘテロトピア(現実の中にある異次元的アンチ社会空間)」ではないかと指摘する研究者もいるということです。

 確かに、ヤンソンによって描かれたムーミン谷の不思議に現実離れした光景には、現実の社会生活などから隔絶された絶対的な孤立感のようなものを感じることができます。また、そうした世界観の象徴とも言える、自由と孤独と音楽を愛する永遠の旅人スナフキンに対し、そのボヘミアン的な生き方ゆえにあこがれる現代人も多いようです。

 同様に、彼に憧れ、彼を慕うムーミンは、いずれはこの閉ざされたムーミン谷を離れ遠い世界を見てみたいと夢見る(無力な)少年として描かれています。

 保守的な温かい家庭で伝統的な生活を営む(家族や谷の友達たちと楽しく暮らす)優しい少年は、それがゆえに、孤独な青年スナフキンの殺伐としたアナーキーなキャラクターに惹かれ、彼と共にどこか別の世界へ旅立つことを求めているということでしょうか。

 センター試験の正解は(たぶん)「フィンランド」でしょうが、そこに描かれたムーミン谷は、(もしかしたら)ヤンソンの心の中にある家族と暮らした生活や、一つ一つの思い出そのものなのかもしれません。

 そして、恥ずかしがり屋のムーミンを遥かな旅へといざなうスナフキンは、大戦後のフィンランドの若者に大きな影響を与えた(実存主義やシュールレアリスムなどの)西ヨーロッパ世界の新しい思想そのものだったのではないかと、石田氏の論評から私も改めて感じたところです。


♯967 太郎の屋根に雪降りつむ

2018年01月14日 | アート・文化


 冬型の気圧配置が続き、東北から北陸にかけての各地が例年の何倍という大雪に見舞われています。
 
 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 深々と雪の降り積もる静かな冬の旅の夜などに、ふと胸をよぎるこのフレーズ。真っ白い雪を載せた民家の屋根の下で布団を襟までかけ、すうすうと寝息を立てながら眠りに落ちていく幼子の姿が目に浮かぶようです。

 「雪」と題されたこの詩は、精神性の高い多くの叙情詩を残した昭和の詩人、三好達治(1900~1964年)の初期の作品のひとつです。東京帝大在学中に梶井基次郎らが主宰した同人誌「青空」に発表され、三好の第1詩集「測量船」(1930年)に収録されたものだということです。

 たった2行だけの本当に短い言の葉で紡がれながらも、日本人の心の奥底に深く入り込む独特のリズムと情景感が極めて印象深く脳裏に残る作品と言えるでしょう。

 私自身は三好の詩集などを改めて手にした記憶がないのですが、この詩は(以前は)現代国語の教科書などにも採録されていたということですから、おそらくそうした機会に接していたのだと思います。

 この言葉の繰り返しが何を意味しているのか、この次に、どんな言葉が続くべきなのかが(空中に放り出されたまま)一瞬では判断できない。それでも、閉塞的な静寂の中にある少しホッとする情景だけが鮮やかに浮かぶ、そんなシュールで不思議なイメージをこの詩は(人の心に)もたらすような気がします。

 太郎と次郎は兄弟なのか、友達なのかは分かりません。いずれにしても、静かな雪の降り積む夜、子らはそれぞれ別々の屋根の下でひとり夜具にくるまっている。

 子供ならではの日中のただ無邪気で幸せな時間があるばかりではなく、(子供であればこその)自分の力ではどうしようもない様々な事情がもたらした、親への思慕や孤独、無力感のようなものをそこに感じるのは私だけではないでしょう。

 そんな、遍く小さき者の上に、寂しさも悲しみも包み込むように雪が厚く降り積もっていく。雪は白く暖かく彼らの屋根を埋めていき、そしてそんな中での静かな眠りは、彼らにとって限りない慰めとなっていることでしょう。

 三好はこの「雪」のほかにも、いくつもの(日本人の心に届く)抒情的な詩を残しています。

 母を思慕した「乳母車」では
「時はたそがれ、母よ私の乳母車を押せ。 泣きぬれる夕陽にむかって、轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ。」と声を上げて詠っています。

 また、広く知られる「わが名を呼びて」では
「わが名をよびてたまはれ。いとけなき日のよび名もてわが名をよびてたまはれ。幼き日、 母のよびたまいしわが名もてわれをよびたまはれ。」と、母に残された幼き者の悲しみを(繰り返す)言葉に込めています。

 一方、その繊細さが故に、彼の人生は決して幸せに満ちた順風満帆なものではなかったと言われています。

 子供のころから神経衰弱に苦しんだ末、期待を背負って(ようやく)入った陸軍士官学校は自ら脱走し退校になりました。その後、帝国大学に入学したものの貧乏文士として赤貧に喘ぎ、離婚と再婚、復縁などを繰り返す中で、彼の純粋さはしばしば周囲の誤解を生み、人に傷つき、また人を傷つけることも多かったようです。

 少なくとも、器用に頑健に生きられる心や体(そして親の愛)を、彼は持ち合わせていなかった。そうした彼の弱さに由来する孤独感や頼りなさのようなものが、(太郎や次郎とともに)深々と降り積もる雪の下で暖かくるまれたいと願っていたのかもしれません。



♯622 Blowin' in the wind

2016年10月15日 | アート・文化


 1972年に若者の間で流行ったヒット曲「学生街の喫茶店」(ガロ)では、「学生で賑やかなこの店の、片隅で聞いていたボブ・ディラン」と唄われています。

 1960年代も中盤に入り、敗戦による混乱からから経済を立て直し人々がようやく新しい時代の風を感じ始めた東洋の島国でも、遠く太平洋を渡って届く彼の歌は(戦前から続く既成の価値観に疑問を抱き始めた)若者の間に強い共感を持って受け入れられていきました。

 10月13日、ベトナム戦争が激化していった1960年代の後半から70年代にかけて、反戦運動や公民権運動の旗手として世界の若者のカリスマとなったそのボブ・ディランが、今年のノーベル文学賞の受賞者となったとの報道が瞬く間に世界に広がりました。

 日本では、(これも「毎年恒例」と言ってもいいかもしれません)人気作家の村上春樹氏の受賞が今年も期待されていたわけですが、相手が(村上作品の中にもしばしば登場する)ボブ・ディランならしょうがないか…という声が、コアなムラカミストの間からも上がっているようです。

 ディランの受賞の発表を受け、国内のメディアは一斉に、フォークやロックといったいわゆるポピュラーソングの歌詞も文学的価値を持つと評価されたと、そのエポックとしての意義を伝えています。

 日本経済新聞では、10月14日の朝刊に東京大学名誉教授でアメリカ文学者の佐藤良明氏の寄稿を掲載し、今回のボブ・ディランのノーベル賞受賞が意味するところを氏の視点から分かりやすく説明しています。

 考えてみればボブ・ディランは、最高の文学的栄誉に輝いて当然のことを成し遂げていると、佐藤氏はこの論評で評しています。

 1960年代の社会や思想の混迷期に(颯爽と)登場した彼は、言葉によって若者を導き、文化の流れを変えたと氏はしています。

 彼に触発された若者たちはギターを持って自作の歌を歌い出し、(ジョン・レノンら)既に歌っていた人たちは歌詞を真剣に考えるようになった。つまり、(市井に暮らす若者からプロのミュージシャンまで)創作するという行為がディランの魅力とともに力を増し、広がりを持ち、社会を動かすようになったということです。

 さらに、佐藤氏は、ディランの功績を後の世から振り返ると、それまで対立していた概念や価値を融合させる端緒を開いていたことに気づかされると述べています。

 伝統の言葉と前衛の言葉、民衆の文化とエリートの文化などが、近代における分裂を乗り越えて繋がりあってきた過程を見てくると、その先頭にはいつもディランがいたという指摘です。

 しかし、そうした中でもこと「ノーベル賞」という権威の前では、「文学的秀逸さ」は音楽の場合よりももっと純粋に(ヨーロッパ的な)「エリート」の閉域に閉じこもる傾向を保ってきたと佐藤氏は説明しています。

 そして今回のディランの文学賞受賞によって、この「閉域」の扉が(大衆の前に)ついに開かれることになった。彼は、文学の力の根源を声と身体に引き戻し、さらにメディアを利用することで詩的コミュニケーションを最大限におし進めることに成功した立役者として、評価されるべき存在となったということです。

 一般的な議論として、優れた(純粋な意味での)「文学」が、人類全体を導く手段となり得るとは(今や)信じられていないと佐藤氏は説明しています。

 文学を志向する研究者の世界でも、既に研究の場は詩や小説ばかりでなく、映画やポピュラー音楽、ファッションなどに広がっている。また、こうした流れはもはや止められそうになく、現代に生きる私たちにとって「文学」は、既に商業文化の外側に位置するものではなくなっていると氏は指摘しています。

 文学の文脈が変わったのは事実であって、その変化を生み出す中心にディランがいた。彼はそのざらついた声で純文学を染め、文学もまたポップな帝国の中にあるという資本主義先進国の「常識」を、(今回の受賞によって)改めて世界に知らしめたということです。

 さて、佐藤氏の評価にもあるように、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の報は、「文学」という存在に対する伝統的な認識に、ひとつのエポックをもたらしたことは事実のようです。

 かつて文学が、経験を補い、知的好奇心を満たし、想像力を養うばかりでなく、感情を揺さぶり社会を変える力を有していた時代があったのは事実です。言い換えればそれは、そうした精神的、社会的な創造力を有するコミュニケーションの手法が、「文学」として評価されてきたということにほかなりません。

 ディランと同じく、今回のノーベル賞候補の一人と目されていたインド生まれの英国人作家、サルマン・ラシュディ(Salman Rushdie)氏は、自身のツイッターでディランの受賞を「素晴らしい選択」と評したということです。

 ラシュディ氏は、「(ギリシア神話の吟遊詩人)オルペウス(Orpheus)から(パキスタンの詩人)ファイズ(Faiz)まで、歌と詩は密接な関わりを持ってきた」との見解を示し、「ディラン氏は吟遊詩人の伝統の優れた伝承者だ」とたたえたと伝えられています。

 「The answer is blowin' in the wind(答えは風に吹かれている)」という(ある意味気負いのない)歌詞に伝統的な価値観の虚ろさや戦いの空しさを読み取った若者たちが、(それぞれの心の中に吹く風の中に「答え」を聴き取り)公民権運動やベトナム反戦運動に突き動かされていったのは、まさに時代の転換点に「彼」が居て、時代の思いを掬い取ったことの証だったのかもしれません。

 1949年生まれの村上春樹氏が、1979年に発表した自らの処女作のタイトルを「風の歌を聴け」としたのも、もちろん偶然ではなかったのでしょう。




♯453 YouTubeで「富久」を聞く

2015年12月23日 | アート・文化


 「冬は落語が上手くなったような気がする」…生前の談志がよくこう言っていたようですが、確かに冬場、特に年の瀬に聞く落語には、庶民の心に響く日本人独特の(ちょっと優しい)風情のようなものがあるような気がします。

 木枯らしが吹く日曜日の午後、湯呑に渋茶をたんと入れて堀炬燵などに入りラジオから流れる名人の小噺などを聞いていると、熊さんや八っあんに垂れる御隠居や大家さんの人生訓も妙にしみじみと聞こえたりするものです。

 巷の皆がせわしなく動き回っている歳の暮れ。大掃除やおせち作りに忙殺されている家の者からはあてにされず、「少し出てくるよ」と邪魔者ついでに抜け出して浅草や上野界隈の寄席に居座りを決め込むのも、(多少の後ろめたさも相まって)それはそれで楽しいものです。

 周囲を見渡せば、やはり同じような境遇のじい様方の笑顔がたくさんあって、今年もいい年の瀬になりましたねと、一緒に幸せな気分に浸ることができます。

 この時期の落語と言えば、「芝浜」、「掛取り」、「穴泥」などが思い浮かびますが、いずれも借金や酒の失敗にまつわる、(ちょっと心温まる)ストーリー性の高い演目です。気が付けば噺家の世界に取り込まれ、一緒に寒空の下を走ったり、凍えた体を温める熱燗にあり付いたり、借金取りをごまかしたり女房に叱られたりしている自分に気が付きます。

 最近は、パソコンやインターネットなどという昔は想像すらできなかったような道具が普及していて、既に鬼籍に入った大名跡の名演などを、自宅に居ながらにして楽しむことができるようになりました。また、You Tubeなどという便利な動画サイトもあったりして、名人芸をその所作の細部に至るまで、必要があれば繰り返し堪能することが可能です。

 さて、そうした暮れの定番演目のひとつに、「富久」があります。

 富久と言えば、年の瀬の江戸らしく「火事」と「酒」と「富くじ」という三拍子がそろった大変賑やかな演目で、(三代目)古今亭志ん生、その長男の初代志ん朝、テレビなどでも活躍した次男の三代目志ん朝の名人親子が十八番のひとつとしていたことでも知られています。

 今年の暮れはこの3人に加え、八代目文楽、人間国宝の小さん、そして談志と、計6人の大看板の富久を、ネットを通し何日か掛けて改めて聴いてみました。

 浅草三間町の長屋に住む幇間の久蔵は、酒癖が悪いのが玉に傷。御贔屓筋をしくじって女房にも逃げられ、今ではひとり寂しい貧乏暮しをしています。

 そんな暮れのある日、知り合いから偶然買った富札を神棚に供えたまま酔いつぶれてしまっていた久蔵は、贔屓の旦那の家がある芝近くで火事との知らせでたたき起こされます。おっとり刀で駆けつけて何とか旦那のご機嫌をとりなおしたまでは良かったのですが、そこでまた酒を飲んで酔っ払ってしまう。

 ところが今度は浅草方面が火事との知らせでまたたたき起こされ、あわてて駆け戻ってみると、長屋は家財もろとも既に丸焼けのあり様です。

 数日後、たまたま通りかかった富くじの抽選会で、久蔵は以前買った富札が見事千両当たっていることを知らされます。確かに当たっていたのに富札は火事で灰と化し、一文の賞金にもありつけない。嘆く久蔵が肩を落として歩いていると、ばったり会った顔なじみの鳶の親方が、「そういゃ、おめえんところの神棚預かってるぜ」と。

 こうして当たり札を手にした久蔵は、「これも大神宮様のおかげです。これで方々に『おはらい』ができます」と(借金の支払いと「お祓い」をかける)落ちをつけ、この噺は締まります。

 志ん生の久蔵はぱりぱりの江戸っ子で、「てやんで、このやろう」といった勢いが魅力的。初代志ん朝も親子だけに良く似た風情なのですが、加えて少し気弱な印象がこれもまたよし。三代目志ん朝は持ち前の真面目さがうまく出ていて、久蔵にも律儀な庶民の姿が浮かびます。

 文楽の久蔵は、幇間らしく少し斜に構えた芸人の体であり、小さんは相変わらずのゆったりとした芸風で、久蔵ものんびりしたいい味を出しています。そして談志が描く久蔵は、やっぱり少しいい加減で、酒にだらしない八方破れの迫力があったりします。

 いやはや落語というのはいかに話し尽くされた古典であっても、やっぱり噺家の送ってきた人生そのものが、ほんのり…というかしっかり出てくる所にその魅力があるようです。逆に言えば、噺家というのは大勢のお客様に自分の人となりをさらけ出してなんぼの稼ぎをする、因果な商売と言えるのかもしれません。

 今回、聴いた6人の名人は、いずれも既にこの世を去って久しい人達です。しかし、こうした落語の登場人物の中に、そして落語ファンの記憶の中に彼らの人となりがしっかりと生き続けていることを、私も改めて確認した次第です。



♯308 「現代アート」って何?

2015年02月26日 | アート・文化


 1月29日の「BOOKSTAND」(Web本の雑誌)では、真面目で几帳面な日本人にとっては極めてとっつきにくい存在である「現代アート」の価値を理解するための第一歩について、興味深い解説を試みています。

 記事では、例えば男性用の便器をひとつの作品として展覧会に出品したマルセル・デュシャンの「泉」や、女優マリリン・モンローの肖像画やキャンベルのスープ缶を克明に描いたアンディ・ウォーホルなどについて、「これをどう解釈したらいいのか分からない」「どこがすごいのか判断できない」と悩む日本人が多いのではないかとしています。

 一見、「芸術」という言葉が紡ぎだすイメージとはかけ離れた存在のように見えるこうした「現代アート」は、普段の物事への見方に対して新たな視点を投げかけたり既存の価値を疑ったりと鑑賞者に多くのメッセージを発しているという点において、実はどの作品にも共通した訴求力があると記事は指摘しています。

 多くの優れた現代アート作品は、見る人に「この作品の存在する意味」を一緒に考えてほしいというメッセージを託している。逆に言えば「どうして自分はこの作品を美しいと思えないのだろう」「どうしてこの作品の価値が分からないのだろう」という腑に落ちない不安な感覚を鑑賞者に与えること自体が、現代アートの存在する意味のひとつではないかと筆者は考えています。

 アートは、鑑賞する人、読む人がいてこそ初めて完結し、成立する。アーティストの息づかいが感じられる作品と、その作品がもたらす空間の変化や不思議さを体験することが、その存在を「アート」とすることができるたったひとつの条件ではないかというのが、この論評の眼目です。

 ひと口に「現代アート」と言っても、絵画、彫刻からダンス、パフォーマンスまで、アーティストによりその表現方法は千差万別です。

 シンガポールビエンナーレ(2006)などを監修するキュレーターのロジャー・マクドナルド氏は、日本経済新聞社が刊行した「現代アート入門」(2012.4.5)において、こうした「現代アート」の特徴を「歴史や社会、人の生き方を含めて問いかける『同時代性』にある」と定義づけています。

 例えば、現代アートの父と呼ばれる先に述べたマルセル・デュシャンは、工業製品である男性用小便器をオブジェに見立てることで、「古典的な美」という規制の概念(権威)に疑問を投げかけました。

 現代アートのアーティストたちは、このように「芸術」がそれまで纏ってきた崇拝されるべき権威としての固定観念を打ち壊し、日常の空間や経験の中に取り入れることで鑑賞者に様々な驚きや発見を提示しているということです。

 こうして「現代アート」はオブジェや絵画だけでなく、アイディアや言葉という非物質的な領域にまで拡大し、脳内のイメージデータベースに刺激を与える存在に拡張してきたとマクドナルド氏は述べています。

 その一方で、現代アートは「ビジネス」の世界でも注目されるようになっており、特にクリエイティブなビジネスの現場では、仕事や職場にアートを取り入れることが想像力の増進に繋がるものとしてその効用が期待されているということです。

 また、企業ばかりでなく、街づくりや地域おこしの領域においても現代アートは欠かせない存在となりつつあります。実際、現代アートは世界中からアーティストや観客を呼び込むと同時に、地域に暮らす人々を活性化させてきた経験則から、外に向けて開かれた地域社会を創造するためのツールとして活用されつつあります。

 マクドナルド氏は、現代アートには、社会をクリエイティブに変貌させ都市に付加価値を与える力があると指摘しています。そしてこのことは、私たちの心の中にアートを見る喜びや感動が根源的に存在していることを示唆しているということです。

 中高年を中心に、現代アート(の良さが)が「よくわからない」という声をしばしば耳にします。しかし、実はアートを「印象的なもの」として選び取る感性は、有史以前の昔から私たちの生活の中で紡ぎこまれているものなのかもしれません。

 例えば日常的に来ているTシャツのプリントを、私たちが何を「基準」に選んでいるのかを考えれば解り易いかもしれません。

 誰でも一枚や二枚、気分が良い時に着たくなる「お気に入り」のTシャツがあるはずです。

 好きなデザインやインパクトのある色、柄、主張など身近に置くことで得られる高揚感。こうした気持ちが生まれてくるのは、私たちが既にそうした表現そのものを、自分にとってかけがえのない、大切なものとして認識していることの証左ではないかと感じるところです。

 かつて、日本を代表する現代アートの巨匠岡本太郎は、テレビカメラに向かって「芸術は爆発だ」と叫びました。

 戦後の復興から高度成長にかけての社会のパワー背に受けながら、それに対抗するアンチテーゼを全身で表現した岡本との同時代性を、吹田市の千里丘陵に今も残る「太陽の塔」が持つ存在感に感じる世代も多いのではないでしょうか。

 何故かはわからないけれどどうにも気になる。人の心を「触発」し活性化させる…そうした不思議な存在を現代の人々は「アート」と呼んでいるのかもしれないと、私も改めて感じたところです。